私がこの世界に落ちてきたとき、キャプテンは随分と落ち着いていた。本人は十分驚いていたというけれど、私からしたらほとんど表情なんて変わってやいなかった。
対する私といえば、住み慣れたはずのビル群に囲まれた街中から、突如として四方見渡す限りの海の上へと景色が変わり、しかも自分が落ちているのだからパニックどころの騒ぎじゃない。

海面がどんどん近づき、ああ、もうダメだ、と瞼を閉じた時、ピタリと浮遊感が止まった。おそるおそる目を開ければ、またしても場所が変わっていて、今度は目の前に身体のあちこちにタトゥーの見え隠れする柄の悪そうなイケメンが鞘に収まった刀をこちらに向けている。

明らかに警戒されたまま「何者だ」と聞かれて、とにかくついさっき起きたばかりの一連の流れを説明した。信じてもらえるはずはないと思いながら、それでも必死で。
そうしてどうにか一通り話し終えた後、黙って話を聞いてくれていたキャプテンはゆっくりと口を開いた。

「この海では何が起きてもおかしくねェ」

その言葉の意味なんてまったく分からなかったのに、それでもただ信じて貰えたということだけは分かった。そうして、私がなんとか助かったということも。
それが私にとってのこの世界での最初の記憶で、キャプテンとの出会いだった。


「こんなとこで何してんだ」
「キャプテン」

濃紺色の空には弓なりの月が浮かび、冴え冴えと輝いている。ずり落ちたストールを羽織り直しながら振り返れば、キャプテンが気だるそうに暗闇から現れた。

「なんだか静かすぎて眠れなくて。それに、夜に浮上するのなんて久しぶりだから、ちょっと夜風を浴びようかなって」

凪いだ海には波がなく、夜空を映したその姿は宇宙の中を漂っているかのような気がしてくる。普段は海中を進むこの船は昼夜問わず唸るような機械音を響かせているけど、数週間ぶりの浮上となる今夜はその音も止まり、ただ静寂に身を任せていた。静かな夜は闇を濃くし、身体にまとわりつくような気がしてどうにも落ち着かない。

甲板の真ん中辺りに立つ私の隣へと、何も言わないまま歩いてきたキャプテンもまた空とも海とも区別のつかない暗い水平線を見晴かす。

「キャプテンはたまには早く寝たらどうですか?」
「……うるせェ」

クスッと笑って頬に手を伸ばせば、嫌がることなく色濃く黒の沈んだ隈に触れることが出来た。月明かりに照らされた横顔。その目元に自分の指が這うのをどこか夢心地に見つめる。

「私がこの世界に来てから、もうすぐ一年くらいになりますね」
「もうそんなに経つか」

この一年で本当に色々なことがあった。
海賊だと説明されたことも、クルーに喋るシロクマがいることも理解しきれず、今いる場所が偉大なる航路、その新世界と呼ばれる海域だと言われてもピンと来ない。悪魔の実なんて以ての外だ。

毎日のようにこれは夢だと言い聞かせながら過ごして、数え切れないほどの命の危機に晒され、守られ、泣いて、そして強くなった。
一介の大学生がよくぞここまで、というほど 、今では立派な海賊だ。もしかしたら元々かなりの才能があったのかもしれないなんて、密かに思っている。

「私、だいぶ強くなったと思いませんか?」
「そうだな、かなりずうずうしくなった」
「ちょっと……!」

もちろんキャプテンとの関係も随分と変わった。
最初こそ怖くて怖くて、この船の中で心を許せるのなんてベポくらいのものだった。船内ですれ違いそうになれば、すかざす物陰に身を隠していたものだけど、今ではこんな軽口も叩けるようになった。

だけど決して恋人ではない。キャプテンは私に好きだと言ったことはないし、私だって言っていない。だから、キャプテンにとっての私はその頬に触れることを許した関係でしかない。そして多分、他にも私が思っているより多くのことを許されている。
ただ、そこに明確な名前が存在しないだけで。

「まだ元の世界に帰りたいか」
「……うーん、そうですねぇ。正直、よく分からなくて」

昏い星影が夜空に瞬き、一瞬の灯火を燃やす。よく知っているようで、同じではない星たち。
この船に乗せてもらって、元の世界へ戻るための手がかりを探す。それが私の目的であったはずなのに、旅を続けるほどにその決意の結び目はゆるく解けそうになり、様々な奇跡に溢れたこの世界を愛してしまいそうになる。
だけどその度に、自分が余所者であるという意識が歯止めをかける。

「私にはやっぱりここではない世界の記憶があるし、そこに住んでいたと思っているけど、こっちで暮らせば暮らすほど不安になるんです」

キャプテンはただ黙って海を見つめている。返事も相槌もないけれど、ちゃんと話を聞いてくれているということはしっかりと伝わってきていて、それが心地よいと感じる。これ以上踏み込むことを戸惑ってしまうほどに。

「私みたいに他の世界から来たっていう人には結局会えていないし、一年も経って向こうの世界で私の扱いがどうなってるのか分からないし、本当にここじゃない世界なんてあったのかな、なんて」

ずっとこの世界が夢だとばかり思っていたけど、もしかしたら向こうの方が夢で、私はただ長い夢を見ていただけなんじゃないかと、目覚めてから不安になる朝がもう何度もあった。ころころと現実が入れ替わり、足場がどんどん覚束なくなる。

「それでもやっぱり、この世界が自分の世界だとは思えない」

この世界での私は根のない草で、吹いた風次第で簡単に消えてしまうような予感が常に付きまとっている。どちらの世界も選べず、どちらの世界にも居場所がない。

ふと、隣に立つキャプテンの横顔を見上げる。
もしもこの関係に名前をつければ、それが私をこの世界に繋ぎ止めてくれることになるのだろうと考えたことがないわけではない。キャプテンの隣で、この世界を生きていく。それも悪くないと思う程度には私はとっくにキャプテンのことが好きだった。

だけどそれは同時にキャプテンに私の運命を背負わせることになってしまう。繋いだ手のぬくもりと優しさを愛と名付けて、この人に頸木になって欲しいわけではない。
そのとき、凪いでいたはずの海から懐かしい呼び声が聞こえた気がした。

「……今、何か?」

月が揺らいで、雑踏が近づく。心臓はバクバクと高鳴り、自然と呼吸が浅くなる。焦燥と期待。導かれるようにデッキの手すりに近づき、そこから海を覗き込んだ。

「……あっ」

暗闇しかないはずの海面。そこに映っていたのは見慣れていたはずの街並みだった。まさしく私がいたはずの場所。それが鏡写しのようにぼんやりと海面に浮かんでいる。

こんなことがあるはずないと数歩後ずさってから、不意にキャプテンの言葉を思い出した。そう、この海は何が起きてもおかしくない。堰を切ったように、わざと忘れようとしていた記憶の断片がいくつも押し寄せてくる。お母さん、お父さん、友人たち。
今ここに飛び込めば、元の世界に戻れるのだろうか。私があるべき場所へと、この海は続いている。
一度離れたはずの手が吸い寄せられるように自然と伸びた。

「――"ROOM"」

その声はやけにはっきりと耳に届いた。その後に続く聞きなれた言葉も。
そして気がつけばキャプテンの腕の中にいて、伸ばしたはずの手は虚しく空を切る。

「キャプテン!あれ!私がいた……」
「見えねェな」
「……え」

腕の中で必死にもがいて海を指させば、私の声を遮るようにして予想外の言葉が返ってきた。思わず戸惑って、腕から力が抜ける。その間もキャプテンの視線は変わらず遠い水平線を見つめていた。

「ただの海だ。他には何もねェ」
「そ、そんな……だって」

もう一度私も海を見つめ直す。
確かに見えている。風のない夜には行き交う人々の雑踏まではっきりと聞こえる。この世界にはあるはずのないざわめき。

それなのに、キャプテンの表情は初めて出会った時と同じでひどく落ち着いている。もしかしたら、あれが見えているのは本当に私だけで、ただの幻影なのだろうか。あそこに飛び込んでもその先にあるのは冷たい海底だけで、掴めなかった望郷だけを抱いて溺れ沈むことになるのだろうか。

「……本当に、何もないんですか?」
「あァ」

この世界に来てからキャプテンの言葉を信じて生きてきた。そのキャプテンが今目の前にあるものは嘘だと言う。
もう何も分からなかった。

歩いていた薄氷が砕け散り、冷たい水中に沈没するように身体から温度が失われる。この腕が離された瞬間、私の輪郭は溶けだし原子単位の粒子に霧散するような気がして意識が遠くなる。

「おい」

ゆるゆると顔を上げると、唇に柔らかな感触が押し付けられた。それがキスだと分からないほど鈍感ではないけれど、どうしてこんな状況になっているのかは分からなくて、硬直したまま月影と重なるキャプテンの顔をぼんやりと見つめた。
イメージに合わない優しい口付けが離れ、唇には生ぬるい感触だけが残る。

「お前は、ここにいたらいいんだ」
「……そう、ですね」

不遜なのに、どこか願うような響きの籠った声。
その言葉を受け入れた瞬間、潮騒が突然戻ってきた。波が引くように海面が揺らぎ、ビル群の景色が掻き消える。
ずっとまとわりついていた消失の予感が、遠くに迫る払暁の気配に飲み込まれ、するりと離れていく。







その空白にぴったりの名前がある


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