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海の匂いがする。ゆらりゆらりと体を揺らす波が、遠くなったり近くなったりしながら、しだいに浅瀬の光が強くなる。暗闇の向こう側に感じる太陽の光に、やっと自分が眠りの中にいるのだと気づいた。夢と覚醒の狭間でうつらうつらと繰り返し、やっと重たい瞼が開く。
「……えっ」
視界がとらえた見慣れない景色。明らかに自室ではない豪奢な部屋の大きすぎるベット。開け放たれた窓から吹き抜ける風によって揺れるシルクのカーテン。持続的に感じる揺れに、ここが海上であることを何とか理解する。
明らかな動揺に襲われながら、冷静になれ、と何度も自分に言い聞かせる。ドクドクと脈打つ心臓に、首筋には嫌な汗が流れる。
そのとき、大きな入口の扉が開いた。咄嗟に腰に手を回すものの、いつもあるはずの銃はない。虚しく空を切った手のひらが、肌触りの良すぎるシーツを掴んだ。
「なんだ、やっと目覚めたか」
「……どなた、ですか」
扉の向こうから現れた紫の髪の男は、私を見るなり、にやりと愉快そうにその切れ長の瞳を歪ませる。大きな体躯に鍛え上げられた肉体は民間人とは思えないものの、その顔に見覚えはない。どうか海賊ではありませんように、と祈るように問いかける。
「あぁ、そうか。この姿は知らないんだったな」
パンパンといきなり手を叩いたかと思うと、どこからか現れたビスケットが男の体を覆っていく。そして、みるみると変わる姿に思わず息を飲む。唇が震えて上手く言葉を紡げない。
だって、目の前の男を私は知っている。懸賞金をかけられた海賊なら全て頭に入れている。その中でも悩むことなく思い出せる高額の金をその首にかけられた海賊たち。四皇の一角、ビッグ・マム海賊団のひとり。
「うそ……千手の……」
「なんだ、しっかり名前を呼んでみろ」
「……クラ、ッカー」
喉に張り付いて上手く声が出せないなりに、なんとかその名前を口にすれば、フッと満足そうに笑われる。そして今度はあっという間にその姿が崩れ去り、さっきの男の姿に戻る。夢でも幻でもなく、目の前の男があの千手のクラッカーなのだと思い知らせるように。
「ここはあなたの船、ということですか?」
「愚問だな。他に何に見える」
「……どうして、私はここにいるんでしょうか?」
怖い、逃げ出したい。頭にこびりついて離れない弱音を、海軍としての矜恃でなんとか言葉にはしないように耐える。海軍に入ってもう既に片手では足りない年数が経っている。私なりに努力を積んできたつもりで、その間に億を超える海賊と対峙した経験だってある。
それでも、この男は桁が違う。そもそも私の戦い方は前線に出るものでは無いし、一対一にも不利だ。桁違いの懸賞金のかかった男を相手に、それもその船上で、私ひとりでどうにかできるような状況ではないことくらい、考えなくても分かってしまう。
私の震えを見透かすように、男の口角が釣り上がる。
「おれが連れてきた」
「……なんの、ために」
「妻にするために」
予想外の返答に言葉を失う。
こうして目が覚める前の最後の記憶は、いつも通りの海上パトロールの最中で、なにかしらの戦闘があったわけでもないから一方的に誘拐されたのは間違いはないだろう。他の船員たちがどうなったかは気になるものの、私が生かされているのは、てっきり海軍への交渉材料としてだろうとばかり思っていた。それが、妻?
そのとき、壁にかけられた時計が軽快な音を響かせる。
「聞きたいことがあれば答えるが、まずはおやつの時間だ」
クローゼットを開けた男が、私が腰かけたままのベットの上に一着のドレスを投げて寄越す。ブルーグレーのチュールドレス。それを横目に見てから、何を求められているのか窺うように視線を戻す。
「おれは先に隣の部屋に行っている。お前はそれに着替えてから来い」
「そんなこと……!」
「逆らうのは得策じゃないんじゃないか? お得意の頭を使うんだな──ナマエ少佐」
逃げ場はないと暗に示すように呼ばれた名前にグッと唇を噛む。振り返ることも無く部屋から出ていった男の後ろ姿を、そして完全に閉じた扉を睨みつけながら滲んだ涙は、恐怖のせいか悔しさのせいか、もう分からなかった。
□■□■
「ほう……」
扉を開いた向こうで、すでにお茶の支度を整えられたテーブルに座る男の瞳が色を変えた。スカートの膝の辺りを押さえながら、もう片方の手で体を抱えるようにぎゅっと二の腕の当たりを掴むことで、震えそうになる身体を宥める。
「言われた通りに、着替えました」
「似合うだろうとは思っていたが、想像以上だな」
その言葉はつまり、私をここに攫ってくるのが計画的な行動であったということだ。さっきの妻という発言のこともあり、その真意を問いただそうと口を開こうとすると、楽しそうに制させる。
「まぁ、まずは座ったらどうだ」
「……ありがとうございます」
彼が首で合図をすると、どこからか現れた船員が私の椅子を引く。身構えながら、恐る恐る腰を下ろす。
「あの、さっきの妻って」
「ナマエはこれからおれの妻になるということだ。そろそろおれも所帯を持てと言われていてな」
ティーカップを傾けながら語られる言葉にグッと手のひらを握り締める。ビッグ・マムの海賊団が家族によって構成されていることは知識としては当然知っている。だけどそれでもやはり、この状況を理解することには繋がらない。
「どうして、私が……」
「気に入ったからだ」
鮮やかな紫の瞳に私がどう映っているのか想像もすることが出来ない。ただ一介の海兵にしかすぎない私と、世界に名を馳せる大海賊のひとり。それが同じ船の室内でお菓子が積まれたテーブルを挟んで向かい合う異質すぎる空間。
この男の気分次第では、指先ひとつ動かすだけで私なんて簡単に殺せてしまうだろう。
そんなことを考えていた折に、いきなりその腕が伸びてくるものだから思わず肩が跳ねるほど驚いてしまう。
「……ひっ」
「何を怯えてる。それ、食べてみろ」
「ビスケットですか?」
呆れたような視線の先、私の前の瀟洒なお皿の上に乗せられたチョコレートのかかったビスケット。それを見つめながら、必死に頭を回転させる。
敵船の上で出された食べ物に口をつけるほど馬鹿ではない。だけど、このあまりに不利すぎる状況を打破する方法も思いつかない。
「安心しろ。毒なんて盛ってない」
お皿の上を睨みつけたまま動かない私に向けられた笑みは意外にも柔らかかった。「おれが取ったのが気に入らないなら、自分で選んでもいい」と差し出された山盛りのビスケットの器には緩く首を振った。
「……いただきます」
意を決してビスケットを口に運ぶ。サクッと軽やかな音を立てて割れたそれは、甘いチョコレートと程よく混ざり合う。
「あっ、美味しい……」
「気に入ったか?」
思わず漏れだしてしまった本音に慌てて口を塞ぐももう遅い。まるで餌付けされてしまったような状況に頬は熱を持ち、恥ずかしさと悔しさと色々な感情が込み上げて泣いてしまいそうだった。
「ここから万国まではしばらくかかる。すぐに慣れろとは言わないが多少は肩肘張らずに過ごせ」
「あの、千手のクラッカー」
「……その呼び方はやめろ」
私の反応に満足気に笑っていた表情が、途端に不愉快そうに歪む。私なんぞの立場では滅多にその名を聞くことは無かったものの、海軍内ではいつだってそう呼ばれていた。
でも確かに、本人を前に呼ぶにはおかしいだろうか。しばらくどう呼ぶべきか思案して、ゆっくりと口を開く。
「クラッカー、さん?」
「ハハッ、まぁ、それでいい。海賊相手に随分と下手に出るものだな」
嘲笑うような口調をしつつも、嬉しそうに笑われて、私もどんな顔をしたらいいのか分からなくなる。ビスケットの最後の欠片を口に含んで、しっかり味わいながら噛み締めて、そっと窓の向こうに視線をずらす。
ゆるやかに流れる雲と青い空。見慣れた海の上の風景のはずなのに、その平和さとこの状況があまりにも不釣り合いで警戒していた心が麻痺し始める。悪意は確かに感じないものの、この船が向かう先がかのビッグ・マムの治める国だというのは気がきでない。
千手のクラッカーの妻、私のために用意されたドレス、美味しいビスケット、奪われた武器……あまりも多すぎる情報を前に項垂れるように瞳を閉じれば、嗅ぎなれた潮の香りが少しだけ優しく感じられた。
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