絶望的だった。それこそ世界なんて今この瞬間に終わったっていいって思うくらい。
放課後、南校舎の階段の踊り場。まだ沈む気配のしない太陽はキラキラと光をあちらこちらに反射させていて、絶望に浸る私を無理矢理に陽だまりに引き上げようとしてくる。世界滅亡を歓迎するくらいの絶望なのに、こんなにも簡単に救われてたまるか。そう思って首を振ったら、堪えきれず吹き出すような笑い声が空から降ってきた。

「ひとりで何してんだよ」

階段を降りてこようとしていた人。見上げると逆光で顔までちゃんと見えなかったけど、そのシルエットも声も間違えるはずがなかった。
隣のクラスの三井寿くん。

「三井、くん」
「おっ、オレの名前知ってんだな」
「知ってるよ。バスケ部みんな学校中の有名人だし」

意外そうに眉を上げた三井くんが一段、また一段と階段を降りてきて、あっという間に隣に並んでしまう。同じ高さにちゃんと靴の裏を付けているはずなのに、私よりずっと高い身長にどこを見たらいいのか分からなくなって視線をさ迷わせる。

夏にインターハイに出場して、優勝候補の学校を倒したのだというバスケ部は夏休みが終わるや否や学校中の話題の的となった。同じ学年の赤木くんや木暮くんだけじゃなくて、後輩にあたる宮城くんや桜木くん、流川くんのことも校内で見かけると「おっ」と思うくらいに。

だけど、三井くんのことは本当はもう少し前から知ってはいた。不良と呼ばれる生徒も多いこの学校で、そうしたグループのうちのひとりだった三井くん。
それなりには真面目で通っているつもりの私とは関わることなんてないはずの彼と、たった一度だけ言葉を交わしたことがあった。それだけの繋がりを私はずっと忘れられずにいて、今日までずるずると引きずっている。

「三井くんはこれから部活?」
「おう、日直で遅くなった」
「そうなんだ」

私の声の最後の方に、グラウンドのサッカー部のホイッスルが被る。だから、続けるつもりだった「がんばってね、また明日」が言えなかった。
なんて、嘘。本当は二人きりのこの時間がもう少しだけ続けばいいと思ってしまっただけ。三井くんは早く部活に行きたいはずなのに、こんなズルをしてしまって絶望がまたこぽりと込み上げる。

私は、三井くんに恋をしている。
たった一度だけ言葉を交わしただけのくせに、今日までずっとそれ以上の行動も取れない臆病のまま、大事に大事にあの一目惚れの瞬間を抱え込んできた。

もう一年近く前になる放課後、先生から課せられたプリントとノート運びを欲張って一度に抱え込んだ結果、廊下で盛大にばらまいた。前にも後ろにも飛び散ったプリントの海の真ん中で「最悪だ」と自分のズボラさと、私一人に任せた教師の怠慢を呪った。
このまま帰りたい、と泣きたい気持ちになりながらも足元のプリントからせっせと拾い集めていたら、突然視界の端に誰かの手とプリントの束が入り込んできて、ぎょっとした。

驚いて顔を上げると長い髪、そして揺れたその隙間から男子生徒の横顔が目に入った。「ほらよ」と無愛想なその人の声が耳に届くと、私が散らかしたプリントの束が手渡されるでもなく、そのまま床に置かれた。
振り返ると後ろの方に飛んでいった分がなくなっていて、拾ってくれたんだ、と理解したときにはその人はもう歩いていってしまっていた。だから慌てて「ありがとう」と大きな声を出したら、その人が軽く肩をすくめたのが分かった。

それからまた学校でその人を見つけたのは、用があって隣のクラスを覗いた時だった。「あっ」と声を上げそうになるのを我慢して、こっそりと話のあった友人に聞いて名前を知った。
三井くんの名前を心の中で唱えて、廊下ですれ違えば少しだけ背筋を伸ばしてしまう恋。向こうは私の名前も知らず、たぶんプリントを拾ったことも気まぐれですぐに忘れてしまったことだろう。
叶う見込みもない、だけど健気な私だけの恋。それを卒業までずっとひっそりと抱えていくのだと思っていた。

それなのに、この数ヶ月で随分と状況が変わってしまった。三井くんがバスケ部に復帰して、長かった髪もバッサリ切って、どこか雰囲気も変わって、そして今や学校の話題の人だ。
三井くんがキラキラとしていくにつれて、すれ違うときに伸ばしていた背筋がだんだんと丸くなっていった。一生懸命にしがみついていた記憶がしだいに色を失っていく。

そして決定的だったのが昨日。放課後にバスケ部の練習を覗きに行くという友人について体育館に行ってしまった。三井くんのバスケ姿を見てみたいと思ってしまったのだ。そして、ひどく打ちのめされた。

バスケをしている三井くんは本当にカッコよかった。あちらこちらに飛び交うボールが彼の手に受け止められて、そのまま弧を描いてゴールに吸い込まれていった。三井さん、と呼ばれて振り返った笑顔が眩しくて、あまりにも遠かった。
呆然と三井くんを見つめていると、隣にいた後輩と思しき女の子が小さな声で「三井先輩、かっこいい」と口にした。恋する乙女の声だった。

そして気づいてしまった。ずっとずっと、私だけの宝物のように大切にしてきた恋は、この子のものと何も変わらないのだと。一方的に知っていて、一方的に好きなだけ。報われないどころか届きもしない、ありふれた片想い。
卒業まで残り半年もないのに、現実ってやつを突きつけられてしまった。名前すらも知られていないような分際で、今さら両思いに向けて足掻く気にもなれず、かといって今までみたいな特別感に浸れるほど恋に浮かれることもできなくなってしまった。
だから、絶望的。

「あっ、じゃあ早く部活行かなきゃだね。頑張ってね」

またグラウンドからピーとホイッスルの音がして、はたと現実にかえる。取ってつけたような笑顔を浮かべて、軽く手を振って三井くんの隣を通り過ぎる。
足をかけた階段が一人の時より高く感じる。あるいは踏み出す足が重くなったのかもしれない。

片想いを始めてから初めて交わしたちゃんとした会話。ずっと不良仲間の男の子たちとばかりいるところをみていたけど、最近は三井くんが女の子と話している姿も見かけるようになっていた。だから、今こうして私と話したことも、三井くんにとってはありふれた日常として吸収されて、そのうち記憶から消えてしまうんだろう。
だけど私はずっと覚えていてしまう。高校時代、一番好きだった人との思い出として。その差異がどうしようもなく惨めで、これは健気を通り越して哀れだなって自嘲する。

「おい」
「え?」

思いがけず呼び止められて振り返る。階段の一番上まであとひとつ。並んでい立っていた時は見上げていた三井くんを今度は上から見下ろす。

「また、練習見に来いよ」

差し込んだ日差しに照らされた三井くんの頬が、少しだけ赤く見える。はっきりと届いたはずの三井くんの言葉が理解出来ず、何度もまばたきを繰り返す。また、それはつまり、昨日私がいたことに気づいていたということ。
何か言わなくちゃ、と焦りながら言葉の出ない私を見て、三井くんは少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべた。そして背を向けて去っていってしまう。その手前、後ろを向いたまま軽く手を振られた。
呆然と立ち尽くした私を置いて、三井くんの姿が見えなくなって、そのままズルズルとしゃがみこむ。

こんなことで浮かれるなんて調子にのりすぎかもしれない。だけど、ちょっとだけ期待もしたくなってしまう。だけど単純な私はきっと、また明日バスケ部の練習を見にいってしまうに違いない。

あんなに胸の中をいっぱいにしていた絶望は、もう綺麗さっぱりなくなって今は恋と希望で溢れだしそうだった。滅亡してもいいなんて撤回。まだ当分はなくならないでくれ、世界。


世界の命運かかってんのさ


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