燦々と降りしきる太陽の光に瞳を眇めながら空を仰ぐ。雲のない青空は淡いグラデーションを描きながら色を濃くしていく。そんな青一色の世界を切り裂くようにして、一羽のカモメが飛んでいた。
木の影に寄りかかるように座り込みながら、そんな光景を眺めていると地上の感覚がよく分からなくなる。私は今、間違いなく地に足をつけているのに、目を閉じると地面なんてどこにもないかのような浮遊感。そして、目眩。

「バテてんなァ」

突然降り掛かってきた声に瞼を開けると、見慣れた顔が呆れたと言いたげに私を見下ろしていた。エース、と目の前の男の名前を呼ぶ。エースは返事もせず、代わりに私の隣に腰を下ろした。

「……暑すぎるよ、この島」
「夏島につくたびに言ってんだろ、それ。いい加減、慣れろよ」

しょうがないでしょ、冬島育ちなんだから。お決まりの返し文句を口にしようとしたけど、確かに言い飽きてきたような気もして口を噤む。そんな私の前に、エースの手のひらに乗せられた赤い果実が差し出される。

「何これ?」
「あー……なんつったか? とりあえず、そこで売ってた。この島の特産らしいぜ。食ってみろよ」
「……え、本当に食べられるの?」
「食えるに決まってんだろ」

思わず身構える私に、エースが不愉快そうに顔を顰める。こんな身の上で生きてきたからには、それなりにサバイバルには慣れたものだと思っていたけど、エースはじめとする多くのうちの船の男たちと胃の頑丈さを同じに思ってはいけない。そのせいで痛い目にあったことは一度や二度ではないんだから。

おそるおそる受け取った果実に口をつける。よく見るとうっすらと産毛の生えた柔らかそうな皮は、簡単に歯で食い破れる。すると、そこから溢れ出す果汁は驚くほどに甘く、果肉も瑞々しかった。

「……美味しい!」
「だろ? ナマエが好きそうだと思ってよ」

その言葉に、得意げに笑ったエースの顔をまじまじと見つめてしまう。

「私のために、わざわざ?」
「おう」

それがどうした、とでも言うような衒いのない返事。他意のない優しさは、なんとなく気恥ずかしくて、俯くようにしながらもう一口果実をかじった。口の中が南国らしい太陽みたいな鮮やかさの味でいっぱいになっていく。



──○月✕日
久しぶりにエースの夢を見た。夢、というよりは懐かしい夏島での思い出そのものだった。あの南国の果実は、今では各国に流通しているらしく、昨日市場でも、その姿を見かけた。買おうか悩んで買わなかったのだけど、たぶん、そのせいでこんな夢を見たのかもしれない。今日、やっぱり買ってこようと思う。









しんしんと降り積もった雪が世界を白く染めている。月のない夜なのに、不思議とあたり一面がほの明るい。重たそうな雲の垂れこめる雪催いの空。

「あー、寒い寒い! エース、火! 火だして!」
「なに他人で暖を取ろうとしてんだよ」
「いいじゃん、減るもんでもあるまいし」

サクサクと雪を踏む音を響かせながら隣を歩くエースに両手を差し出して懇願すると、ため息を吐き出しながらその指先から炎が燃え立つ。
じんわりと熱が手のひらを温めて、この極寒の大地の上で凍えかけていた身体に染み渡っていくようだ。

「なんで、こんなクソ寒い中、買い出しなんて行かなきゃいけないんだって感じ」
「お前がゲームで負けたからだろ。関係ねェのに付き合わされてるおれの身にもなれよ」
「お酒重いんだもん。か弱い女の子一人には無理だって」

か弱い? とやや棘のある声で呟かれた気がするけど、炎の恩恵にあやかっている以上、下手に突っかかることも出来ない。聞かなかったことにしようと頷きながら、視線が自然とエースが持ってくれている袋へと向く。

酒瓶のほとんどはエースが持ってくれていて、私の手にあるのは船でおつまみにしてもらうための食材が少しだけ。本当はもっと平等に分けるつもりだったのに、重いものばかりをエースが勝手に持ってしまった。
それが、あえて口を挟むのも変な感じになるような自然さだっものだから、黙ってその行為に甘えてしまっている。
上手く言葉にできないむず痒さを抱えながら、視線をまた前に向けようとしたとき、不意にエースと目が合った。

「つーか、冬島育ちはどうしたんだよ。こんなの慣れたもんだろ」
「故郷のことなんて、もう忘れたさ」
「お前なァ」

呆れたと言いたげなエースの声は、どこか楽しそうでもあって、それにつられて私も笑ってしまう。ほのかな光を包んだ薄い夜と一面の銀世界に、私たちの笑い声だけが響いていた。



──○月✕日
肌寒さで目を覚ます。最近はよく夢にエースが出てくる。そんなこともあったな、なんて何気ない思い出。
あの戦いで失った多くのもの。喪失が大きすぎて、あのままではいられなかった。海も船も捨てて、陸に住むことを決めてから、もうすぐ一年になる。なんで今さらエースの夢ばかり見るんだろう。










ガーゼやら包帯やらで固められた肩がなんとも動かしにくい。血は止まったものの、かなり深くまで斬り裂かれた傷口は治るのにはしばらく時間がかかると言われてしまった。完全に油断していたな、と自省しながら船内をとぼとぼと重い足取りで歩く。

思い出すのは、敵の振りかざした剣の切っ先の鋭さと、飛び散る自分の血潮。そして、その鮮血の向こうで怒鳴るエースの声。

「ナマエ」
「……エース」

顔を上げると廊下の壁に寄りかかるようにしてエースが立っていた。私を待っていたことは聞くまでもなく分かってしまう。

「怪我は」
「少し、縫った」

本当はかなり縫われたのだけど、そのまま口にしたくなかったのは下手な強がりと、バツの悪さからだった。だけどそんな私の嘘なんてお見通しなのか、エースは睨むように瞳を細める。

「……なにやってんだよ」

その声が孕んでいるのは紛れもない怒気だ。怒られている。思わず肩を竦めると痛みが走って、小さく呻き声が漏れた。
あの時のエースの怒鳴り声。あれは私を斬りつけた男ではなく、ただ真っ直ぐに私に向けられたものだった。背後を取られたことにも気付かず、斬られて始めてその存在に気づいた私を咎めていた。

「少し、気抜けてんじゃねェか」
「……すみません」

いつも軽口を叩いているせいで忘れがちになるエースの強さと隊長としての立場。項垂れる私を残して、そのまま立ち去っていく背中。そこに背負った誇り。それは、この船の一員である私もまた背負うものであることに違いなかった。白ひげの名を語りながら、あれしきの敵にやられるなんて、なんて情けない。

怪我をして、クルーの多くは心配や慰めの言葉をかけてくれた。それはエースが怒ることを知っていたからだ。彼らは私を叱る役目をエースに譲ったにすぎないのに、優しく気遣われることにへらへらと腑抜けていた自分が恥ずかしい。

拳を握りしめて、唇を噛み締める。泣かないことはせめてもの矜恃だ。強くならなくてはいけない。もっと、もっと強く。何も失わないために。胸を張って、この船の一員と言えるように。
そして、エースの隣に立つことを許されるように。



──○月✕日
私は、たぶん、エースのことが好きだった。








「めっちゃ、花!」
「感想が単純すぎんだろ」

小高い丘から広がるのは色とりどりの花畑だった。春島って久しぶりだから探検しよ、とエースに声をかけて島を散策しているうちに見つけたこの場所は、人の手によって作られたわけではない自然のものであるらしい。

丘の斜面を滑り降りて、満開の花の中へと足を踏み入れる。花を潰さないように歩みを進めると、少し後ろを歩くエースもまた同じように道を選んでいるようだった。普段、ガサツな男が慎重に花を避けているのが面白くて、思わず声を出して笑ってしまう。

「間違って燃やさないでよ」
「しねェよ、そんなこと」

何度も編笠を燃やす姿を見たせいの、からかい半分本気半分の注意をエースはイッと歯を見せて一蹴した。
柔らかい青の澄んだ空に浮かぶ白い雲。そして鮮やかな花たちに包まれたこの場所は、大袈裟だけど楽園みたいだ。平和と幸福に満ちて、世の中が暴力や残酷に溢れていることなんて忘れそうになる。

「なんか、こうしてると海賊だってこと忘れそう」
「何言ってんだよ」

貧しく廃れた凍えるような寒さの中で、言葉を覚えるような自然さで武器の扱いや略奪の作法を学んだ。最悪の街だった。だから、海を飛び出した。
そんな私の育ちを知るエースが、さっきの仕返しみたいに揶揄う声で言う。それにベッと舌を出しながら、もう一度空を見上げた。

「でもさ、考えたことってない? 海も船も忘れて、小さな村とかで生きていくこと」
「……おれは、ねェな」

ゆっくりと吐き出されたエースの言葉に「そっか」と呟いて、その場にしゃがみこむ。足元の白い花を摘もうとして伸ばした手を、結局は引っ込める。散々、戦いの中で武器を振り回しておきながら、今さら小さな花ひとつ手折るのに躊躇していることがおかしかった。

「私はたまに考える。暑いのも寒いのも嫌いだから、春か秋の島で、小さな家に住んでさ、庭に畑なんか作って、それで料理をして、ときおり近所の人に分けたりして暮らすの」

そう話しながら立ち上がると、エースがどこか驚いた顔をして私を見ていた。

「らしくないって思ったでしょ」
「……いや、案外似合うかもなって思ってよ」



──○月✕日
またエースの夢を見た。今さら自覚した恋は手遅れすぎるから、記憶の一つひとつが胸を突き刺す。
だけど、同じ夢を見ることはない。もしかしたら、こうしてエースの夢を見るたびに、私はエースのことをひとつずつ忘れていっているのかもしれない。
夢の中では、あんなに鮮明だったはずのエースの声を、今はもう思い出せない。










燃えるような朝焼けが水平線を照らし出す。暴力的なくらいの光がしみて涙が滲みそうになるのに、目を離すことができない。澄み切った朝の空気は穢れを知らず、肺に吸い込まれては身体中を浄化していく。何度見ても飽きることのない、船上での夜明け。

「不寝番、ご苦労さん」

影がかかって顔を上げれば、毛布にくるまった私をエースが見下ろしていた。こんな朝早くから珍しい。

「ほんと眠すぎる」
「朝メシ食ったら寝ろよ」
「そのつもりだけどさ、こういう時って逆に目が覚めて寝れなくならない?」

私の言葉に「そうか?」と首を傾げるエースは、本当に思い当たるところがなさそうだった。まあ、食事中でさえ寝るような男だもんな、と聞く相手を間違えたことを悟る。

毛布を畳んで立ち上がりながら、もう一度、水平線へと視線を向ける。宴だったり敵襲だったりと、寝ないで朝を迎えることも度々ないわけではないけど、こうして静かに朝を迎えることは随分と久しぶりだった。

「……忘れたくないな」
「何を?」
「こういう、きれいとか、好きだなって思ったものを、ぜんぶ」

少しずつ顔を出す太陽が明るさを増して、世界が目を覚まし始める。わずかに濃紺を残していた空の果てが、淡いオレンジと混ざり合うのを、エースもまた見つめているのを感じる。この瞬間が永遠になればいいのにと、少しだけ考えていた。




○月✕日
今日も、またひとつ、エースを忘れた私になった。





 


溶けゆく追憶


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