食べ終えた食器を流しに片付け、テーブルに置かれたまま手付かずの料理たちはラップをして冷蔵庫へとしまう。このまま明日の朝食とお弁当の具材となることが当たり前に決まっていたみたいに。今日も連絡のないまま帰りの遅い寿くんは、後で申し訳なさそうに謝ってくれるのだろう。

寿くんには寿くんの付き合いってものがあるのは分かっている。大学を卒業してから実業団のバスケチームへと所属した寿くんは、日中は普通に仕事をこなし、その後バスケの練習と慌ただしい日々を過ごしている。
練習後の流れでチームの仲間たちと夕食に行くことになって、つい私への連絡を忘れてしまうことが月に数回くらいあるのも分かる。
それを寿くんはちゃんと謝ってくれる。何も言わず、それくらい当たり前だと言われたら怒ることもできるけど、帰ってきて冷蔵庫の中のお皿を見て慌てて謝ってくれるから許すしかない。

そういう「許すしかない」ことが、いつからか私の生活にはいくつも転がっている。日曜日にどこかに出掛けようと誘う時、まず「行けそうだったら」と付けるようになったことに、寿くんはきっと気付いていない。

大学で出会ってから八年、一緒に暮らし始めて二年。これを倦怠期と呼ぶのかもしれないけど、なんとなくその一言で済ませてしまうのは違う気もしている。
私たちはちゃんとお互いが大好きで、愛しているし、愛されているとも思っている。これから先、寿くんと結婚するんだろうなって当たり前に思い描けるくらい。

そう、当たり前。それを理解して、望んでいながら、納得できない虚しさとか寂しさとか、悲しさとか、そういうのを全部飲み込んだ「仕方ないね」の繰り返し。
誰かと長く一緒にいるには、そうした妥協が必要なことは分かっている。すべて自分の思い通りにしようなんて思っていない。
それでも、行き場のない寂しさが消えていくたびに、少しずつ「これでいいのかな」と思ってしまう自分がいる。

小さな幸せを積み重ねてきた恋が、いつの間にかその飽和点を越えてしまって、あとはバランスを保つために溢れたものを捨てていく。幸せを維持するための諦めの連鎖。

「──それって、本当に好きなの? ただ長く続けてた関係がなくなるのを怖がってるだけじゃないの?」

静かな部屋にいるのが嫌でつけていたテレビから流れる女優の声。その声だけがやけにはっきりと耳に残る。

「好きだよ。大好きなの」

ひとりきりの部屋で呟いた自分の声が、虚しく響いて空中に散っていく。何をやってるんだろうって馬鹿らしくなって乾いた笑いが漏れたとき、がちゃん、と玄関の鍵の開く音が響いた。

「ただいま」
「……おかえり」

慌てながらも自然に笑顔を浮かべたつもりだったけど、背負っていたバッグを下ろした寿くんはどこか怪訝そうに私を見つめていた。その視線から逃げるようにリビングを出る。

「ご飯、食べてきてるよね? ちょうどお風呂入ろうと思って準備しちゃったから入ってきちゃうね」

足早にバスルームへと向かい、後ろ手で閉めたドアにズルズルと寄り掛かる。何をしているんだろう、本当に。







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お風呂から出ると、ガチャガチャと食器の重なる音と流れる水の音がキッチンから漏れだしていた。洗おうと思いながらそのままにしてしまっていた食器を寿くんが洗ってくれているらしい。

寿くんは優しい。黙っていると少し強面でぶっきらぼうで口も悪いところもあるけど、だけどそれ以上に優しいしかっこいい。そんな人に好きになってもらえて、一緒の時間を過ごせるなんて、とても幸せなことだ。
それなのに、どうして私は今の幸福では満足できなくなってしまったんだろう。

「ごめん、洗ってくれたんだ」
「いいよ、これくらい。それより、今日夕飯いらねぇって連絡忘れてて悪かった」
「……気にしないで、大丈夫だから」

予想していたとおりの謝罪の言葉に、思わず身構えてしまう。許すことを、私は私に許さなければならない。直前まで溢れかえりそうだったものを無理やりに飲み込んだせいで、少しだけ変な間が空いてしまった。寿くんの眉間にシワが寄る。

「気にしてんだろ。言いたいことあるならはっきり言えよ」

水で濡れた手をタオルで拭いてから、寿くんは真っ直ぐに私を見据えた。どことなく刺々しいその声と視線から逃げるように俯く。
分かっている。こうやって言いたいことを我慢して、あとでドカンと大きな喧嘩になることが今までもあった。その度に寿くんは「文句あったらすぐに言えよ」って言っていて、今もたぶん、そういう喧嘩を避けようとしてくれてる。
だけど今、私がモヤモヤと抱えているのは、そうやって一つ一つ解決していくこと全部だって言ったら、寿くんは戸惑った顔をするんだろう。

「言って、何になるの?」
「おい……なんだよ、その言い方」
「私が寿くんが連絡くれないから夕ご飯作っちゃったって怒っても、たった一言も連絡する時間がないのって責めても、寿くんはその全部に、悪かった、次からは気をつけるって言うしかないでしょ? それなら、悪かった、いいよ、の二言で済んだ方がいいじゃん」

一緒に出掛けようとしていた休みの日に自主練の約束をされたって、帰りに買ってきてと頼んでいたものを忘れられたって、遠征の予定を伝えられていなくたって、全部に「悪かった」と「いいよ」を繰り返す。

逆に私だって、同じように寿くんに許してもらっていることがたくさんあるはずなのだ。
誰かと一緒にいるってことは、そうやって許せることを増やしていくことなのかもしれない。そして、許せなくなったその先が一緒にいられなくなるということなんだろう。

「この話はこれで終わり。寿くんもお風呂、入ってきたら」

あのドラマの彼女は結局、どうすることを選んだんだろう。熱心に見ているわけでもないドラマのヒロインに自分を重ねてしまったことが恥ずかしくて、もう別の番組が始まっているテレビを消した。
静けさを取り戻した部屋で、手持ち無沙汰に手の中のリモコンを指でなぞる。

「話、終わってねェだろ」
「だから、何を話すの?」
「なまえの納得出来てねぇことについてだろ。連絡忘れてたのも全部オレが悪いんだから、そうやって我慢してるくらいならもっと怒れよ。あとになって言われる方が困る」

苛立ちを隠しきれていない寿くんの声。それに引き寄せられるように、私の中で黒く渦巻いていた重苦しい感情が大きな波を立てる。

「そうやって簡単に言うけど、私が許せないって言ったらどうするの?」

冷たく吐き捨てるように言えば、寿くんは驚いたように目を丸くして言葉に詰まった。それとは反対に私の言葉は堰を切ったように流れ出してどうにも出来なくなる。

「私が今悲しいと思ってるのは、寿くんに大切にされてないって感じてしまうことだよ」

今日みたいに連絡を忘れられていたとき、仕事や練習が終わって一番最初に考えるのは私のことじゃないんだって思ってしまう。休日に疲れた顔をして起きてきたのを見ると、今日のことを楽しみにしていたのは私だけだったんだって思ってしまう。

「でも、わかってるの。寿くんはちゃんと私を大切にしてくれてて、私が勝手に今のままを満足できなくなっただけなんだって……」

一番に考えることだけが大切にするということではない。忘れられることだって毎回じゃないんだし、無理を言っているのは私の方。だけど、そうやって納得を飲み込むことに悲しくなってしまったのだ。

長くいることで愛が薄れたわけじゃない。今の関係に飽きたわけでもない。ずっと同じくらい好き。昨日も、一昨日も、先月も。そしてたぶん、これからも。
すり減ることがないかわりに、これ以上増えることのない幸せや好き。そういう限界点や飽和点みたいなところに自分がいることに気づいてしまった。
そして目の前にそびえ立つその壁は大きくて乗り越えられないのに、ひどく脆い。ちょっとした衝撃で崩れ落ちて、流れ出した水に押し流されて元には戻れなくなってしまう。それが怖かった。

「だから、だから、言いたくなかったのに」
「なんでだよ、言えよ」
「……めんどくさいって思われる」
「そんなこと思わねぇよ」

ずっと我慢していた涙がこぼれ落ちて視界を滲ませる。声には嗚咽が混じってしまった。大きな溜め息を吐き出した寿くんが私を抱き寄せる。バスケットボールを片手で掴めるような大きな手が、優しく壊れ物でも扱うみたいに私の髪を梳いていく。

「……満足なんかすんなよ」
「え?」

ぼそり、と呟かれた声に顔を上げようとしたけれど、それは叶わず寿くんの胸へと押し戻される。寿くんの心臓の音がゆっくりと鼓膜から身体へと馴染んでいく。

「今日のこともそうだし、他にもオレが悪いことでそうやってなまえに言わせてんのは分かってんだけど、今のままでいいとかそんなこと言ってんじゃねぇよ」

寿くんだけが悪いわけじゃない。そう言いたいけど上手く声にならなくて、かわりに寿くんの胸の中で小さく首を振る。

「オレはこれからもっとお前を大切にしてくつもりではいんだよ」
「……してくれるの?」
「当たり前だろ。オレを誰だと思ってんだよ」

緩んだ腕の隙間から、もう一度寿くんの顔を見あげようとすると、今度はちゃんと試すように軽く口角を上げた寿くんの顔を見ることが出来た。

「みつ、い、ひさし」
「そうだよ、オレが……」

小さく震える声で寿くんの名前を口にする。だけど言葉の途中で寿くんは開きかけた口を閉じて、どこか面映ゆそうに視線を逸らしてしまった。
たぶん、自分が言おうとしたことを改めて考えて、急に気恥ずかしくなったんだろう。今までも何度もこんな表情を見てきた。

そう思ったら急にイタズラ心が湧いてきて、ぐいっと寿くんの服を引っ張る。寿くんは仕方なそうに私の方を見て、深く溜め息を吐き出してからぎゅっと瞼を閉じた。その頬はわずかに赤い。

「オレが……なまえを世界で一番幸せにしてやる」
「うん、よろしく」

嬉しさと、少しだけからかうような気持ちを込めた笑顔。寿くんはそんな私の顔を見てから、また自分の胸に押し付けた。さっきより乱雑な手つき。

幸せや愛情の限界点に立ちはだかっていると思っていた大きな壁。それがゆっくりと壊れていく。
だけど、そこには私たちをバラバラに流し去ってしまうと思っていた濁流はなくて、広く開けたどこまでも続くような長い道が続いていた。








されば愛は止まらない


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