喘ぐように軋む床板の音が廊下に響く。
遠くから聞こえる琴や三味線の音色、がちゃりがちゃりと重なりぶつかり合う食器の音、品性のない笑い声。それらをどこか別の世界のことのように感じながら本日二度目の訪問となる一室の襖を開いた。

「わあ、びっくりした!」
「ハハハ、ナマエの足音が聞こえたのでな。待っていた」

急に目の前に現れた狂死郎親分さんの顔に思わず飛び上がって悲鳴をあげる。それを見た親分さんは腹を抱えて笑い転げた。不意打ちの三メートル越えの大男の怖さを知らないからそんなに笑えるのだ。恨みがましく睨みつければ、なんとか笑いをおさめた親分さんが畳の上に座り直した。

「それで、なにか急用であったか? 日に二度も、それもこんな夜半に来るのは初めてでござろう」
「あっ、そう!そうですよ!何で教えてくれなかったんですか!」

親分さんと膝がぶつかる距離で座り、じっとその瞳を見つめれば、わざとらしく首を傾げられる。その姿に我慢できずに斜めに曲げていた口を開いた。

「誕生日なんでしょう? 帰ったら随分早い逢い引きだなってササキ様に揶揄われて、そこでやっと知ったんですよ!」

これだけ毎日顔を合わせながら誕生日のひとつも教えて貰えていなかったことが悔しくて、それを知るや否や都へと引き返してきた。途中で何か贈り物を探したけど、急拵えで用意したものなんて、とどれも気に入らなくて結局手ぶらのままで来てしまった。
そんな私の胸の内など知らずに、目の前の酔っぱらいはまた愉快そうに大口を開けて笑う。

「そうか、それは悪かった。おれとしてはナマエに会えればそれで満足でな」
「それだけなら毎日のように会ってるじゃないですか!もっと早く教えてくれたら私だって何か用意したのに」

ぶすくれて顔を背ければ、悪びれる様子もない親分さんが童でもあやすように頭を撫でてくる。それがまあ、悪い気はしないものだから、余計に悔しくて頬を一段と膨らませる。そこでハッと名案が閃いた。

「親分さん、少し私と散歩に行きましょう!」
「散歩、でござるか」
「はい!来る途中に星がよく見えたんですよ」

一瞬面食らったように瞳を大きくした親分さんの手を取る。そうして立ち上がれば、意外にも抵抗なくその手を引くことが出来た。
二人で連れ立って強い花と酒の匂い染み付いた郭を出ると、澄み渡った夜の空気が肺を満たす。








街の明かりから離れるように小高い丘の林を目指して歩いていくと、頭上の星が見る見る数を増やす。その星影のおかげか、月もないのに明るい夜だった。

「ほォ、見事に見えるものだな」
「そうでしょう? あ、でも無理やり連れてきちゃいましたけど、郭の方は大丈夫でしたか?」
「何かあれば呼ぶように言伝してある。そう遠くに行かなければ大丈夫だ」

それならよかった、と頷いて、再び天を仰ぐ。薄い雲の影が風に流されて、まるで夜の海を渡る船のように見えた。落ちた枝葉を踏む、ぱきり、と味気のない音を聞きながら背後を歩く親分さんを振り返る。

「本当に何か欲しいものはないんですか?」
「ナマエとこうして闇夜の逢い引きが出来ただけで満足でござるよ」
「それは駄目ですよ。これは私のための思い出作りなので」

胸を張って見せれば、親分さんは言葉の意図を探るように私の瞳を覗き込んだ。

「だって、悔しいじゃないですか。親分さんの誕生日なのに、私にとってはいつもと変わらない一日だったなんて。だけどこれで、誕生日の親分さんを独り占めしたって思い出が出来ました」

機嫌よく踵を返して、再び前を向いて歩き出す。ずっと続いていた針葉樹の木立が途切れて、雑草の茂る野原が見えてきた。

「あ、向こうの方、少し開けてますね。行ってみましょう?」

駆け出そうと足を踏み出すと、不意に手を強く引かれて、つんのめりそうになる。二人しかいないこの場所で手を引かれたのなら、相手もまた一人しかいない。

「……親分さん?」
「其方は崖だ。あまり遠くに行くな」

闇夜に目を凝らしてみると、確かに野原の向こうは崖になっているようだった。だけど、そこまではまだ距離がある。何もそんなに向こう見ずに走り出すほど野蛮ではない。
それならどうしてこんなにも急に手を引かれたのだろう。身体をひねるように振り返り、じっと親分さんの言葉を待つ。

「早く時が経てばいいと、あれからずっと、そう思ってきた。それなのに、お前といると刹那にその覚悟が鈍る」

親分さんの顔にはちょうど木々の影が重なり、その表情を見てとることは出来ない。翳った闇の向こう側。そこにいるのがまるで別の誰かのように感じる。そんなはずはないのに、嫌に脈拍だけが速くなっていく。
親分さんが何の話をしているのかはまるで分からず、だけど問い返すこともまたしてはいけないと本能が告げている。

「この手を離すのが惜しいと、そう思いそうになる。おれは、それが怖い」

そこでパッと手が離される。惜しいと言ったわりには、なんの迷いも感じられない呆気のなさだった。
歩き出した親分さんは草木の影から抜け出して、やっとその表情が星明かりのもとに晒された。いつもと変わらない飄々としたその顔は、私の知っている親分さんだ。

「さて、そこで星でも見ながら酒でも飲むか」
「あっ、持ってきてたんですか! 親分さんといいササキ様といい、飲みすぎは駄目だって言ってるのに」

頬を膨らます私の横を大股で追い抜いていく親分さんの後ろ姿を追いかける。
視界いっぱいの星空。もしも今この星がひっくり返ったら、私たちは揃ってこの夜空の海に落ちることになるのだろうか。そうしたら雲の船に乗り込んで星と星を渡るのもいいかもしれない。
脈動が告げる嫌な予感を追い払うように、そんな夢想ばかりが胸を過った。






君からは何が見えますか


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