その日の都は朝から濃い霧が立ち込めていて、数歩先の景色も見通すのがやっとという有様だった。この海賊団に入ってまだ間もない私は、当然この国の地理にも不慣れで、都への使いに来たはいいけれど帰り道が分からず迷っていた。

歩けど歩けど港は見えず、むしろ周りを囲む木々の数ばかりが増えていく。気がつけばすっかりここは林の中だ。これは困ったなぁ、と途方に暮れながら、音もなく降り続く霧のような雨に烟る空を見上げた。手に持った傘によって半分しか覗けぬ空。

その時ふと、視界の先に鮮やかな桃色が見えた。乳白色の世界の中で、ぽつんと浮かぶその色がとても幻想的で、気づけば吸い寄せられるようにそこに近づいていた。
近くで見てみるとそれは満開の花を咲かせた大樹で、その見事な佇まいに圧倒される。

ふう、と息を吐き出して、ハタと木の根元に人がいることに気がついた。男の鮮やかな着物や髪の色よりも、その横顔に息を飲む。

──泣いているのかと思った。

その表情から悲しみの色はなく、実際はただ雨滴が頬を伝ったにすぎないと頭では理解しながら、それでもこの人は泣いているような気がしてしまった。

「お前は……」

気がつけば手に持っていた傘を男に向けて差し出していた。泣いていると思ったのに傘なんて見当違いもいいところだし、まず見ず知らずの相手に随分と図々しいことをしていると思いながら、それでも何故かそうしなければいけないという衝動に掻き立てられた。

じろり、とこちらを睨んだ男の眼光の鋭さにたじろぐ。色々言わなければいけないことはあるはずなのに、頭に浮かぶ言葉はみんな指の隙間を零れ落ちる砂の粒みたいに掴むことが出来ない。

「今日の雨は冷たいですから」
「……そう、だな」

本当は、傘を差さなくたってうっすら濡れる程度の小雨は冷たくもないのに、口から滑り落ちたのはそんな言葉だった。男は一瞬だけ思案するような間をとって、結局ただ頷いて再び空を見上げた。

相変わらず濃い霧が立ち込める乳白色の空に、風に舞った花弁が溶けるように消えていく。立ち並ぶ満開の花を咲かせた大樹から舞った花吹雪が靄のように霞む。それがただ美しかった。
これが私と彼の初めての出会いだった。









板張りの床を小走りで走り抜けて、もはや通い慣れた部屋の襖を開ける。ふわり、と漂う甘い花の匂いのお香と煙管の吐き出す紫煙、それから強い酒の匂いが混ざりあって鼻腔をくすぐった。

「今日のお届けものですよー」
「おお! いつもより遅かったなァ」
「色々立て込んでて……そもそも、こんなの私の仕事ではないんですけど」

居眠り狂死郎の名も知らず、無謀にも相合傘をして都に戻った話はすっかり語り草となっていて、今や何故か狂死郎親分さん宛の手紙や荷物、伝言なんかは私のもとに集められるようになった。親分専用、花の都行きの伝書鳩状態。特にササキ様なんて酷いもので、ほとんど面白がっているのだろうけど、どうでもいい使いばかりを私に寄越す。おかげで今や日に一度はこうして此処を訪れている。

「まァ、そう言うな。おれは毎日ナマエに会えて嬉しいでござるよ」
「私だって別に親分さんに会いたくないわけじゃないんですよ」

畳の上に座って拗ねたように唇を尖らせる。親分さんはお酒に酔った赤ら顔のまま、わかったわかった、と豪快に笑った。

「今日は落雁でありんすよ」
「わーい、いつもありがとうございます」
「ナマエのために用意した菓子だ、遠慮するな」

するり、と襖が開いて、この郭の新造のひとりがお茶と茶菓子を乗せたお盆を運んでくれる。
こんなふうに親分さんと接してはいるけど、私たちの関係は決して恋仲ではない。簡単に言ってしまえば顔見知りの仕事仲間というところなんだろうけど、もっというなら師弟にも近い。もちろん、うちの海賊団の中でも下っ端な私が親分さんから戦いの仕方など教わることが出来るはずもないので、なんの弟子かといえばこの国の文化とでもいうのだろうか。

「今日は禿たちが琴を習うと言っていたぞ」
「あ、じゃあ一緒に教わることにします」
「ナマエの奏でる弦の音色か。おれも聞いてみたいものだなァ」
「琴はまだ聴かせられるようなレベルじゃなくて……あ、でも三味線ならそれなりに弾けるようになりましたよ」

こうして親分さんの元に通うようになって、遊女の女性たちの教養の深さに驚いた。舞踊に琴、三味線、茶道。その優雅な振る舞いに魅了されて、時折こうして稽古に混ぜてもらう。行儀見習いなどと島に帰れば揶揄されるけど、それが私がここに通うもうひとつの目的となっていたりする。
落雁を齧りながら「そう言えば」と呟けば、お猪口を傾けていた親分さんが視線だけを私に向ける。

「この前、とっても素敵な都々逸を聞いたんです」
「ほォ、都々逸か」

短歌や和歌などの詩歌や、御伽草子、歌舞伎に文楽。そういったこの国の文化にも私は今たいそう興味があって、意外にもそれらに造詣が深い親分さんから色々と教わることがある。だから私たちは師弟に近い。

これらの知識はみんな昔に少し齧ったことがあるのだと、いつだか零したことがあったけど、それ以外に親分さんがその昔のことを話してくれることはなかった。この国で今のような立場になるまでは、人には言えない過去もあるのだろうと、私の方からもそこには触れないようにしている。

「嘘も言えない ほんとも言えぬ おまえが好きとしか言えぬ……なーんて、すごいロマンチックじゃないですか?」

瞼を閉じて、覚えたばかりのそれを諳んじてみせるも返事はなかった。不思議に思って親分さんの方を見ると、さっきまで赤く染っていた肌の色がすうっと引いて随分と真剣な顔付きで私を見ていたものだから少し驚いてしまった。

「本当に、そう思うのか?」
「え?」
「好きとさえ言われれば、嘘も真も関係ないと、本当に思えるのか」

いつになく凄みのある親分さんの雰囲気に息をのんだ。気を害しているという感じでも、怒っているのとも違う。あえて言葉にするのなら、切実そう、とでもいうのだろうか。そんな親分さんに対して軽はずみな発言をするのも憚られて、ひとつ呼吸を整える。

「……程度にはよるかもしれないですね」
「では、そうだな……名も身分も過去もすべてが嘘だとしたらどうする?」
「全部ですか? うーん、それなら許せるかなぁ」

私の返答が予想外だったのか、親分さんは訝しそうに眉を顰める。

「だって、それだけ全部違うなら、逆に全部を信じたらいいんじゃないですか。それなら、見せられたすべてを信じてみせる。だけどその代わり、絶対に嘘をバラすのは許しません」
「真実を知りたくはないと」
「前に何かの本で読んだんですけど、秘密と孤独は切り離すことの出来ないものなんですって」

秘密にするから孤独で、孤独だからこそ秘密にできる。この孤独がつらいから、秘密というのは大抵がどこかに漏れ出してしまうのだと、読みながらたいそう納得したのを思い出す。
孤独と飢え。それが私の思うこの世で最も苦しいものだから、その内の一つを背負う覚悟で好きだと言われたら、それこそ生涯唯一の愛なんじゃないかって単純にも思ってしまうんだろう。

「そんな孤独を抱えてまでも、私のことを好きって言ってくれるなら、許せちゃうなぁ」
「ハッハッハ、ナマエらしいな」

大口を開けて笑っている親分さんを見ながら、どうしてかもうじきに雨が降り出しそうな予感がした。木枠に縁どられた窓から空を見上げても、そこには薄青がどこまでも伸びるばかりで、たっぷり雨粒も溜め込んだ雲はどこにも見当たらない。

私から見たら大皿みたいなお猪口を傾ける親分さんに視線を戻す。きりりとつり上がった瞳はいつも通りに楽しげで、少し眠そうにも見える。ああ、それなのにどうして、やっぱり泣いているように感じるのだろう。

「ならば、もしもその嘘を貫くことがどうしても叶わなくなったら、どうする?」

これまた難しい問いだな、と手を顎にあてて、しばらく唸る。愛する人から、今まで積み上げてきたすべてを否定される。愛していたことなど偽りだったと嘲笑う。どちらもきっと耐え難い。それならばもう選べる答えなんてひとつだろう。

「それは……殺すしかないんじゃないですか。知らずに死ぬなら、それもそれです」
「これはまた、急にえらく物騒だな」
「まあ、私も一応は海賊なんで、最後はやっぱり武力行使ですよね」

両手を握りしめて力強く宣言すれば、親分さんはまた声を出して笑った。変わらない。何も変わらないいつも通りの親分さんだ。親分さんが徳利を傾けると、透明なお酒が流れ出してお猪口に溜まっていく。そこに浮かんだ波紋をじっと見つめているうちに、心の内の嫌なざわめきもまた波のように引いていった。

「それで、それはなんのお話ですか? 恋の話だし文楽?」
「さァて、なんでござったかな」
「えー、私も読んでみたいのに」

拗ねたように唇を尖らせれば、親分さんの大きな手が私の頭を撫でた。

「さて、そろそろ行かねば稽古に遅れるぞ」
「わ、いけない! じゃあ、親分さん、また明日も来ますね」
「あァ、次は三味線を頼むでござるよ」

はい、と大きく頷いて、最後にもう一度だけ空を見つめた。青い空には雲はなく、お天道様だけが光の暈をまとって輝いている。雨は降らない。そうと知りながら、今ここに差し出せる傘がないことがひどく心許なかった。






天泣の箱庭


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