たとえば、教室でひとり残って俺を待ってくれているときの横顔とか。

整えられた黒髪がすとんと肩まで落ちていることとか。ひんやりして落ち着いた表情は基本的に標準装備で、けれど聞いてみれば結構な確率でものすごくどうでもいいことを考えていたりするとか。誰に対する時も驚くほど真っ直ぐで、けれど本人にそんな自覚はさして無いところとか。
そしてちょうど今みたいに、考え事をするときそっと伏せられる瞳と長い睫とか。そうしてこちらに気づいて目が合うと、ちょっとどぎまぎして視線を泳がせる姿とか。

そんな何でもない瞬間を、余すことなくすべて見ていたいと思ってしまう。

「…どうかした?」
「いや、何でも」

ならいいけど、と仕草だけで語り、シャーペンを握り直してノートに向き直る城崎の意識が、けれど依然こちらに向けられているのを気配で感じた。平然としているように見える彼女が横髪を耳にかける時、落ち着きを取り戻そうとしていることに気づいたのは最近だ。それをじっと見つめていられる余裕が俺に生まれたのも、同じくらい最近のこと。

「…えーと、なんかついてたり…」
「んーん、何も」

ちらちら、こちらを伺うこと三度ほど、意を決したようにもう一度尋ねるのを待ち構えて城崎に応じる。今度こそ目に見えて居づらそうに眼を泳がせるのを見て、あんまり虐めてはいけないと思いつつでもやっぱりもう少し可愛がりたくなってしまう最近の俺は、真面目な話どうしようもない。

金曜以外でオフが重なったのは一か月ぶりだった。
来週の委員会が水曜に変更されたので、月曜一緒に帰りませんか。帰路を共にした金曜日、ずっと何か言いたげにしていたのが気のせいじゃなかったことを確信したのは家まで送った別れ際。緊張を隠せない面持ちで告げた彼女に、当然俺は二つ返事でオーケーした。そうして迎えた今日、せっかくだから自習して帰ろうと訪れた図書館は思いのほか人気がなく、陣取った奥の机はとりわけ外界から切り離されたような静寂に包まれている。

静かな図書館で二人きり。ありがちな小説のワンシーンのような御誂え向きの状況に乗じ、伸ばした手で黒髪の頭をそっと撫でる。掠める程度に、もし少しでも嫌がる素振りを見せたら、すぐ手を放して謝れるように。
それなのに驚くときには必ず跳ねる彼女の薄い肩にも手を伸ばしたくなって、自制心のレベルを二段階ほど引き上げた。幸いなことに今日も俺の見る限り、城崎は嫌な顔はしていない。

恐る恐るこちらを伺い見た彼女と再び視線が合う。きっと俺がずっと彼女を見詰めていたことに気づいたんだろう、弾かれたように外された視線は前髪の下に引っ込んでいった。とうとう俯いて固まった彼女を頬杖をついたまま見詰める。髪を梳くたびにじわじわと耳を赤くするその様子に、隠した口元はこれでもかというほど緩んだ。

「かわいい」
「ッ、」

気づけば思ったそのままが口をついて出ていた。自分でも気持ち悪いほど甘ったるい声になるのがわかって、けれど期せずして効果は抜群だった。城崎はギギギと音がしそうな仕草で腕を上げ、俺の腕を両手でわしっと掴むと、そのまま机へ下ろさせる。華奢な手に大人しく従って腕を下ろす代わりに、彼女の顔をそっと覗きこんだ。
ずるいとわかっている、こういう聞き方をすること自体。それでも繰り返さずにはいられないお決まりの確認。

「…ヤだった?」

返事は多分、ぎゅうと腕を握る小さくて柔いてのひら二つと、綺麗な髪から覗いた真っ赤に染まった耳二つ。それに駄目押しするようにくっついてきたのは、いつもと同じ台詞。

「…ヤだったら最初から言ってる」

普段人の目をしっかり見て話す城崎は、しかしこういう時に眼を合わせるのはとことん苦手だ。垂れる頭を持ち上げようとする試みは、意志に反して必死に抵抗する首の筋肉に阻まれてしまうらしい。
まるで上から見えない手に抑え込まれているかのように俯いて、ぎゅっと目を瞑ってしまう彼女は、けれどその分握った手で、絞り出すような声で真意を伝えんと努力してくれる。それが俺を不安にさせないための目一杯の気遣いであることはひしひしと伝わってきて、そのたびに俺は、多分きっとこういうのを愛しいとかそう呼ぶんだと思うけど、酷くたまらない気持ちになる。


愛情を、確認せずにはいられない。彼女からの好意を確かめたいという意味と、ともすればそれ以上に、俺自身の好意を彼女へ伝えていたいという意味において。

金曜の帰り、公園でのハグを半ば強引に習慣にしたのもそのせいだ。きっとまだ傷が癒えたわけじゃないところを、そんな素振りなど露程も伺わせない彼女を、手を尽くして大切にしたい。不安にさせたくないし、同じだけ不安になりたくない。言葉以上のものがどうか少しでも伝わるよう、祈るように抱きしめずにはいられない。

嫌じゃないか確かめて、否定されることで安心して、そうして拒むことなく受け入れられる度に安堵するのをやめられない。きっとあまり良いことじゃないと自分でも思う。依存に近いこの感情はどこまで膨張するのか、自分で自分に危惧することもある。

けれど情けない話、しかし間違いなく幸いなことに、城崎はきっとそれに気付いているのだ。俺が城崎の好意を確かめずにはいられないことも、その理由に付き合うことになったあの経緯があることも、敏い彼女は察しをつけていて、その上で何も言わないでいてくれる。

だから彼女は手を離さない。言葉に詰まって俯いて、途方に暮れたみたいになっても、握った手で、委ねた体温で、伝わる鼓動で俺の不安に応じてくれる。自分の気持ちが本物だと伝えようとしてくれる。試すようなことばかりする俺に、黙って歩調を合わせてくれる。

「―――ありがとう」

その言葉を失うほどの真っ直ぐさを、心の底から尊いと思う。この感謝をどう伝えていいか未だわからなくなるほどに。

「……どういたしましてぜひ数学に集中してください」

もぐもぐ言った城崎はちょっと背中を向けるみたいにして問題文を写し始める。あんまりイジメて本当に機嫌を損ねてしまうのは本意じゃない。大人しく俺も公式に向き合うのを再開する。けれどその小さな背中が視界にちらちら入るたびに、さらなる悪戯を仕掛けたくなるから仕様がない。

自他ともに慎重派と言われようと、俺とてそう鈍くはない。城崎からの好意が確かに本物であることには、正直すでにかなりの確信を得ることが出来ている。それでもこうして試すようなことをやめられないのには、彼女の自分に対するその目一杯の姿勢を見たいだなんていう、そんな不純な動機が少なからずあるからだ。

加えて最近は特に、まあいろいろと。…ぶっちゃけ言えば触れたい。何かと彼女に触れていたい。

金曜の帰りのハグは習慣になった。彼女の余裕次第では一度ならず二度キス出来ることも増えた。が、しかしそうなるといよいよドツボに嵌ってきて、一緒にいるとついうっかり抱きしめたくなってしまう。ついでに言えば話す彼女を見下ろすたびに、うなじを捕まえて、覗きこんで、その柔らかくて小さな唇を塞ぎたくなる。

だってもう反応が凶悪に可愛い。いっぱいいっぱいになっても応えようとしてくれる健気さとか間違いなく犯罪級。普段相当落ち着いたタイプなのにちょっと迫ると真っ赤になるのも正直めちゃくちゃタイプです。…割と最近煩悩まみれなのは自覚しているので何も言わないでほしい。

それなりに彼女がいた時期もあって経験がないわけじゃないし、そのどの時も普通に可愛いとか好きだとか思ってた。けれど今ならそのどの感情も、実に厚みのないものだった実感できる。こんな風に夢中になることも、普通にしてて思考の半分を乗っ取られることも全部彼女が初めてなのだ。

だからそんな煩悩に負けるのを、少々多目に見てほしい。

「、え」

シャーペンを握る小さな手を包み込む。驚いて反射で振り向いた彼女を椅子ごとこちらに引き寄せて、折れそうなほど細くやわっこいうなじを捕まえた。そのまま驚きに染まる彼女に顔を寄せる。咄嗟に俯こうとした彼女の髪をくぐるようにして、驚きで微かに開いたままの唇にたどり着いた。
吸い付くように柔いそれは触れるそのつど極上に甘い。堪らず二度三度と味わえば、至近距離にある頬が気配で分かるほど熱を帯びる。

こうして顔をうずめるみたいに覗き込み、尽くすようにキスするのが実はすごく好きなのだと言ったら、この子はどんな顔をしてくれるんだろう。

「な、ん…っ!?」
「ごめん、ゆづる見てたらつい」
「ッ…!!」

さりげなく口にした名前がくすぐったい。ホントは余裕なんてそれほどないけど、好きな女の子の前じゃ格好つけていたいのが男なのだ。呆然とした隙をついてもう一度、滴るように甘い唇を味わえば、城崎は我に返って顔を跳ね上げ、しかし言葉なくぎゅうと唇を噛み締める。そうして有り余るいろんなものを込めるみたいにして、ぼすりと俺の肩を殴ってきた。可愛い。

「…帰ったら遺言書書いてくる…!」
「それどんな思考の飛躍?」
「私が死んだら松川のせいだって書く」
「…。そこは名前で書いてくんないの?」
「なッ、…ホンット、ホントちょっと一回帰る!家帰って寝る!」
「ごめん、ごめんって、悪かったから帰んないで」

宣言通り猛然と片づけを開始した城崎を笑いながら引きとめた。筆箱を遠ざけ片づけられないようにして、伸びる腕を捕まえ腕の中に引き入れる。結構な拒絶で暴れる姿にちょっとだけ心が傷ついた。ゆるして。小さく告げたそれは思いのほかしおらしく響いて、腕の中の抵抗が止む。
胸元からそっと伺われて、思わず繕うように笑ったのはきっとバレバレだった。見透かすような瞳でじっと見つめてきた彼女が、不意に瞳の色を深くする。凪いだ真っ直ぐな色味に思わず魅入って、…あ、これ。
既視感を感じた頃には手遅れだった。

「っ…!」

引き寄せられたのはやっぱり首筋。ぞわり、鳥肌が立った肌の下で筋肉が硬直するのは筒抜けだったはずだ。

そのまま項をまさぐる細い指に息が詰まる。普段驚くほど真っ白で真っ直ぐな彼女の感覚(主に羞恥心とかそういう)は、時折信じられないバグを起こしているんじゃないだろうか。普段は手をつなぐだけで緊張を隠せないくせに、ともすれば誘うようなこの行為には信じられないほど躊躇がないのは何故なんだ。

けれどそれが発動されるのが決まって、俺が明らかに慎重になり過ぎたり、気持ちの揺らぎを露見させた時であることはわかっている。城崎の中のジンクスなのか儀式なのかは聞いたことがないのでわからない(恥ずかしすぎて聞けてない)。ただそれが彼女からの最も強い意思表示の表れの一つだとわかっているから、俺は無下に止めることが出来ないのだ。…ただ少し、少しばかり抵抗する程度はゆるしてほしい。首回りが刺激的すぎてつらい。

「城崎、わかったから、ごめっ、…ッ!」

一瞬声が漏れそうになるのを寸でのところで堪え切った。首筋の薄い皮膚をきつめに吸われ、脇腹まで痺れが駆け降りた。身体が強張るのを隠せない。シャンプーの香りだろうか、甘い匂いに眩暈がした。恐ろしい返り討ち。頼むからやめてくれ。

懇願するように思ったその時、心中が伝わったかのように彼女がそっと顔を離してこちらを見上げた。そうして視線を斜めに落として、ゆっくり、おんなじようにちょっと斜めにした口調で言う。

「一静見てたら、つい」
「……」

せめてもの抵抗に目元を覆った。顔から火が出そうだった。首を引き寄せられ、彼女の薄い肩へ導かれる。シャンプーだが柔軟剤だかわからない、ただ女の子だけが纏うことのできる甘い香りを馴染ませた柔い肌に顔を埋めれば、思わず肺ごと吐き出すようなため息が出た。応じるように返ってきたのは吐息だけのくすくす笑い。

甘やかすように髪を梳くくせに、甘えるようにすり寄ってくる。その絶妙さがまた憎い。さっきまでは確かに俺が抱きしめていたのに、今だって当然彼女の方が小柄で華奢な女の子なのに。
それでもこの抱きしめられているような錯覚を決して嫌だと思わない分、俺はこの子に相当ベタ惚れしているに違いないのだ。

161111
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