生徒玄関を出ると冬の空が広がっていた。
高く澄んでいて、淡く、だけど鮮やかな──なんて、そんな矛盾を当たり前みたいに包み込んでいる冬の晴れ空。吸い込んだ空気が冷たく肺を満たして、暖房でぼうとしていた意識をはっきりさせていく。

マフラーに鼻までうずめながら、もう一度空を仰ぐ。冬の晴れた日が珍しいわけじゃないけど、今日みたいな純度の高い冬の空は特別だと思う。冬が始まったばかりの空は夏の余韻を残していて青が濃すぎるし、寒さが強すぎると鮮やかさが足りない。だから、春が近づいている予感に胸をときめかせるような軽やかさを秘めた空を見れるのは今だけ。

「なまえ」

突然背後からかけられた声に驚いて振り返ると、扉に手をかけながら見慣れた顔が私の方を見ていた。

「びっくした、寿くんか」
「ぼーっと突っ立ってるからだろ」

とんとん、とつま先を地面に打って靴を履いた寿くんが隣に並んで、それから自然と二人揃って歩き出す。
そうするのが決まってたみたいに一緒に帰るのは初めてじゃないけど、なんとなくむず痒い気持ちになる。だけど、帰る方向が同じなのに敢えて離れるのもおかしな話だから、やっぱりこれが自然なんだろう。
だって、私と寿くんは幼馴染だから。

三年生の寿くんに対して、一年生の私が敬語を使わないのは「今さら気持ち悪いからやめろ」って寿くん自らに言われたから。でもせめて、寿お兄ちゃんって呼んでいたのはやめて寿くんと呼ぶことにした。それについては何も言われなかった。

「今日は学校来てたんだね」
「おう、なんか書類とか色々」

昔は何についても自信満々でキラキラした王子様みたいだった寿くんは、高校に入ってすぐ大好きだったバスケを一度やめた。
それから拗ねたみたいに悪いお友達たちと遊ぶようになって、見た目も雰囲気も随分と変わってしまった。中学の帰り道に初めてそんな寿くんを見たときはびっくりしたけど、驚いた勢いで名前を呼んだら、振り返った表情がバツの悪そうな寿くんそのままだったから、根っこの部分は何も変わってないんだって安心した。

高校生になった私も湘北に入学して、寿くんは色々あってまたバスケを始めた。夏にはインターハイにも行って、それから心配だった大学の推薦も無事に決まった。
そうやって時間ばかりがどんどん過ぎて、来週にはもう卒業式だ。
少しだけ歩みをゆるめて、隣を歩く寿くんの顔を覗き込む。背の高い寿くんを見上げると、自然と大きな空まで目に入る。

「ふーん、なんか大変そう」
「思ってねぇだろ」

呆れたと言いたげにこちらを見た寿くんの視線がふと私の手元で止まる。帰りがけに買ったまま、ぬるくなり始めたペットボトル。

「あっ、自販機で見つけたの。桜ラテ」
「好きだよな、そういうの」

嬉しくなって見せた愛らしいビンクの花びらの舞うラベルに寿くんが柔らかく笑う。春が近づくにつれて街に溢れるサクラ味。それを毎年楽しみにしているのを覚えていてくれたことが嬉しくて、私も同じように笑う。

「美味しかったよ。飲む?」
「ん」

キャップを外して差し出せば、寿くんはなんの躊躇いもなく受け取って口をつけた。流石にコートは着ているもののマフラーはしていない首元から覗く喉仏が小さく動く。
関節キスだ、と思うけど、それをキスだと呼ぶならそんなもの幾度となく繰り返しすぎた。

「あー、確かに桜って気はするな。食ったことねぇけど」
「なにそれ、テキトーだな」

返されたペットボトルに蓋を閉めなおしながら、横目でちらりと寿くんを見上げる。寿くんは真っ直ぐに前を見たまま、私たちの視線は交わらない。
少しでも長くその横顔を見ていたいなんて、そんなのずっと初恋を引きずり続けている私だけの欲望だから。

「でも、桜の花って食べれるよね」
「花を?」
「塩とかで漬けるんだよ、確か」
「へえ、塩辛そうだな」

何かの雑誌で見た気がする桜の花の漬け方を思い返していると、あまりに率直な寿くんの感想に思わず吹き出すように笑ってしまう。

「でも実際、桜の花ってしょっぱそうじゃん」
「そうか? てっきり甘そうとか言うかと思った」
「甘くないよ、絶対」

そう言い切れば、寿くんは少しだけ意外そうに私を見た。だけど、その視線には気付かないふりをして前を見つめる。
だって、私のことを好きじゃない寿くんには分からないから、絶対。

初恋は叶わないなんて、使い古された言い回しに寄りかかる気はないけど、この恋は叶わないって私はちゃんと自覚している。寿くんにとっての私はただの幼馴染で、妹分としての立場すら、たぶん、もうじきに失う。

「でも、今年は桜が咲くの早そうだね」
「あー、そうかもな」
「寿くんの卒業式には咲いちゃうかも」
「それは早すぎだろ」

まだ芽も膨らんでいない桜の花が来週に咲くなんてことは有り得ない。だけど、そう、これからどんどん春が近づいていくうちに──

「……入学式にはきっと満開だね」

少しだけ湿ってしまった声に寿くんがからかうように口元を歪めた。

「なんだよ、寂しいのか?」
「自惚れ」
「可愛くないやつ。大学までは追いかけてくんなよ」
「行かないよ! そもそも湘北だって寿くん追いかけてきたわけじゃないから!」

嘘だ。本当は寿くんが湘北に行くと聞いた時から、私も当たり前にそこに行くことを決めていた。だから行こうと思えば大学にだってついていくことはできるだろう。だけど、それにはもうタイムリミットだと知っている。叶わない初恋の賞味期限。たぶん、これ以上はただの執着になってしまうから、私はこの春と共に寿くんへの恋に別れを告げることを決めている。

ずっと、毎日当たり前に寿くんが好きで、そうやって生きてきたのにそれを手放すなんて考えられないけど、この恋は魔法だから、シンデレラの魔法が零時で解けるみたいに、案外あっさりと消えてなくなるかもしれない。

そう、初恋の魔法。近所に王子様みたいなお兄ちゃんがいる、そういう環境で育ってしまったら、女の子はどうしたって初恋の魔法にかかるのだ。だけど、それは残念なことに相手の男の子には作用しない。近所の年下の女の子はお姫様になんてなれないで、ずっと妹みたいな女の子のまま。

だから、私が寿くんに恋をしてしまったのは不可抗力で、そしてこの恋が叶わないのもまた仕方がないこと。誰にも知られずに初恋がひとつ消えていくだけの話だ。これ以上、どうしようもなかったんだって、そう思わないとやっていられない。

「ねえ、寿くん。もっとちゃんと春になったら桜のお菓子が食べれるカフェに行こう。寿くんの試合も、見に行くからさ」
「あー、そうだな」
「約束だよ」

この約束は叶わない。だって、春が来たら寿くんはもう私の手の届かないところに行ってしまう。慣れない新生活が始まって、バスケの練習だって今よりずっと忙しくなる。
そうやって私のことなんて忘れていって、そのうち妹みたいに可愛がってたことだって、遠い思い出話になってしまうんだ。

そして、私だって幼馴染のお兄ちゃんに抱いた初恋なんて忘れてしまうだろう。好きだったって思い出に、今日の寂しさも切なさも残らない。だけどたぶん、この初恋の味だけは覚えている。涙に浸った桜みたいな、しょっぱくてほのかに甘い初恋の味。



春めいて、さよなら


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