※社会人設定
人混みの中を歩く。意識しなくても人の流れに苦労せず乗れるようになったのはいつからだっただろう。肩にかけた鞄には何か特別なものが入っているわけでもないのにいやに重い。
駅のホームに立つ人の秩序を乱さぬように、電車の揺れるリズムを崩さぬように、そうして辿り着いた最寄り駅。帰宅ラッシュを過ぎたこの時間の利用者は少なく、やっと肩の力が抜ける。それと同時に張り詰めていた涙腺が緩み、堰を切ったように涙が溢れ出す。
すれ違ったスーツの男性がぎょっとしたように私の顔を見たけど、すぐに我関せずとばかりに目を逸らした。歩きながらボロボロと涙をこぼす女になんて、そりゃ関わりたくはないだろう。私がその立場でもなるべく見ないようにする。
「なまえ?」
ヤケになって隠すのもやめて堂々と泣いていたら、思いがけず名前を呼ばれたことに慌てて振り返る。どうせみんな知らない人だからと吹っ切れていたのに、さすがに知り合いにこんな姿を見られるのはまずい。
だけど、そこにいたのは想像もしていなかった人の姿で、零れ落ちるようにその名前を口にしていた。
「……三井、くん」
こんなに驚いても止まらない涙は、本当に私の涙腺が馬鹿になってしまったのかもしれない。
止まることを知らない私の涙を呆然と見ていた三井くんは、何か考える素振りをしてから、ぐいっと私の腕を掴んだ。
「ちょっと付き合えよ」
「え、ちょっと!」
決して振り解けない強さではないものの、久しぶりに触れた三井くんの大きな手に戸惑ったまま、つい後を追ってしまう。
三井くんは大学時代の私の彼氏だった。バスケ部だった彼と知り合ったのは共通の友人を通じてで、それから顔を合わせる度に少し話したりなどしながら、二年生で付き合い始め、そして四年生のときに別れた。
どうして別れたのかはイマイチ分からない。ただなんとなく、一般企業に就職が決まった私とプロのバスケ選手としての夢を叶えた三井くんとの間で、将来へのビジョンみたいなものが少しずつすれ違っていくのを感じていた。
それは三井くんも同じだったようで、私の持ち掛けた別れ話に特に言い返すことも無く、「そうだな」で話はまとまり、私たちは元恋人というだけの他人になった。
「……ここ」
三井くんに連れられて来たのは、学生時代よく自主練をしていた公園のバスケコート。照明に照らされたコートには他に誰もおらず、ここでやっと手が離される。
上着を脱ぎ、背負っていたカバンからバスケボールを取り出した三井くんがゴールの下を指さした。
「そこからボール拾って投げろよ」
久しぶりに聞くボールの跳ねる音を聞きながら、言われた通りの場所に立つ。三井くんのシュート練習に付き合うのは初めてではないので、大体の勝手は分かっているつもりだ。三井くんが投げたボールを拾って、また投げ返す。
もう何度も見た三井くんのシュートフォーム。その手から放たれたボールは、ゴールまでの軌道があらかじめ決められていたかのようにまっすぐに吸い込まれる。大学時代、何度もこの場所で見たその映像が、今目の前の光景と頭の中で重なる。
「あっ……、ごめん」
ついぼーっと見蕩れてしまってボールを拾うのを忘れてしまっていた。跳ねてコートの端まで転がっていってしまったそれを拾いに行っていると、後ろから笑い声が響く。
「オレのシュートを見てるときのアホ面は変わんねーな」
「三井くんのシュート、本当に綺麗なんだもん」
「結局、バスケには大して詳しくならなかったくせに」
「詳しくなくても分かるくらい、凄いんだよ!」
馬鹿にしたようなその笑いにムッとして、手に持ったボールを力いっぱい投げつけるけど、いとも簡単に受け止められてしまう。
付き合うまでバスケなんてボールを投げてシュートを決め合う、くらいの知識しかかなかった私に、三井くんは色々と教えてくれた。一緒にプロの試合を観戦しに行ったり、三井くんの試合を見たり。だけど意外にも細かいルールを理解するのは難しくて、私が覚えたことなんてトラベリングとかリバウンドとかそれくらいだった。
ただそれでも、嬉しそうに私にバスケの話をしてくれる三井くんが大好きだった。
「何があったんだよ」
今度は拾い忘れてたりなんかしないで、テンポよくボールを返していたつもりだけど、三井くんが手を止めて私の方を見た。
何を聞かれているのかは分かっている。
「大したことじゃないんだよ。ちょっと会社で理不尽に怒られて、でもそれって、組織の中でいる上では仕方の無いことじゃん。別にいつもそんな怒られ方してるわけじゃないし、それくらい我慢しなきゃって思うのに、上手く割り切れない自分が情けなくなった」
真剣に私を見つめるその瞳を見ていられなくて、自然と顔が俯く。
ああ、そういえば、初めて三井くんとの差を感じたときもこんな感じだった。あれは就職活動が上手くいってない時期で、一方の三井くんは春からの大会で大活躍でプロ入りも間違いないと騒がれていた。
そのときにふと思ってしまった。これから先、私はこんな栄光を浴び続ける人の隣にいるのかと、プロのバスケットプレイヤーと付き合いながら大してバスケにも詳しくなく、夢に向かって突き進む彼に距離を感じて生きていくのだろうかと不安になった。
あの頃はそんな自分のことばかり勝手に悩んで、別れようと言った。だけど、もしかしたら三井くんも同じことを考えていたんじゃないだろうか。
プロの世界に入っていく不安だって当然あっただろう。その不安を一番分かち合いたいはずの私は、目先の就職にばかり精一杯で、三井くんがしているバスケ以上のことに興味を持とうともしない。そんな私にもどかしさを感じていたんじゃないだろうか。
「こっち見ろ、なまえ」
急に名前を呼ばれて顔を上げると、今日一番高く上がったバスケボールが、星のない夜空に浮かんでいた。それがゴールをくぐるまでの時間がやけに長く感じる。
だん、と大きく跳ねたボールを自分で受け止めた三井くんが今、目の前に立っている。
「つらいなら辞めろとか、無責任なことは言えないけどよ」
真剣に私を見つめるその瞳から今度はもう目が逸らせない。
「今なら、昔よりも上手くお前のことを支えられると思うぜ」
「でも……」
「あの頃はお互い余裕がなかったんだろ。自分の足で立つので必死で、お前を掴んでやれなかった」
別に三井くんとの恋に未練があったわけではなかった。まったく思い出さなかったわけじゃないけど、上手く忘れられているはずだった。
それなのに、ずっと消えずにいた熾火が燻っていたかのように、少しずつ火が点ってしまいそうになる。
「私、結局バスケのこと覚えらんなかったし」
「オレのことだけ見てんならそれでかまわねーよ」
「ただのOLだし」
「関係ねえだろ。そもそもオレだってバスケ興味あるやつしか知られてねえし」
逃げ道を探そうとしながら、本当は本気で逃げる気なんてないのだ。ただ、素直にこの気持ちを受け入れるのが癪なだけ。
「とりあえず、試合見に来いよ」
片手でボールを掴める三井くんの大きな手が、私の頭を優しく撫でる。
「次にコートでオレを見たら、絶対にまた好きになるからよ」
もうとっくに恋になんて落ちてるくせに「考えとく」なんて強がる私に、きっと三井くんは気づいている。
別れてからの時間が長かったのか、短かったのかは分からないけど、それでも再び始まったこの恋はその時間さえ必要だったと思わせてくれるのだろう。
明日の季節が待ち遠しいね
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