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2024/02/18のWebオンリーで展示したお話です。
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   恋は盲目、ホールケーキ

 大きな分厚い両手のひらは、少し乾燥していた。その武骨な手がまるで、生まれたての雛でも見せるようにして小箱を差し出してきた。それだけでもよくわからなかったのに、さらにホワイトデーだから、なんてちょっと照れ臭そうに言うから、私はさらにわからなくなった。

   ◇

「思ってたよりは元気そうだな」
 バレンタインから二週間くらいが経った頃、副長が出し抜けにそう言うので、私は提出しにきた報告書を持ったままぽかんとしてしまった。
「近藤さんには渡したんだろ」
 自分の言葉足らずが悪いくせ、理解しない私に苛立って「チョコ」と投げ捨てるように付け加えてきたので、それでようやく私は副長の言わんとすることを理解した。
「ああ……いや、渡してませんよ」
「はあ? 近藤さんにも渡さなかったのかよ?」
 副長は呆れたように、ため息ついでの煙を吐き出した。勝手に苛立ったり呆れたり、忙しい人だ。
 バレンタインには毎年、局長と副長にチョコを渡している。それはもちろん、普段からの感謝の意を伝えたいから……というのは建前で、いや、副長の方はそう、というか、ダミーというか、カモフラージュというか、まあそんなところなんだけれど。
 でも、今年はどちらにも渡さなかった。
「今年はついに腹括って近藤さんにだけ渡したんだと思ってたよ」
 え、とつい動揺してしまった。真選組一のモテ男である副長(諸説あり)のことだから、変な勘違いをしていることはないだろうと思っていたけれど、まさか本命の隠れ蓑にされていることに気付いているとも思わなかった。
 少しばつが悪くて目を逸らせると、副長は、ふん、と鼻で笑った。
「だからふられた割には元気だと思ってたんだが……あ、もしかして渡す前にふられたのか?」
「違います」
 デリカシーの欠片もないその物言いは、けれどそれくらいわかりきった望みの薄さだということだ。フォローの鬼がそんな風に言うしかないくらいに。変に気を遣う方がむしろ失礼なくらいに。
「そうか。じゃあ、だったら何でそんなに落ち込んでる?」
「心配してくれてるんですか?」
「そりゃあ近藤さんのストーカー行為だけでも手焼いてんのに、お前まで上の空になったんじゃもう手に追えねえからな」
 どいつもこいつも惚れた腫れたって、と副長が差し出してきた手に報告書を渡す。
「私、そんなに余裕ないです?」
「自覚なかったのか?」
「……局長のストーカー行為と並べられるほどひどい状態ではない……と思ってます、けど」
「まあ、それはそうだな。ぎりぎり仕事には支障出てねえし」
 ぎりぎり、か。表に出してるつもりはまったくなかったのに。自分のことを客観視できなくなったら、いよいよ危ない。
 恋は盲目。よく聞く言葉だけれど、局長がある日突如としてストーカーになったことでその実態を知った。何が良くてそこまであの子を追いかけまわすのか、私には皆目わからなかったからだ。だって、私の知る限りあの子が局長に優しかったのは、初対面のとき、ケツ毛ごと愛すると言ったそのときだけで、それからはいつだって局長を罵倒するか暴力をふるうかだったはずだ。
 局長は確かにおおらかすぎてちょっと女心に疎いところはあるけれど、でも、誰に対しても開けていて、ドがつくほどのお人よしで、決して嫌がらせだとか陰湿なことをする人じゃない。なのにあの子は局長のことを殴って、蹴って、罵詈雑言を浴びせ、侮辱する。そのくせ、店内のランク争いで局長を頼ったり、バブルス王女との結婚式には乱入してきたり、一緒に野球観戦に行ったり、局長の純情につけこんで気紛れなことをするからいよいよ許せなかった。金のためなら蔑ろにしている男にも平気で媚を売れる、浅ましい女だと思った。
 なのに局長は、まるで生まれて初めて見た生き物を親だと刷り込まれた雛鳥みたいにあの子ばかりを追いかけまわすものだから、私はまったくもって理解ができなかった。理解できない苛立ちがさらにあの子への良くない感情を生む、負のスパイラル。
 そうして私は気付けば、局長の近くにいても全然幸せな気持ちになれなくなっていた。局長のことが好きなのに。好きだから。愕然とした。
 でも、同時に目が覚めた。悪いのは、ばかな局長なのだ。いい歳して嬢の耳ざわりの良い言葉なんか真に受けて、それで十も歳下の相手をつけまわして。嫌がられても、はっきり断られても、何をされてもめげないへこたれないことを、まるで愛の証明みたいに思っていて。救いようのない大ばかだ。そして、そんな局長のことが好きで、振り向いてもらえないことが悔しくて、その寄る辺のない感情を持て余した挙句恋敵に向けた私は、もっとばかだった。バレンタインのチョコすらカモフラージュなしに渡せない意気地なしのくせに、一丁前にお門違いな嫉妬なんかしているのだから。媚を売って稼ぐ、上等じゃないか。人を斬って稼ぐより遥かにまともだ。
 そう、恋は盲目。滑稽で、ひどく手痛い。
 だから今年はチョコを渡さなかった。渡せなかった。こんな惨めで嫌な女に、太陽みたいな局長の横に並ぶことはおろか、チョコさえ渡す資格はないと思ったのだ。それが、ぎりぎり私に残った貧弱な客観性だった。

   ◇

 なのに、ホワイトデーの日、局長は私にお返しを渡しにきたのだった。
「今年、渡してないのに……」
「そうなんだけどさあ」
 局長が照れ臭そうに笑った。
「いつものくせっていうか、つい買っちゃって。ピスタチオ入りのチョコにしたからよかったら受け取ってよ」
 ピスタチオは流行りはじめたときにちょっとはまっていただけだったのだけれど、そんなことさえ覚えていてくれたことが、嬉しくてたまらなかった。一度好きだと言ったものを献立に入れ続けてくれるおばあちゃんみたい。局長らしいと思った。本命の相手じゃないのに、毎年私に合わせたものを買ってくれる。
 だから、お返しを買うときに私のことを思い出してくれた、ただそれだけを素直に喜んでいればいいのに、でも私は手放しで喜べなかった。だって局長は、私からバレンタインに何も貰えなかったこと、うっかり忘れるくらい何も感じていなかったのだから。でも、そういうところも局長らしくて憎めない。
 ああ、やだ。やだ。こんな気持ちになりたくないのに。
「……ありがとうございます」
 おそるおそる受け取ると、きりっとした一重まぶたの目が柔らかく細められた。受け取ったときにわずかに触れた指先がびっくりするくらい温かくて、チョコが溶けているんじゃないかと思った。
 こんな風に私だけを見て、この指で、もっとずっと私に触れていてほしいのに。
「……局長」
「ん?」
「来年は……チョコ、受け取ってくれますか?」
「え? そりゃあもちろん! ていうか、俺断ったことないよね?」
「……そうじゃなくて」
「へ?」
「本命チョコですよ」
「……本め……えっ?」
「ていうか、今までだってずっと本命だったんですっ、でも局長は私の気持ちなんか全然気付いてないし見てくれないし、だからカモフラージュで副長にもあげてごまかしたりするしかなくて、それ副長も気付いてるくらいばればれだったみたいなのに肝心の局長はわかってなくて、でももうそういうの限界で……っ」
「まっ、まま待って!? 待って、話が」
「気付いてないなら気付くようにすればよかったのに、それもやろうとせずに腐ってただけの嫌な女なんです私っ、こんな女局長には不釣り合いですけど」
「ちょっと落ち着こう、ね!?」
「でも私っ、ずっと局長のこと好きだったんです! ケツ毛どころかわき毛だってチン毛だって、どこの毛だって産毛一本余さず全部丸ごと局長のこと愛せるっていうかもう愛してるんです!」
「え……えェェエ!? ちょっ、そ、そういうこと言うキャラだったっけ!?」
「言いますよ! それくらい好きなんですもん!」
 言いながら、自分でもよくわからないけれど地団駄を踏んでいた。
 ひとしきり言いたいことを全部吐き出したら、肩が上下するほど息があがっていた。そんな私を少しの間見つめ、局長は言葉を選びながら口を開いた。
「えっと……そうだな……ありがとう。そんな風に想ってくれてたなんて全然気付かなかった。まさか俺のことそんな風に言ってくれる人がいるなんて思いもしなかったし。でもそれで悩ませてたみたいで、すまん!」
 まるで幕府のお歴々の前で謝罪するみたいに、両手をぴしっとそろえて深く頭を下げた。
 それからゆっくりと上がってきた顔は既に申し訳なさそうで、鳩尾の奥の方が、ぎゅっと掴まれる。
「でも、俺……んぐっ!?」
 早速謝ろうとする口を慌てて塞いだ。
「ぐずぐずしてた私が悪いんですけど、でも、私にもチャンスください……っ! 来年のバレンタインまで!」
「んーっ! んーっ!」
 呻き声にはっとして手を離す。勢い余って鼻まで塞いでしまっていた。局長は酸素を求めて荒く呼吸する。
「来年のバレンタイン! 本命チョコ受け取らせてみせますから! 絶対!」
 局長がそれで納得してくれたかどうか、確認するのも怖くて私は言い逃げるように部屋を飛び出した。
 呆然としながら目的なく屯所の廊下を渡っているうち、だんだんと手が震えてきた。何年もうだうだしていたくせに、こんなにあっけなく伝えてしまった。でも、気分は不思議とすっきりしている。ここまできたら後はやるしかない。これから一年、執拗にストーキングされる気持ちを味わわせるくらいのつもりでいこう。
 来年はきっと、局長にチョコを渡すにふさわしい私でいられる。わけもなくそんな気がしてきた。
 妙に気持ちが昂ってきて廊下の曲がり角で拳を前に突き出したら、ちょうど曲がってきた副長の鳩尾にスパーキングしてしまった。