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帰ってきたらさ、どっか行こーぜ。
…どっかって、どこ?
どこでも。北村の行きたいとこ連れてってやる。
なんで?
なん、…お前なあ…そこはアリガトウって甘えとくのが相場でしょうが。
電話を切ったのは十時を超えたころだった。いつもなら夜遅くに電話するなど良しとしない祖父は最後まで何も言わなかった。
一晩たって朝を迎える。泣きすぎて頭が重い。
さんざんみっともなく泣いて、ようやく泣き止んだ頃、松川はいつもと同じ眠たげな声で呆れたように笑った。松川はあの晩、本当に何も言わなかった。わかっていても黙っていてくれること、それが松川の底抜けに優しいところだ。私はいつもその優しさに甘えてばかりいる。
松川、ありがとう。
…いーよ、別に。
昨日電話を切ったのと同じ縁側の隅に腰掛ける。不意に振り向き仰いで、壁にかけられたままの祖母の絵を見上げた。冷たい絵だ。描いた私だってそう思う。
三年前、戻ってきた学校の美術室、夏休みの最後の三日で描き上げた絵を見て、松川は何も言わなかった。いろんな人がいろんなことを言っていた中で、松川だけは決して同意しなかった。
見てた俺だってわかってやれねーのに、見もしてねーヤツらに北村の何がわかるわけ。
松川はわかったフリをしない。でも知ろうとして押し入ってくることもしない。
ただ大丈夫、まるでそう言い聞かせるように頭を撫でる松川の手に、私はきっと何度も救われてきたのだと思う。曖昧なのは私自身が私の感情を捕まえていられないからだ。
「お前は俺に似たんだろう」
「、」
唐突だった。振り向いたそこにはいつの間にか、いつもの藍染に身を包んだ祖父が立っていた。
「だから澄玲はお前を理解した」
「……」
揺るがぬ立ち姿。老齢を感じさせながらも隙の無い佇まい。そこに侘しさを感じたのは初めてだった。それは肌を刺すような行き場のない孤独と寂寥だ。
そうか、祖父も寂しいのか。考えなくとも当たり前の事実なのに、どうして今まで感じられなかったんだろう。
「…祖父ちゃんも、言いたいことが上手く言えなかったりするの」
「ああ」
「言いたいことが…わかんなかったりした?」
「ああ」
「……祖母ちゃんは、」
「理解した。俺にもわからん俺の諸々を、知らない間に汲み取った」
「…」
「お前の生き辛さは、俺譲りだ。だから澄玲はお前を理解した」
澄玲、すみれは祖母の名だ。私の絵から、私の言いたいことを、感じたことを拾い上げることのできた唯一の人。描いた絵をただ差し出すだけで、そうかそうかあれが悲しかったのか、これが寂しかったのかと、当然のように答え合わせをしてくれた人。たったひとりの、私の理解者だった人。
私に視線を合わせることなく同じように絵を見上げる祖父を見て、私は初めて後悔した。
どうしてもっと良い絵を、祖母の笑顔や穏やかな姿を描かなかったんだろう。
「紫乃」
祖父と私は―――いや、祖父は、取り残されてしまったのかもしれない。唯一の理解者を失って、立ちすくんでしまったのかもしれない。
夫として共に歩んできた祖父の喪失感を語る資格など―――隣で立ち尽くす資格さえも、私には無いのだけれど。
「俺が死んだら、俺を描くか」
ぐらり、心臓が揺らぐ。目の球の向こうの何かが眼球を圧迫した。胸を握り潰すような圧迫感を耐え忍ぶ。固く結んだ唇がゆがんで、出した声は押し潰したみたいに曇っていた。
「…飾る人がいないよ」
祖父は天国を信じない。私も同じく信じない。この家に仏壇はなく、あるのはただ私が描き、祖父が引き取ると申し出たあの絵だけ。
おばあちゃんはきっとあなたのことを天国から見守ってるのよ、なんて慰めにもならない夢物語、私にとっては何の意味もない。きっと祖父にとってもそれは同じだ。
祖母の死を描き、そして誰にも理解されなかったあの絵が、他でもないあの絵が、私に祖母の死を突きつけた。
『人は死ねば土に還る。だがお前の絵は紙と絵具だ。だから土でなく、俺が貰う』
祖母ちゃんは死んだ。もうどこにもいない。だから私はあの絵を描いたのだ、きっと。
「そうか」
祖父は頷き、背を向けた。それでいい、そう言われた気がした。
ラインの無料電話の通知を告げる画面とその下の思わぬ名前に、紫乃は一瞬目を見開いた。岩泉一。昨日の松川に続いて今日は岩泉とは、一体何の偶然の連続だろう。
「…もしもし?岩泉?」
『おう、今平気か』
「うん、平気だけど…どうかした?」
突然の連絡に戸惑いを隠せない紫乃に対し、電話線越しに届く岩泉の声はいつも通り迷いも気負いもないように聞こえた。
『や、どうってこともねぇんだけど。…もう宮城戻ってんのか?』
「いや、まだ田舎にいるけど…」
『いつ戻んの』
「明日の夕方」
ふうん、という相槌を耳に、紫乃は部屋の隅に纏めたスーツケースを見やった。一週間余りの滞在も終わりを迎えようとしている。明日の昼頃出発し、新幹線で宮城に戻る予定だ。
紫乃は誰も見ていないのにもぞもぞと佇まいを直した。電話線一本が繋ぐ沈黙が肌に馴染まない。松川と電話しているときには感じなかった気まずさに、次の言葉は猶更出てこなかった。
「…岩泉は、今日も部活?」
『おう』
「休み、ないんだね」
『いや、盆休みは三日くらいあった』
「そっか。…あ、花火大会も行ってたもんね」
『、なんで…』
「朱音が写真送ってくれたよ」
昨日の晩のことだ。ラインで朱音が送ってくれた何枚かの写真には綺麗に映された花火と、たこ焼きやらリンゴ飴を片手に笑顔やピースを向けるバレー部たちと朱音の姿があった。
見ているだけで情景が浮かぶようで、紫乃は早々とスマホを手離した。楽しそうな姿に温まる胸の裏側にちらつく、そこはかとない疎外感には気づかないふりをした。
当たり前のことだ。私なんかいなくたって誰でも楽しいものは楽しい。
しんしんと自分に言い聞かせながら、紫乃は昨日の電話で花火大会を早抜けしたと松川が言っていたのを思い出した。救われたような気持になる自分が余計嫌だった。
『…そうか』
「うん。楽しそうだったね」
『うるせーのが多すぎて疲れたけどな』
「岩泉は射的とか上手そうだ」
何でもない風を装うのは自分のためでもある。けれど岩泉はなんとなく間があった返答ののち、相槌を打つこともなく黙ってしまった。再び会話が滞る。紫乃はまた佇まいを直した。
『北村、ちゃんと寝れてんのか』
岩泉の声は唐突に再開した。紫乃は今度こそ言葉に詰まり、そして察した。彼が聞きたかったのはこの一言だったのだ。
その瞬間、自分でも信じられないほど突然に、目一杯に飾り付けた「いつも通り」が滑り落ち、音を立てて砕け散った。心だけ別の生き物になったかのように、出した言葉は普段の自分から遠く乖離していた。
「…あんまり。祖母ちゃんの夢を、よく見てる」
息を呑んだのは岩泉の方だった。一切の感情を消し飛ばしたかのような、これまで聞いたことのないような無機質な紫乃の声に、戦慄が走った。
こいつ今、どんな顔してんだ。
フラッシュバックのように蘇るのは、背筋が冷えるほど生々しい死を描いた祖母の絵。短い襟足の下でうなじが嫌に冷える。無性に確かめたいその表情は、けれどスピーカー越しにはわからない。
『…駅には、何時に着くんだ』
「五時くらいかな」
『その後用事あんのか』
「何もないよ」
『……』
落ち着いた声がよどみなく答える。一旦言葉に詰まると途方に暮れたように黙り込むのに、話すときには迷いなく話す彼女の、緩急激しい口ぶりのスイッチはどこで切り替わるのか、岩泉にはまだわからない。
そのあとはなんとか当たり障りのない会話を続け、二人は通話を終了した。紫乃は縁側に出て空を見上げた。明日には雨が降るらしい。色の薄い青空はきっと、雨上がりにまた濃いブルーを取り戻すのだろう。
「…え」
「おっす」
祖父の家を出発し、仙台駅の改札を潜った紫乃は、はたと足を止めて目を見開いた。なんでここに。傘を片手に佇んでいた岩泉が無造作に手を上げる。どう答えていいかわからず、こっくり頷いた紫乃の顔をじっと見下ろした岩泉は、いつもの素っ気ない無表情を崩さず言った。
「メシは?」
「え、…晩は、まだだけど」
「なら付き合え」
「は?」
状況を把握するにはあまりに短すぎる会話に紫乃は一瞬呆気に取られた。けれど岩泉に猶予を与える意はなく、彼は紫乃のスーツケースに手をかけるとさっさと出口に向かう。
荷物を質に取られてはどうしようもない。紫乃は目を瞬かせ、混乱を顔に張り付けたまま、戸惑った足取りで遠ざかる背中を追いかける。
仙台の空は大粒の雨を降らせていた。安物の折り畳み傘が風に煽られ頼りなく軋む。足元はすでにびしょ濡れだったが、それよりも唐突に現れた彼の振り向かない背中が気になって、紫乃は落ち着きなく鞄の取っ手を握っていた。
訪れたのは前にバレー部レギュラー陣と赴いたのとは違うラーメン屋だった。岩泉が端っこのカウンター席を選んだので、紫乃は少しほっとした。対面に座るのは昔から得意じゃない。
どれにする、と言われて選んだ醤油ラーメンを、岩泉は前と同じように、少なめで用意するよう店主に頼んでくれた。やがてどんぶりが二つ届き、いただきます、の一言と共に、箸をつける。
案の定先に食べ終えたのは岩泉の方で、黙したままスマホをいじるでもなく水を傾ける。待たせてしまっている。思った紫乃が心なし箸を早めようとしたその時、薄い緊迫感を隠した沈黙がついに破られた。
「この前ネットで、お前の絵を見た」
「、」
「中三の時の、夏の絵」
箸が止まった。熱気に包まれているはずの店内の温度が急にわからなくなった。
ぐるり、顔を回して見やった岩泉は、真っ直ぐに紫乃を見詰めていた。彼の感情は読めない。隙の無い眼差しが瞳の裏側まで貫通し、何もかもを見透かしてしまうような気がして、紫乃は思わず凍り付いた。
引き剥がすようにして逸らした視線から逃げる。ざわざわ、押し寄せてくる不穏な何かに名前を付けられなかった。付けられないのに駆り立てられる。
漠然とした危機感。掻き集めた安寧を叩き割られる、そんな恐怖。
この人は何が言いたい。何をするつもりだ。
「描くのか、人。今年」
淡々とした声が問う。紫乃はもはや一口も喉を通る気のしないラーメンを見詰めたまま硬直していた。
あの絵を見たと言うことは、その背景にある話も知っているということだ。
岩泉は決して言葉数を多くはしなかった。けれどその眼差しに容赦はなかった。
百の言葉より雄弁に、鋭利に踏み込んだその眼光が、片づけきれない諸々を押し込んだ隅の隅まで照らし出す。見ないふりを決め込んだすべてが明るみの下に暴き出される。
でも岩泉はそれを抉るようなことはしないのだ。
乗り越えられるか。
そう尋ねる澄んだ双眸から注がれ、散逸することのない光が形を取って突き刺さる。
体育館に通うようになって日が経つにつれ、本格的な夏が近づくにつれ、イメージはまとまらず筆は進まなくなった。
描きたい人はわかっているのに、瞼に焼き付く映像が隙あらば頭をジャックする。ようやく形になり始めていたデッサンが指先から滑り落ちてゆき、感覚が温度を失くしてゆく。
その強張る鉛筆に気づいていたのは、私自身だけではなかったのだ。
「っ、」
ふ、と視界に落ちた影、伸びてきた大きな手にぐっと頭を抑え込まれた。ぐしゃり、ぞんざいな手が俯いた私の後頭部を一度だけかき混ぜ、そのまま離れることなく留まる。染み入る体温。祖父ちゃんの手より厚みのある、若い手のひら。
「…いい。悪かった」
ぶっきらぼうな物言いの彼に、隠しきれていない罪悪感を纏う労わりを口にさせた私は、どんな顔を見せてしまったんだろう。精一杯に振った首は油が切れたようにぎしぎし軋んで、弁解の言葉一つ出せない自分がほとほと嫌になった。
店を出ると雨脚は強まっていた。送ると申し出てくれた彼に、バスに乗るから構わないと断り、バス停で道を分かつ。
「気ィつけて帰れよ」
「…うん」
真っ黒い傘が灰色の空に咲く。岩泉と見に行った屋上の水たまりは、こんな雨の日の次の朝に生まれたんだろうか。思った時、脳裏に岩泉の双眸が閃いた。
暴きながらも抉らず、踏み込みながらも荒らしはしない、硬質に透き通った強く純一な瞳。
乗り越えられるか――――いや、違う。尋ねられたんじゃない。
乗り越えて見せろと、背中を叩かれたのだ。
稲妻のように理解した瞬間、気づけば声を上げていた。
「岩泉!」
岩泉が振り返る。驚いた顔をしているのがわかった。心臓が煩い。
息を吸い、この期に及んで迷う自分に歯噛みした。誓約は枷になる。言葉にした約束はこの心を縛るだろう。私は臆病者だ。でも。
「――――描くよ」
君を、とはまだ言えない。
「…ひと、描く」
君を描く前に、私には描かなければならない人がいる。
「…そうか」
岩泉が頷く。確かに聞いた、そう言われた気がした。もう逃げてはいられない。
本当はずっとわかっていた。この季節になれば瞼をジャックする景色の意味を、本当はどこかで理解していた。
簡単な話だ。私はそれに、向き合うのが怖かっただけだ。
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