この船に連れてこられてから五日が経った。
驚くほど平穏に一日は始まり、そして終わっていく。一体どれだけ用意されていたのか今のところ毎日別のドレスを着させられている。船内も基本的にどこでも好きに行動することを許されていて、決められていることと言えば毎日三度の食事とおやつの時間だけはクラッカーさんと一緒に摂ることくらいだ。

「……わあ、きれい」

かたん、と甲板の板を踏み鳴らしながら船の手すりに掴まる。夜も随分と更けた時間、一度目が覚めてしまったままなかなか寝付けなかったので、いっそ夜風でも浴びることにしたのだ。思っていたよりは冷たい風に一瞬身震いはしたものの、目の前の夜空を見ていればそんなことも気にならなくなる。

手を伸ばせば届きそうな満天の星はみな何千光年、あるいは何億光年もの隔たりを越えて、ここまで辿り着いた。こうして見えているつもりの幾つもが今はもう存在しない星の残光なのだ。そう思うと、その圧倒的な光の前には、今確かに息をして存在している私の方があまりにちっぽけに見える。

「──上着くらい着てこい」

突然肩を包んだ柔らかな感触に驚いて振り返ると、仏頂面のクラッカーさんが私を見下ろしていた。そして私の肩には上品なワインレッドのストール。

「……ありがとうございます」
「この辺りは冬島の気候域だ。夜は冷えるだろ」
「はい、だから星が綺麗で」

星、と低く呟いたクラッカーさんが夜空を見上げる。その瞳に映った星々に、私もただ見惚れてしまう。そうして気がつけば、言葉が滑り落ちていた。

「真っ直ぐなものが欲しかったんです」

その声に引き寄せられるように、クラッカーさんが私を見つめた。夜空の下でも綺麗なその瞳を見ていられなくて、そっと目を伏せる。

「私が海軍に入った理由です。小さな頃からずっと何かに怯えてて、いつも人の顔色ばかりうかがってきたけど、それでも、何か一つ守り通せるものが欲しかったんです」

どうしてこんな話をしているのか自分でも分からないまま、だけど口を閉じることも出来ず、自制の効かなくなった言葉が流れ出す。

「正しく義を通す。正義って、とっても真っ直ぐで、綺麗じゃないですか」

海賊相手に正義を語るなんて馬鹿げていると思いつつ、黙ったまま私の言葉を受け止めてくれている空間は不思議と心地よかった。
いざ海兵となっても接近戦は怖くて、出来るだけ敵と距離をとることの出来るようスナイパーを目指した。逃げるように銃を手に持つ自分を情けないと思いながらも、背中に背負った「正義」の二文字は確かに私の誇りとなった。

「三年ほど前、どこぞの島で森の中を銃を背負って走るナマエを見たことがある」
「……え?」
「小さな身体で、不安そうに唇を貸しみ締めながら、そのくせ瞳だけはやけに力強いものだから、何故か忘れられなくてな」

突然語られた内容が上手く頭に入ってこない。三年も前となれば、私なんてまだ海兵の下っ端に過ぎなかったはずだ。その頃から、クラッカーさんは私を知っていた。それが今の状況に繋がると、そういうのだろうか。

「今思えば、一目惚れというやつだったんだろうな」
「……それから三年も?」
「まあ、色々と準備も交渉も必要だったんだ。なんだ、もっと早く迎えに来て欲しかったか?」

頷くはずがないと分かっていて揶揄する意地悪な口調に、言い返そうと顔を上げると、クラッカーさんの大きな手が目の前にまで伸びてきていてたじろぐ。
だけど、私のことなんて一握りに出来るその手は、まるで壊れやすい陶器にでも触れるように、おそるおそる頬に触れただけだった。

「冷たいな。中で何か温かいものでも用意するか」
「……クラッカーさんが淹れてくれるんですか?」
「お茶くらいわざわざ人を呼ばなくても淹れられる」

眉根を寄せて顰められた表情。だけど、それは怒っているというよりは拗ねているかのようで、ついイメージと不釣り合いなそれに笑ってしまう。

そこではたと我に返る。優しい空気が波を引くように消えていき、残るのは居心地の悪い気まずさと背負った誇りに対する罪悪感。
随分と絆されてしまっていた。数日間、毎日決まって顔を合わせ、他愛もない会話をする時間に、気付かぬうちに居心地の良さを感じてしまっていた。

「いえ、今日はもう寝ます」
「そうか、暖かくしろよ」

俯いたまま下唇を噛み締める私に気づいているのかは分からないけれど、クラッカーさんは軽く私の頭を撫でてから船内へと戻っていく。カツカツと響く足音が波音と混ざるのを聞いていると、ふと足音が止まった。

「……明日は近くの島に寄るが、逃げようなんて思うなよ」

それは初めて会ったときの有無を言わさぬ強さよりも、どこか願うような切実さが込められているような気がして息を飲む。そう感じてしまうのは、少し彼に近づいてしまった私の弱さのせいかもしれない。そう言い聞かせながら、何も返さずにいれば、クラッカーさんの気配もまた静かに遠ざかっていった。








翌朝、朝食の席にクラッカーさんはいなかった。聞いていたとおり、明け方に船は島へと寄港していて、早朝からクラッカーさんは出ていったらしい。
今回、私を攫いに来ることに際して、この島での仕事とやらも仰せつかっていたのだ、とペラペラとよく喋る船員の話を聞きながら、海賊のくせに何が仕事だと心の中で悪態をついてみる。だけど、モヤモヤとした澱のような苛立ちは晴れない。

「クラッカーさんは、いつ戻られるんですか?」
「確か、夜にゃ戻ると言ってましたよ」
「そうですか、ありがとうございます」

逃げる。その言葉を昨晩から何度も繰り返し唱えた。これから先、逃げ出すとしたらもうこのタイミングしかないだろう。ビッグ・マムの島についてしまえば、それこそ絶望的だ。
だけど、ここがどんな島かもわからないまま飛び出すこともまた危険なのは間違いない。逃げたと分かれば、クラッカーさんは私を殺すだろうか。

あの瞳が怒りに染まるところを想像して手が震える。
持っていたフォークが皿にぶつかり、キィ、と嫌な音を立てた。ああ、やはり私は弱虫で臆病なままだ。大きく背中のあいたシルクのドレスには正義の文字など描かれているはずもなく、ひどく心もとない。

それでも、私は海軍なのだという誇りだけが、なんとか私を立たせてくれる。

「ご馳走様でした。今日も美味しかったです」

食事の後片付けをしてくれる様子を横目に確認してから、そっと部屋から出る。食後はいつも船の中を散歩していたので、今日もそのルーティンだろうと私の動向を気にする船員はいない。

もともと後方での援護射撃や身を潜めての行動が多かったので、気配を読むことも消すことも、ここ数年でしっかりと鍛え上げてきた。船をおりる、彼から逃げる、そんな躊躇いを忘れるように目の前のことにだけ集中する。見張りの目を盗んで飛び降りた砂浜の感触は、久しぶりに自分の足で立ったことを教えてくれた。








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