しばらく人混みに紛れながら、島の様子を確認するように歩き回った。どこかでこの島のことを聞き、電伝虫を借りて海軍の誰かへ連絡を取ることも考えたけれど、今はまだ変に人の印象に残ることも避けるべきだろうと、まずは自分の足で島を探ることに専念した。

「……お腹空いた」

気がつけば日もかなり傾いている。クラッカーさんはそろそろ船に戻る頃だろうか。いや、その前に昼食に現れない私に気づいた誰かが探して、彼にもとっくに私が逃げ出したことなど伝わっているかもしれない。

半日以上歩いてみて分かったことは、ここが貿易の盛んな都市であるということ。そのせいか人口は多く、雑踏に紛れることは容易かった。
町中には貿易の品物を保管しているのであろうレンガ造りの倉庫が建ち並び、今はその一角の路地に座り込んで休んでいる。いくつかあった港も確認したけれど、駐在する海兵は確認できなかった。やはり多少は不審に思われようと電伝虫を借りるのが得策かもしれない。

「逃げるな、と言ったはずだが」
「……あっ」

つい気を抜いていたせいで気配を感じなかった。突然降ってきた声に爆ぜるように顔を上げれば、私を見下ろすクラッカーさんがいる。だけど、その表情が物語っているのは、私に対する憎悪というよりは、まるで安堵に近い。

「……怒っていないんですか?」
「怒ってはいる。ただ、お前が逃げることくらい想像出来てもいた」

呆れたと言わんばかりに吐き出された長い溜息に、胃の底からまた黒いドロドロした感情が込み上げる。私を妻にするために連れ去った、という言葉を全て信じているわけではない。だけど、そこに愛があることも認め始めてしまっている。そうやって、ずるずると引きずり込まれそうになる弱さがひどく苦しい。

「まるで、私のことなんて分かりきってるみたいに」
「少なくとも、それなりには理解してるつもりだ。おれがどれだけお前のことを思っていたか知っているだろう」

昨夜の話を思い出す。満天の星空と柔らかな時間。
だけど、私は海兵だし、目の前の男は海賊だ。相反する世界の境界はあまりにも明確で見失うはずもない。それでも、揺らいでしまいそうになる。きつく結んだはずの信念が、ぐらりぐらりと足元を取られる。

「それを信じろって?千手のクラッカーともあろう人が、随分と悠長に一人の女を想っていたものですね」

出来る限りの嘲りを持って、そして持ちうる全ての強がりで、ハッと鼻で笑ってみせる。そのとき初めて、クラッカーさんの顔が苛立ちで歪んだ。

「三年間、ただ何もしていなかったと思ってるのか」
「え」
「海軍の人間を娶る、それだけの覚悟も準備もしたと言っているんだ」

覚悟、その言葉があまりにも重く突き刺さる。知識の上でしか知らないビッグ・マムという大海賊が統治する一国。政略的な結婚を繰り返し、血筋によって統制されるその輪に、私なんて確かに異分子でしかないだろう。クラッカーさんが私を嫁にすることに何一つとして利点なんてありはしない。

──ガシャン

そのとき無機質な音が響き、驚いて足元を確認すると、そこには投げ出された黒い塊、奪われたはずの私の銃がある。
この状況で私にこれを渡す意図が分からず、戸惑いながらクラッカーさんを見れば、視線だけで拾うように指示された。
おそるおそる手に取った銃のグリップの感触があまりにも自然に手のひらに馴染む。

「撃っていいぞ」
「なっ……!」
「別にその程度で殺されるなんて思っちゃいない」

脅しかと確認してみれば銃弾も装填されている。確かに、こんな小さな拳銃で千手のクラッカーとも呼ばれる男を殺すことは出来ないだろう。それでも、だからといって撃たれるのとを許容する理由にはならないはずだ。

震える手でなんとかグリップを握り直し、その銃口をクラッカーさんへと向ける。しっかりと心臓を見据えて。
そんな私のことを見つめる彼の表情は、この場にそぐわず、あまりにも優しく慈愛に満ちている。まるで懐かしいものでも見るその瞳が言葉よりもずっと私への愛を語ってくる。

「ただ、おれは痛いのは嫌いでね」
「……これが当たったら、少なくとも無傷ではないですよ」
「ナマエなら、いい」

射抜くような眼差し。その言葉がただの挑発なのか、真意なのかなんて考えるまでもなく分かってしまう。だから、引き金を弾けない。もうずっと握ってきたはずの銃があまりにも重く、ついに耐えきれなくなった手から力が抜ける。鉄と石がぶつかる色のない音。

「ほら、お前の真っ直ぐな正義はどうした」

正義、私がずっと欲しかったもの。分かっている。目の前の男は海賊だ。海兵として許すわけにはいかない宿敵。長い歴史の上で多くの海兵が貫き、守ってきた正義の信念の一端になれたことが、私の唯一の誇りのはずだった。
何度死にかけても、恐怖に恐れ戦き涙を流しても、正義の二文字だけは熱く私の胸を焼き付けたはずだった。それなのに。

「……何もなくなった」

込み上げた涙が視界を揺らし、零れて落ちていく。そんな情けない姿を見られたくなって、両手で顔を覆う。もう銃を持てないか弱い手。ただ震えることしか出来ない臆病で脆弱な存在。
撃てなかった、これはただの弱さだ。

一歩、クラッカーさんが私の元へと近づく。覆っていた手を離し、見上げたその先で、彼の大きな手が私に向けて差し出されている。ああ、なんてずるい。ここまで連れ去っておいて、私の正義を捻じ曲げておいて、それでもまだ、ここで私に選ばせようとするなんて。

「おれは、真っ直ぐにナマエを愛している」

これから先、私はきっと何度も今日のことを後悔するだろう。あの日、この手を取っていなければあったはずの正義の文字を懐かしみ、悔恨に喘ぐ夜もあるに違いない。

だけど、同じくらい、優しく柔らかな気持ちでこの瞬間を思い返すこともあるだろう。まるで真っ直ぐなんかではない、曲がりくねって寄り道ばかりのこの感情を、今はまだ愛とは呼ばない。
それでも少しずつ、その軌道は直線を描くんだと、繋いだ大きな手の温かさが語りかけてくる気がした。









どこかで愛が眠っている


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