あれだけ暑かった太陽が、最近少しだけその陽射しを柔らかくした気がする。それでもまだまだ暑いことには変わらなくて、冷房が効かない廊下を歩くだけでも首の後ろが汗ばんで億劫だ。
だけど今日は心が軽い。携帯片手に階段を駆け上がって、通い慣れた三年生の教室の扉を開ける。

「三井先輩!花火大会行きましょ!」

昼食を食べ終わり、自分の席で紙パックのジュースを飲んでいた三井先輩に持っていた携帯の画面を見せると盛大にしかめっ面をされる。
駅の掲示板に貼ってあった河原沿いで行われる花火大会のチラシを撮った写真。お盆に行われる大きな花火大会には、三井先輩のインターハイがあったりとで、とても誘えはしなかったけど、これなら一緒に行くことも出来るだろうと思ったのである。だけど、三井先輩の反応はイマイチだ。

「行かねーよ、部活あんだよ」
「残念!その日が早めに終わるのは宮城くんに確認済みでーす」

同じクラスの宮城くんは新キャンプテンとなってから、ビシバシと張り切っていると彩子が言っていたので心配だったけど、聞いてみたらその日はミーティングと軽い練習だけにするのだという。
決まりの悪そうな三井先輩の表情を見る限り、そのことは知っていたのだろう。じっとその目を見つめると、観念したように溜め息を吐かれる。

「早めに終わるっつっても、そのあと自主練はするつもりなんだよ。そんなことしてっと、とっくに始まっちまうだろ」

夏の大会が終わってもバスケ部に残った三井先輩にとって、今も変わらず大切な時期なのは十分に分かっているつもりだ。
だから、少しでも三井先輩がバスケを優先したいようならスグに引き下がるつもりだった。だけど、この反応を見る限り行きたくないというよりは、私のことを気遣ってくれているらしい。分かりにくいその優しさが嬉しくて、思わず頬が緩む。

「それでもいいんですよ。ほんの少しでも、三井先輩と花火が見れたなら幸せなんです」

そのとき、見計らったようなタイミングで予鈴が鳴り響く。次の授業は移動教室なのに教科書を持ってくるのを忘れてしまった。あわあわと急いで教室を出ようとすると、思いがけず三井先輩に呼び止められて反射的に振り返る。

「それ、あとでオレにも送っとけよ」

なんのことだろう、と一瞬思ったけど、すぐに花火大会のチラシのことだと気づく。だからこれは、とっても分かりにくいけど一緒に行ってくれるということなんだろう。込み上げる嬉しさに飛び跳ねたいのを抑えて、噛み締めるように頷く。

なんとか間に合った授業中、机の下でこっそり送った写真付きのメッセージには「真面目に授業受けろよ」と返ってきた。まさか三井先輩からこんなことを言われる日が来るとはなぁ、と感慨深い思いに浸りながら窓の外を眺める。
これから五日間、私は毎日のように三井先輩と一緒に眺める花火のことを思って、こんな幸せな気持ちになれるのだ。ああ、本当に、それはなんて贅沢なことなんだろう。







■□■□








待ちに待った花火大会当日。デートっぽく会場で待ち合わせるのもいいなと思ったけど、それよりも少しでも長く一緒にいたくて、結局学校の校門で待ち合わせることにした。

日に日に太陽が沈むのは早くなっているのを感じるけど、見上げた空にはまだ昼間の残滓が残っているようだ。この夕闇がどんどん濃くなり、その闇を照らすように大輪の花が咲く姿は想像してみるまでもなく綺麗だろう。七時までには終わらせると三井先輩は言っていたので、三十分くらいは見ることが出来るはずだ。

結い上げたうなじを生ぬるい夏の夜風が吹き抜ける。舞い上がりそうになる前髪を抑えながら校舎の方に視線を向けると、ちょうどジャージ姿で、Tシャツの袖を肩まで捲った三井先輩がこちらに向かってきているところだった。
大きく手を振って見せれば、控えめに振り返してくれる。

「……わざわざ浴衣で来たのかよ」
「いいでしょう?おばあちゃんに着付けてもらったんです。髪はお母さんが」

水色の浴衣の袖を翻して、その場でくるりと一周回ってみせる。可愛いくらい言ってくれるかな、と思ったけど、三井先輩は気まずそうな表情を浮かべているだけだった。私ばかりが張り切りすぎて、少し空回ってしまったのかもしれない。

「さて、それじゃあ行きましょうか!」

少しだけ沈んだ気持ちがバレないように、気を取り直して、三井先輩の手を取って歩き出す。意外にも繋いだ手をほどかれなかったことに安心した。


会場の河原が近くなるほど、打ち上がる花火の音も大きくなる。それに混じって人のざわめきの音も聞こえるようになった。思っていたよりも多くの屋台が出ている通りを抜けて、人通りの少ない道の端に二人並んで立ち止まる。

「上行くか?ここからだと見にくいだろ」
「大丈夫ですよ。ちゃんと見えてますし」

三井先輩が指さした川沿いの堤防には、多くの人影が並んでいるのが見える。確かにここでは並木の影になって、かなり高く上がる花火でなければ全体を見ることは出来ないけれど、今から行っても空いている場所を見つけるのは難しいだろう。

「ほら、十分に綺麗ですよ」

ひゅるひゅると空に舞い上がった花火が、すっかり暗くなった夜空に花開く。少し遅れて響く音と微かな火薬の匂い。
花火が上がるたびに空が明るくなって、三井先輩の横顔を照らし出す。それが綺麗だなと思って、花火そっちのけで三井先輩を見つめていると不意に目が合ってしまった。

ヤバい、花火を見に来てんだろって文句を言われると身構えたけど、すぐにまた三井先輩は空を見上げる。不思議に思ってみていれば、その口元がゆっくりと開いた。

「悪ぃな。色々我慢させて」

その言葉に驚いている間に、またひとつ夜空に花が開き、舞い落ちるように消えていった。
我慢というのはきっと、三井先輩がバスケにばかり時間を割いていることについてだろう。確かに私たちは、友達のカップルのように毎週のように出かけることも、毎晩の長電話をすることも出来ない。

「なーんだ、そんなことですか」

拍子抜けのあまりおかしくって笑いが込み上げてきてしまった。学校で見せた三井先輩の浮かない表情はこのせいだったのか。たった三十分の花火大会のために浴衣まで着てきた私に引いてたんじゃなくて、今日を楽しみにしていた私に満足に花火を見せられないことを気にしてくれていた。
一緒にいられる時間が短くたって、こういう優しさだけで私は本当に幸せなのに。

「そんなことってなんだよ」
「私、我慢させられてるなんて思ったことないですよ」
「……ホントかよ」
「本当ですよ!あ、さては宮城くんか彩子に何か言われましたね」

うっ、と言葉に詰まった様子に「図星だ!」と胸を張れば気まずそうに顔を背けられる。そんな横顔を見上げながら、花火の音にも、人のざわめきにも負けないように声を張る。

「私、三井先輩が思ってる以上に、三井先輩のこと好きですからね!」

言い終わるのと同時に新しく上がった花火は、今日見た中で一番空高くにと届き、そして大きかった。

「……可愛いよ」

どーん、と弾ける音にかぶせるように発せられた三井先輩の声は、掻き消されることなく私の鼓膜を揺らす。少女漫画とかでよく見る聞こえないやつじゃなくてよかった。

「え?今、なんて言いました?」
「何も言ってねえよ」
「嘘だ!可愛いって聞こえました!」
「ばっか、聞こえてんじゃねぇか!」

慌ててこっちを向いた三井先輩の頬が赤いのは、屋台のオレンジの光のせいだけではないはずだ。ニヤニヤと頬が緩むのを我慢できない私を見て、振りほどかれそうになった手が、一瞬の躊躇いの後に元に戻された。

「オレも、なまえが思ってるより、お前のこと好きだぜ」
「えー、私は結構愛されてると思ってますけど……それ以上に?」
「そーだよ」

繋いだ手を強く握り直される。フィナーレを迎えた花火が一斉に夜空を照らし出す。代わる代わる色も形も変える花火を見上げながら、そっとその肩に体を寄せれば、驚いたように私を見た瞳が優しく細められる。ほら、これだけで時間なんて気にするまでもないくらい、幸せじゃないか。








君のための幸福


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