沖合のサンゴ礁にぶつかった波が、ざん、と大きな音を立てて白く泡立つ。その波の衝撃を受けて、垂れ下がった浮きもゆらゆら揺れたけど、ページワン様は竿を引く気配はない。ゆらり、ゆらゆら、ざぱん、ゆらり、の繰り返し。
かれこれどれくらいの時間が経っただろう。岩場に腰かけて釣り糸を垂らすページワン様を見つめながら、ぎゅっと下唇を噛んだ。

「ページワン様、退屈です」
「お前が連れてけって言ったんだろ……」
「そうなんですけど、あまりにやることがなくて」

朝方、釣りの道具を持って出掛けようとしていたページワン様の腰にしがみついて、連れてってと強請ったのは間違いなく私だ。だけど、朝から魚なんて全然釣れてないし、ページワン様も口数少なにぼうとするばかりで、いい加減に手持ち無沙汰だった。

「ここ、本当に魚なんているんですか」
「まァ、いたりいなかったりだろ」

ページワン様越しに海を覗き込んでも、青の濃い水面の向こう側は何も見えず、そこに生き物がいることどころか、この先が深い深い海底まで繋がっているということさえも上手く想像できない。ゆらゆら揺れるばかりの浮きをしばらく睨んでいると、ページワン様が大きなため息を吐き出した。

「暇ならその辺、散歩でもしてこいよ」
「……せっかくページワン様と一緒にいられるのに」
「もうすぐ切り上げる」
「私のために?」

顔をのぞき込むようにして尋ねれば、ページワン様の頬にわずかに朱が差して目を逸らされる。だからつまり、あと少ししたらページワン様は私のために釣りをやめて、一緒に帰ってくれる。そしてたぶん、そのついでといってどこかで寄り道もしてくれる。
そう思ったら、ふふふっといかにもだらしない笑いがこぼれてしまった。ご機嫌になって岩場を飛び降りて広い砂浜に着地する。トンと、音を立てた私の靴底は、風に撫でられてまっさらな砂浜に綺麗に揃った足跡を残した。

風による風化、波による侵食、あるいは堆積。そうしたものの繰り返しを経て、幾億という時間の果てにこの地があるのだという軌跡。そして同じだけの時間をかけてまた変化は繰り返される。私とページワン様の生きた場所もまた、ずっと同じ形でいられるわけではないという事実。

「おっ、綺麗な貝殻」

砂に埋もれかけた巻貝が太陽の光を浴びて虹色に光る。それを拾い上げて中を覗き込んでみたけれど、何もない空洞が広がるだけだった。なんとなくそれを耳へとあててみる。ごうごうと響く波の音。

貝の中には百年以上も生きるものがいるのだと聞いたことがある。ただじっと時が流れるのを待つのは、どういう気持ちなのだろう。百年という長い時間を、どうすれば何も見失わずにいることができるのだろう。
そのときふと、死んだあとの貝はどこに行くのだろうと不思議に思った。かつては、この中にあったはずの命。鼓膜には変わらず波の音が響き続ける。

──海になったのかもしれない。

この小さな穴の向こう側に広がる海。死んだ貝は、きっと海になるんだ。長い時間、海のそばでその姿を見続けてきたから、溶けてそのまま海になってしまう。

貝殻を耳から離して顔を上げる。岩場に座っているはずのページワン様の方を見ようとしたけど、太陽の光の眩しさに思わず瞳を眇めてしまう。視界が滲んで、海と空の青さをいり混ぜたまま、ページワン様の背中が歪む。
見失ってしまう。
そんなはずないのに、心の奥底が焦りに揺れて、気がつけば走り出していた。こんな広い砂浜で離れ離れになってしまったら、何の標も持たない私は簡単に迷子になってしまう。









ページワン様のもとに戻って、後ろから貝殻を握ったままの手を伸ばす。だけど、その手は途中で後ろを向いたままのページワン様に掴まれてしまった。ページワン様の顔の隣くらいで、ガッと掴まれた私の手首。驚かせたかったはずなのに、ひゃあ、なんて私の方が情けない声を出してしまう。

「……よく、気づきましたね」
「気づくだろ、普通」

へたり、とそこに座り込むと、ページワン様は渋々といった様子で振り返った。その呆れた顔は、もう見慣れたものだ。

「さすが飛び六胞ですね」
「もともとナマエは気配を隠すのが下手なんだよ」
「うわ……結構マジのダメ出しをくらって傷つきました」

あからさまに項垂れてみたけれど、ページワン様の反応はなく、代わりにその視線が私の手元へと移ったのを感じた。

「それで、なんだよ。その貝」

ああ、と顔を上げて、貝殻を顔の前まで待ち上げる。虹色の光沢を持つ手のひらサイズの巻貝が、光を浴びてキラキラと輝く。

「波の音がするから、ページワン様にも聞かせてあげようと思って」
「そんなの聞き飽きてるだろ」

ページワン様が眉根を寄せて水平線を見遣ると、タイミングよく波が岩場に打ち付けた。ざぱん、と響く荒々しい波音。
まったく違うのだ、と不意に思う。この貝の中に在る海は、もっと静かな波が寄せては返すだけで、静寂に凪いでいる。長い年月を海辺で過ごした貝の見る柔らかな夢だから。
そうやってページワン様にも伝えたいけど、そのまま口にしたら、あまりに感傷的すぎる気がしてほどよい言葉が見つからない。だから仕方なく、唇を窄めて拗ねたフリをする。

「貝殻の中からするからいいんじゃないですか」
「変わんねェよ」
「……ロマンがない」

ページワン様が興味無さそうにため息を吐き出す。「いらねェだろ、ロマンなんて」そう呟かれた言葉が、鈍く胸に突き刺さった。不自然に俯いてしまいそうになって、ぐっと耐えると、無理やりに上げた視線が青空にぽつりと浮かんだ小さな雲をとらえた。

「いりますよ、私たち海賊だし。それに何か信じられるものがあったら安心するから」
「信じる?」

言葉尻が揺れてしまう。ダメだ、と思ったけど、ページワン様はやっぱり見逃してくれなくて、片方だけ覗いた瞳がじっと私を見据えた。
ときどき襲い来る嵐のような不安。それが何に由来するものかは分からないのに、逃げ場なく何度も何度も波に飲み込まれそうになる。大海原に放り出されるどころか、自分から進んで海に出たくせに、その広大さが怖いなんて馬鹿げてる。そう分かっているから、何とかして誤魔化したいのにページワン様の瞳が、私を見つめて離してくれない。

「たとえば百年……くらいじゃ変わんないか。もっと、もっと時間が経って、私がまたこの場所に産み落とされて、そのときに迷子にならずにページワン様まで辿り着けるって、ロマン」

せめて茶化すようにして、へらりと笑ったけど、ページワン様のまなざしは真剣で優しかった。さっきまでの面倒くさそうな感じも呆れもなくて、「聞いてやるから話せ」って言葉はないのに伝わってきてしまう。困る、と思う。そんなふうに優しくされたら、逃げ場がなくなって、縋ることしか出来なくなるから。

輪廻転生、というものを、なんとなく散策していた書庫で知ったのは少し前のことだった。随分と頓狂なことを考えると思ったけど、それが嘘ではないこともまた誰にも説明できないんだと思ったら怖くなった。
もしも本当に、私がまたこの世界に産み落とされてしまったとして、山も川も形を変えていて、右も左も分からなくなって、一人きり荒野に取り残されることになったら、どうしようなんて、意味もないことだとわかるのに頭から離れない焦燥。

「蝶って自由に飛んでいるように見えるけど、ちゃんと辿る道があるんですって。そういうのが、羨ましい」

たとえば、この海に取り残されたとして、怖いのはそこに蔓延る暴力の群れではなくて、目指すべき場所が分からないことだった。ページワン様がいなければ、私は光の射す方向も分からない。
話しているうち俯いてしまった視線は岩肌を見つめる。手に持ったままの貝殻を握り直すと、ざらりとした感触と尖った先端が指先に食い込んだ。

「馬鹿なくせに、そうやって余計なことばかり考えんのやめろよ」
「……失礼な」

黙って話を聞いてくれていたページワン様の声に、あからさまな呆れの色が滲む。ムッとしたフリをしつつも、こんな話をしてもいつも通りのページワン様の声に安心もしている。だけど、顔を上げた先で私を見つめるページワン様の瞳が、思っていたよりずっと切実そうで息を飲んだ。

「時々、お前がふらりと消えそうな気がするときがある」
「え?」
「戦闘中、どこかに意識が飛んでる後ろ姿にヒヤヒヤする。夜、どこかに出歩いて、そのまま戻ってこない気がする時がある」

目の前にいるはずのページワン様の声が、もっと遠く、あるいは空高くから降ってくるような錯覚。何を言ったらいいのか分からなくなって戸惑っていると、ページワン様の手がするりと伸びて、私の手と重なった。
強く握りしめたままだった貝殻が取り上げられて、ことり、と岩の上に置かれる。
そしてそのまま、まるで壊れ物でも扱うような慎重な手つきで指が絡められる。その光景を、気息の物音すらたてないように見守る。

「だから、繋いでおく」

強く握り締められた手のひらは、言葉の通り私たちを強く繋ぎ止める。あるいは、言葉以上に、もっと多くのものを包括して、私たちの根源的なものから重なり合っていくような。

「百年とか、その先とか、分かんねェし、正直考える気もねェけど……とにかく、今は放さす気もないって約束をし続ける。だから、それで満足しとけよ」

それだけ言うと、ページワン様はふいと視線を逸らした。マスクの隙間から覗き見える頬はわずかに赤い。何も変わらない、いつも通りの光景だと思ったとき、途端に波音が大きく鼓膜に届いた。それだけじゃなく、海鳥の鳴き声や遠く港のざわめきまで。
私たちが手を握りあって言葉を交わしていた間も、変わらず響いていた音が、この瞬間に急に鳴り始めたような鮮やかさを帯びる。

ページワン様に何か言おうとしたけど、そっぽを向いたままの横顔は何も言うなと告げている。だから代わりに、開きかけた唇を閉じて、そっとその肩に額を寄せる。
こうやって約束を繰り返して、今生をページワン様の傍で添い遂げる。そしてきっと、あるかないかもしれない来世以降も、飛ぶべき道を知る蝶のように、この手のひらのぬくもりを頼りに目指すべき方向を見つけ、この場所に辿り着けるだろう。





海神の貝殻


back : top