溢れんばかりの光しかない、まっさらな世界がある。
私はそこに、ひとり立ち竦んで天を仰ぐ。すると、トントンと地を叩くような軽やかな音が聞こえて、世界は輪郭を手に入れる。何かのぶつかり合うような音、水の流れる音がして、世界に色が生まれる。
こうして毎朝、私の世界は創り出されている。







カーテンの隙間から洩れ出した朝日が顔に当たって、唸りながら身体をよじる。布団を手繰り寄せようとした勢いでシーツを叩くと、ふわりとよく知る煙草の残り香が鼻腔をくすぐった。
昨晩、一緒に眠ったサンジくんの姿は隣にない。それに、寝室では煙草を吸わない約束だから、起きてからベランダで一服した後、朝食を作る前にもう一度この部屋に戻ってきたんだろう。何のために、なんて問うまでもなく分かる。

大学進学を機に始めた一人暮らし。そのアパートの近くのレストランにたびたび通ううちに、お店の店員だったサンジくんに恋をし、お付き合いをさせてもらうようになった。二人でこの部屋に移り住んでから、もう一年以上が経とうとしている。
出会った頃はただの大学生だった私は、今では新米ながらもなんとか社会人をやっているし、サンジくんも数ヶ月前から分店の店長を任されている。

関係や立場、様々なものを変化させながら、私たちは同じだけの時間を過ごしてきた。その間、毎日ちゃんと顔を合わせているのに、こうして飽きもせず愛されている。毎日のように耳にする囁くどころか叫ぶ勢いの愛の言葉を「はいはい」なんて聞き流すフリをしながら、こうして残り香ひとつ取り漏らさないようにしているのだから、私もやっぱり、どうしようもないくらいに愛しているってことなんだろう。

布団の中で転がりながら、そんなことを考えているうちに目も覚めてきて、いつもより少し早いけど起き上がることにした。ベッドから這い出して、床に足をつける。裸足の肌から伝わるフローリングの冷たさが、今日も世界がちゃんと出来上がっていることを教えてくれる。








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キッチンの扉を開けると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。我が家の朝ごはんは毎朝サンジくんが作ってくれることになっている。「仕事で散々作っているんだから、家でくらいゆっくりしたら?」と同棲を始めた頃に言ったけど、仕事の都合で夜は各自でとなることも多いから、せめて朝くらいは作りたいんだ、と押し切られてしまった。それ以来、私の朝は毎日、サンジくんの作る朝ごはんの香りに包まれて始まる。

匂いだけで今日の朝ごはんが何かを当てようとしていたら、音に気づいたサンジくんの顔がこちらに向いた。

「おはよう、ナマエちゃん。いつもより早いね」
「うん、目が覚めちゃって。今日はパンケーキ?」
「あァ、そうだよ」
「サンジくんのパンケーキ、久しぶり」

サンジくんの元にまで近寄って手元を覗き込むと、柔らかな黄色をした生地がとろとろとかき混ぜられているところだった。傍らに置かれたベーコンと卵。そういえば、最近こんな朝食のシーンをどこかで見たことがある気がする。

「あっ、この前、一緒に観た映画!」
「正解。ナマエちゃん、食べたいって言ってたろ?」

言った本人でさえ忘れてるような些細な一言を、ちゃんと覚えていて、こんなふうに叶えてくれようとする。またひとつ集めてしまった愛のカケラを、ぎゅっと胸の奥に大切にしまい込みながら、サンジくんの背中に抱きつく。

「こら、危ないだろ?」

そうは言いながら、サンジくんの手つきは、私が抱きついてくるなんてこと始めから予想してたみたいに変わりなかった。背中に頬を押し付けると、シャツ越しにサンジくんの体温が伝わってくる。甘いパンケーキの香りと、サンジくんのにおいが混ざりあって、幸せだなって実感する。ここはまるで、満たされすぎて幸せが形を持ってしまった空間みたい。

そんなことを考えていたら、ふと朝起きたときのことを思い出した。本当なら夢と一緒に消えてしまうはずだった感覚が、今朝は朝焼けに照らされる前の靄のように、うっすらと胸の内に残っていた。

「サンジくんは、私の世界の創造主なんだよ」
「え?」

生地の入ったボウルを置いて、フライパンを取り出そうとしていたサンジくんが驚いたように身動ぎをする。私の顔を覗き込もうとしたみたいだけど、しっかりと背中にくっついてしまっているから見えないだろう。

サンジくんから離れて立ち上がると、私の言葉をどう受け取ったらいいのか迷っているといいたげな表情。付き合ったばかりの頃は、突拍子もないことを口にしては、よくこうやってサンジくんを困らせていた。最近は慣れてきたのか、程よくあしらわれることも多くなっていたけど、それがまた雑とは違う絶妙な塩梅で、これも愛だな、なんて思っていた。だけど、久しぶりに私の言葉に翻弄されるサンジくんを見るのも悪い気がしなくて、思わず得意げな笑いが溢れてしまう。

それを見ていたサンジくんが降参だって言いたげに肩を竦めて、今度こそ取り出したフライパンを火にかけた。カチリ、と音がして、青い炎がゆらゆら揺れる。

「朝、目が覚める直前に真っ白な世界があって、サンジくんが朝ごはんを作ってくれる音がするたびに、そこに世界が出来上がっていくの」

歌うみたいに、あるいは物語るみたいに私の唇が紡ぎ出す言葉に、サンジくんは黙って耳を傾けてくれた。何かを切る音で世界は輪郭を伴って、香り立つ芳ばしい匂いで世界は記憶を与えられる。
熱したフライパンが布巾に当てられ、じゅっと音を立てた。

「毎日そうやって世界を作ってくれるサンジくんは、七日もかけて世界を作って、その後は放りっぱなしの神様より、ずっと働き者だよ」

フライパンの上に黄色い生地が丸を描く。あとは、ふつふつと焼き上がるのを待つだけだ。ボウルを置いたサンジくんが片手で私を抱き寄せる。

「それは、この地球上すべてって話かい?」
「ううん、サンジくんが作るのは、このアパートの部屋ひとつだけ。私とサンジくんの二人きりの世界」

二人きりの世界。そう口にしてから、それって凄く素敵だなと思う。扉を開けて外に出れば、そこには神様が作ったっていう少し乱雑な世界が広がっていて、私たちもまた、そんな世界を構成する一断片となる。だけど、この部屋の中でしっかり鍵をかけて閉じこもっている間は、私たち二人だけの世界。私はサンジくんの被造物のひとつになって、丁寧に作り上げられた優しい世界で目を覚ますことが出来る。

サンジくんに抱きしめられたまま顔を上げると、愛おしさを押し隠しもしない瞳と目が合った。その後ろに置かれた、いつの間にか随分と葉の伸びた観葉植物。この部屋の決め手のひとつでもあった、キッチンの明り取りの窓のレースのカーテンも随分とよれてきている。そういう時間の流れの一つ一つが、私たちにとっての愛なんだろう。

「だからさ、もしも外の世界では星が降ってくるって騒ぎになっていたとしても、この部屋にいる私たちには関係ないの。サンジくんが作ってくれたこの世界では、それよりも美味しいパンケーキが食べられるかってことの方が一大事だから」

そう言って笑えば、サンジくんは少し驚いたみたいに眉を上げて、それから同じように笑ってくれた。「それなら、まかせてくれ」と柔らかな声が降ってきて、前髪をよけるように撫でられる。そうして額に落とされたキスは、神様のくれる祝福みたいに幸福に満ちている。








ワンルーム創造神話


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