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Twitterで企画参加させていただいたお話です(2023/06/17)。
企画:@yumenosyoka(Twitter)様
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   雨音さえ聞こえないくらいに

 青梅雨のような人生だった。
 デザイナーズハウスのような建物を振り返る。昔のような長い煙突のなくなった火葬場は、小綺麗になったがその分無機質にもなった。環境問題だってあるし、人の死に際してはそれくらい淡々としていた方がいいのだろうが、滅びた肉体が立ち昇っていくのをこの目で捉えられないのは、やっぱり少し寂しい。
 妻が死んだ。妻といっても、内縁の、であるが。

   ◇

 妻は同僚だった。つまり、真選組の隊士。俺ははじめ、女の入隊に肯定的ではなかった。彼女本人がどうこうというより、どちらかというと、女が入ることで男所帯に厄介事が起きないかを懸念していた。要は隊士たちを信用していなかったのだ。しかし、いざ彼女が入隊してみるとそんなことは杞憂で、彼女はその器用で真面目な働きぶりや親しみやすい性格ですぐに隊に馴染み、俺も自然と受け入れるようになった。
 女の入隊にあれこれ言っていた俺が少しずつ彼女に惹かれていくのを、隊士たちがどう思っていたかは知らない。呆れつつも概ね遠巻きに見守られていたように思うが、それは大人の嗜みというよりも、単にそうせざるを得なかっただけだろう。何せ俺は、彼女に指一本触れなかったのだから。だってそうだろう。何の約束もしてやれない女、それも職場の女に手を出せるほど、俺は豪胆でも愚かでもなかった。相手も俺を想っていたのならなおさらだ。
 そんな風に数年の間は恰好つけていたくせ、でも結局俺は彼女を抱いた。あれだけ頑なだった覚悟が揺らいだのは、地球が救われ未来が明るいような気になったからであり、歳をとって多少柔軟になったからであり、理由を挙げるときりがないが、とにかくそういう些細なものが重なって、俺は彼女に触れてしまったのだ。まるでトランプで作ったタワーがわずかな衝撃で崩れるようなあっけなさで。
 だからといってすぐに一緒になることはなく、しばらく曖昧な状態が続いた。それに対して彼女が自分の意思をあらわにすることは一度もなかった。俺より早く朝の顔に戻るような女だったから、俺はそれに甘えてしまっていた。
 そうしてようやく腹を括ろうとしたときだった。総悟が殉職した。近藤さんを護ってのことだったので、きっと本人にとっては本望だっただろうが、それでも俺はひどくうろたえた。いつも眠るときと同じように目を閉じた総悟が、いっそどっきりだと言ってくれればどれだけよかったか知れないが、演技ならあいつはもっと上手く死ぬことを、俺はよく知りすぎていた。まだ、二十代の半ばだった。
 いつ何時が今生の別れになるとも知れない覚悟で日々を生きていた。それは誰に対しても同じことで、将軍を守るため総悟ひとりを死地へ送り込んだことだってある。そのはずなのに、俺はどうしても自責の念が消えず、上手く整理しきれなかった。彼女を抱くことができなくなり、次第に距離ができていった。
 そうしているうち、彼女が見合いをした。本当に結婚願望があったのか、引き留めてほしかったのか、あるいは、俺のためにそうしたのか。とっつぁんの伝手でとんとん拍子に話は進み、半年と経たないうちにあっさりと真選組を去っていった。彼女には申し訳ないが、そのとき俺はほっとした。普通の男と普通に暮らしてくれることに。
 それから季節は巡り、俺は少しずつ落ちついていった。冠婚葬祭なんかで顔を合わせる彼女も元気そうで、会えば軽口を叩き合った。胸の奥に甘い痛みも感じながら、これでよかったと心の底から思える、穏やかな日々だった。
 でも、きっと俺は間違えたのだ。結婚生活たったの五年で、彼女は真選組に戻ってきた。
 慰謝料なしの円満離婚。彼女の短い結婚生活について俺の知っていることといえば、ほとんどその十文字だけだった。戻った彼女とまたなんとなく一緒に過ごすようになっても彼女の口からそれについて聞くことはなく、代わりに彼女は時折、結婚はもういいや、とまるで念を押すように俺に言った。
 彼女が屯所に戻って一年ほどが経った頃だっただろうか。人を斬っといて命を紡ごうとするなんて、傲慢だよね。眠りに落ちる間際、そんなことを呟いた。それは、俺の脳を一気に微睡みから引きずり上げ、胸をつまらせた。子どものないまま、ぴったり五年で円満離婚。それの意味するところを、俺はそのときになってようやく察したのだった。それと同時に、取り返しのつかないことをしたと思った。普通の男と普通に暮らすことは、普通でない生き方をしていた彼女にとって、苦しいことだったのかもしれない。
 瞼を閉じた彼女にいまさら言えることなどなかった。彼女の必要なときに必要なことを言ってやれたのはきっと俺しかいなかったのに、俺はその機会を永久に逃したのだ。彼女を抱きしめて眠り、翌朝起きると、やっぱり彼女はもう腕の中からいなくなっていた。
 ふたりで暮らし始めたのは、俺が五十になる少し前のことだった。技術躍進が際立ち始め犯罪に使われる武器も多種多様になってきた頃で、慣れない武器の攻撃を交わしきれず、彼女は効き脚を不自由にした。幸い歩行はひとりでなんとかなったが、造りの古い屯所では不便も多く、そのまま彼女は退職することになった。ひとりで平気だと言われたが、それを機に俺も一緒に屯所を出た。
 屯所から徒歩圏内の場所に家を建て、俺はそこから屯所に通った。そして五十になったタイミングで副長職を退き、相談役として落ちついた生活を送り始めた。その数年後、近藤さんも局長職を譲り、隊長格や監察は後進育成に転じたりして一線を退き、真選組は完全に代替わりした。彼女はというと、その頃女性隊士も増えつつあった真選組や政府関係者からの不定期な依頼をこなしながら、のんびりと過ごしていた。
 それまで俺は、散々面白みのない男だと言われてきた。たしかにこれといった趣味もなければ交友関係も狭く、金の使いどころといえば煙草とマヨネーズくらいで目的のない貯金が増えるばかりの人生だったが、おかげで彼女と一緒に様々な体験ができた。国内も海外も、別の星だって、行けるところはできる限り行った。そのうち彼女が車椅子に乗るようになっても、俺はそれを押し、ときには直接抱え、どこまでも行き何でも見て聞いて食べた。
 新鮮で充実した日々は、いつだったか俺に遊びのない男だと言って宝くじを寄越したばあさんに見せてやりたいくらいだった。そのとき既にばあさんはとっくに死んで、あの煙草屋もばあさんの孫の経営するコンビニに変わってしまっていたのだが。
 自分にこんな生き方ができるなど、二十代の頃には想像もできなかった――などと言うと大袈裟だろうか。人として基本的なことを彼女と一緒にやる、言ってしまえばただそれだけのことだ。ばかみたいに簡単なことなのに、俺がそこに辿りつくにはずいぶんと回り道が必要だった。
 晩年は、彼女と一緒に皆を見送った。もう歳も歳なので覚悟はできていたが、やっぱり寂しいものだった。
 そうして一昨日の夜。眠る前のこと。
「トシ、ありがとね」
 何の脈絡もなく、彼女が唐突に言った。
「私とずっと一緒にいてくれて」
「な、んだよ、急に」
 彼女が改まるように布団を被りなおした。
「……一度人を斬ると、人生の景色みたいなものががらっと変わるでしょ? 後悔してるわけじゃないんだけど。でもなんとなく、人生ずっと小雨が降ってるような感じでね」
 その感覚は、わかる気がした。正義という大義名分を背負ってはいても、俺たちのやってきたことはつまるところ結局ただの人斬りだ。その正義だって官軍側にいたからそうだっただけのことであり、時世とともに容易く翻る心許ないものだ。普段はそれに目を瞑って生きていても、違和感のような何かはずっと胸に燻り続ける。彼女はそれを雨だと言った。
「でもトシがいてくれたから、雨が止んだ……とまでは言わないけど、雨の音は聞こえなくなった」
「臭いものに蓋しただけじゃねえのか、それ」
「そうかも」
 だから、と彼女がこちら向きに寝返りを打つ。
「すごく幸せだった」
 ありがとね。
 俺は彼女の顔を見ていられず、背中を向けてしまった。ずっと一緒になどいなかったはずだ。彼女が一番そばにいてほしかったとき、俺は一緒にいてやれなかった。もしかしたら、ふたりで命を紡ぐ傲慢な未来だってあったかもしれないのに。
 彼女が布団に差し入れてきた手を握った。俺だって幸せだった。お前でなければこうはいかなかった。そう言ってやればよかったのに、八十を過ぎても面と向かってそんなことを言うのは照れくさくてだめだった。
 柔らかく温かかった彼女の手は、翌朝俺の手の中で陶器のようになっていた。

   ◇

 煙突のない屋根に向かって煙を吐いた。やめたりやめられなかったりしながら、結局死ぬまでの付き合いになりそうだ。誰より不摂生をしていたはずの俺が最後まで生き残ってしまうとは、なんと皮肉なことだろう。
 思い返せば、見送ってばかりの人生だった。母に始まり、義兄に初恋の人、仲間たち。そして妻。人を見送るのは辛い。何度経験したってそのたび身体のどこかを食いちぎられるような心地がする。それを大切な人に味わわせることがなかっただけ、俺にしては上出来な人生だったのではないだろうか。妻にはついぞ愛してるの一言すら言ってやれなかったろくでもない男だが、それだけはよくやったと思う。
 妻の昇っていく空は、雲ひとつなく晴れ渡っていた。