----------
2024/02/18のWebオンリー内企画で展示させていただいたお話です。
----------

   その逡巡を破り捨てろ

 ついに恐れていたことが起こってしまったZ。
 いつも行く店の店員さんが「よく来てくださってますよね」と話しかけてきた。
 覚えてくれて嬉しい。でも何故だろう、頻繁に来ているわけでもないのに。センスが悪いとかそういうことで印象に残っていたんだったら辛いな。次来たときはどう接したらいいんだろう。こっちから挨拶してみてもいいんだろうか。一度声かけられたくらいで馴れ馴れしいかな。でも、かといって何もしなかったら感じの悪い奴と思われるかもしれない。というか、もう今既にどう反応したらいいのかわからない。「はい」だけだと不愛想? 「よく覚えてますね」は偉そう? 「覚えてくれてて嬉しいです」は気持ち悪い? どうしよう、どうすれば……ああ、お腹痛くなってきた――。
 こうして俺はまた、行きつけの店をひとつ失くしたんだZ。
 近くの公衆便所から出て、すっかり困惑していた店員さんからどうにか買った羽織の収まる紙袋を提げながら、とぼとぼと往来を歩く。
 こんなことが、人生で何度もあった。店員さんに限った話じゃない。誰と話すときでも、いつもいつも、相手の反応が気になるあまり何も喋れなくなり固まってしまう。勇気を出そうとすれば必ずお腹が痛くなって、別のものしか出てこなくなってしまう。
 いつものこととはいえ、こたえる。どうして俺は、こんなに難儀で情けないんだろう。
 店を出てから何度目かのため息をついたとき、とんとんと肩を叩かれた。振り返ってすぐ。丸まっていた背筋がすっと伸びた。
「斉藤さん、こんにちは」
 その人は、驚きのあまり返事のできなかった――驚いていなくてもあまり変わらなかったと思うけど――俺に笑いかけながら話し続けた。
「服買ったんですか? 斉藤さんっていつもお洒落ですよね。どんな服ですか?」
 あたふたきょろきょろしながら、紙袋から羽織を畳んだまま出して見せてあげた。
「わ、きれいな色! 斉藤さんに似合いそう!」
 そうだといいけど。ろくに試着もせず逃げるように買っちゃったから……なんて、さっきのことをざっくばらんに話せるはずもなく、俺はせっかく褒めてくれた彼女に何と返すべきか迷った挙句、ただ照れ臭くて、黙って頬をかいた。目まで逸らせてしまって。でも彼女はそんな不躾な態度に怒りもせず、
「今度着てきてくださいね」
 と微笑んでくれる。そうしてようやく俺は、うん、と頷くことができたのだった。
「そうだ、斉藤さん。まだちょっと早いけど、よかったらうち来ませんか?」
 時間を確認する素振りをしてみせて、頷く。なんて白々しいんだろう。本当は元からそのつもりをしていたくせに。
 うち、といってもそれは彼女の家なんていう甘い提案ではなくて、彼女の父親がやっている定食屋へのお誘いだ。父ひとり娘ひとりで店を切り盛りしている、よくある町の定食屋。
「おかえり。おっ、斉藤さんも。いらっしゃい」
「ただいま。さっきそこで会ったの」
「おめえ無理やり引っ張ってきたんじゃねえだろうな」
「違うわよ」
「いくら寡黙な人だっつっても、口に出さねえだけで感情はちゃあんとあんだぞ?」
「そんなことわかってる!」
「斉藤さん、迷惑ならきっぱり言ってやってくだせえよ」
 親父さんが言うのに俺は慌ててかぶりを振った。続けて「今日は生姜焼きだよ」と言う親父さんに今度は頷く。いつも日替わり定食を頼むのだ。
「もう、お父さんってば」
 エプロンをつけ俺の向かいの席に座る彼女に『仲良し』と書いた紙を見せると、「そんなことないですよ。この間だってね」とすぐさま親父さんの愚痴が続いた。でもすぐに、毎晩店に残飯をもらいに来る猫のことだとか、この間来た変わったお客さんのことだとか、話題は次々となだらかに移り変わっていく。平日の昼前、客は俺ひとり。肉を焼く音に乗った彼女の声は音楽のようだった。心地よく弾んで、胸の奥に溜まっていく。鈴を転がすようってこういう声のことなんだろうな、と彼女と話すたびに思う。
 彼女は初対面のときから、俺の異常な無口も意に介さずぐいぐい話しかけてきた。
 隊服の着こなしがお洒落すぎて、沖田さんと一緒じゃなかったら真選組の方ってわからなかった! お名前は? 斉藤さん? よろしくお願いします、私は――。
 呆気にとられはしたものの、でも不思議とプレッシャーは感じなかった。そんな彼女のことを「ずっと一方的に喋りっぱなしで落ち着かねえ。ありゃ間違いなくB型だ」とか「ああいうタイプは二度と口がきけなくなるようにしてみたくなりやすね」とか言う人もいるけど、俺にとってはありがたいことこのうえない。
 彼女が話しかけてくれることは、ありがたくて、楽しくて、いつの間にか店に通う理由のひとつになっていた。店員さんに一度話しかけられただけで店に行けなくなってしまう、この俺が。
「――らっしゃい!」
 親父さんの声で、はっとふたり同時に入口の方を振り返る。
「続き、また今度聞いてくださいね」
 俺が頷くのを見ていたかどうか、彼女はすぐに立ち上がり背を向けてしまった。その後姿をじっと追い続けるわけにもいかず、卓上に視線を落とす。さっき彼女と話しながら使った紙が数枚、所在なげに散らばっている。彼女との会話の名残。それを見て、急に賑やかな場所からひとり暮らしの家に帰ってきたときのような寂しさを感じたのは、彼女との会話が名残惜しいから……だけではない。
 彼女と話すのが楽しみ、だなんて言ったけど、俺はまだ彼女の前で一言も言葉を発したことがない。つまり、まともな会話はしたことがない。筆談はしていても、それだって短い単語を返すだけで返事というより相槌に近い。そんなもの、到底会話とは呼べない。ぎりぎりのコミュニケーション。
 でも。急に喋ったら変に思われるかもしれない。俺の口数が少ないから彼女は話しやすいのかもしれない。そう思った途端、喉元にあった伝えたい言葉は、文字へ音へと分解されながらどこかへ逃げていってしまうのだ。
 だから卓上に残った紙は、声にしてやれなかった言葉、すなわち俺の心残りでもある。
 この性分も少しはましになった気がしていたけど、刀がなければ何も変わってないことを思い知る。剣で語り合えないことだって、当然たくさんある。
 こうやっていつも、せっかく親父さんの作ってくれた美味しい定食を少し沈んだ気持ちで食べてしまう。帰る頃はちょうど混みはじめる時間帯で、彼女に会計をしてもらうときもろくに話はできない――んだけど、今日は少し勝手が違っていた。
「斉藤さん! あのっ……もし、ご迷惑でなければ、なんですけど……」
 名前を呼んだ勢いの割に、声が尻すぼみになっていく。俺が小銭を持ったまま首を傾げると、彼女は周りを少し気にしながら、小さな紙袋を差し出してきた。餡泥牝堕のロゴ。お菓子?
 首を傾げたままの俺に、彼女は申し訳なさそうに付け加えた。
「今日、バレンタインだから……」
 え、と固まっている一瞬のうちに、彼女が客に呼ばれてしまった。そしてそのままばたばたと会計を済ませ、俺はわけがわからないまま帰路についた。そうしてどうにか落ち着きを取り戻しはじめた頃には日はとっぷり暮れていて、俺はもらった紙袋を前に自室で座り込んでいた。アクセサリーを買ったときのような控えめな大きさの紙袋。
 もてるとかもてないとか、恋愛以前の問題が山積みの俺にとって、バレンタインなんてすっかり意識の外にある縁遠いイベントだ。だから、さっきバレンタインだと言われてもすぐにこのお菓子の意味がわからなかった――いや。意味は今もわかっていない。考えれば考えるほどに。だから紙袋を眺めたまま頭がショートして、夜になってしまったわけだった。
 どういうつもりでくれたんだろう……いや、どういうも何も義理だとは思うけど。だって彼女は俺と、まともな会話もしたことがないんだ。でも、かといって小さくとも決して安物ではないこのお菓子を配り歩いているとも思えない。だけど……。
 帰ってからずっとこの堂々巡り。さっきどんな風に渡してくれていたか思い出そうにも、ろくに会話もできなかったから――とそこまで考えて、唐突に血の気が引いた。やっと冷静になってきた頭でさっきのことを振り返って、自分が彼女に対してろくに礼も何も言わずに帰ってきてしまったことに、俺はようやく気が付いたのだった。
 ど、どうしよう。いくら慌ただしく別れたからって。
 時計を振り返る。二十二時。この時間、お店にはもう親父さんしかいない。しかも明日は休みだとさっき言っていた。紙袋と、時計と、障子を順に見つめる。彼女の連絡先も自宅も知らないし、もうこんな時間だし、どうしようもないけど、でもじっとしていられなかった。明後日、お礼だけでも伝えにいかないと。お菓子の意味がどうとか、そんなのは後だ。
 その日はなかなか寝付けなかった。翌日も気が気じゃないまま一日を過ごし、夜中何度も目が覚めては厠へ行きながら、俺はその日を迎えた。

   ◇

 ここも違う。
 ×印でみっちり埋まった地図に追い討ちをかける。やっぱり江戸には戻っていないのだろうか。だとすると、探し出すのはかなり難しいかもしれない。
 気落ちしながら屯所に戻る途中、通りかかった店の前で立ち止まる。舶来物の衣服やアクセサリーを着こなしたマネキンがショーウインドウを飾るハイカラなその店は、復興作業のおかげで小綺麗になりつつある江戸の中でもひときわ目立っていた。そこは、少し前まであの父娘の定食屋だった場所だ。
 俺は結局、彼女にバレンタインのお礼を伝えることができなかった。それどころか、そのまま彼女に会えずじまいになって、もう三年ほどが経つ。
 お礼を伝えるつもりだった日、隊内で背信者の疑惑が浮上して、その日から裏取りと見張りで一週間屯所を離れることができなかったのだ。幸い背信者は捕らえて事なきを得たけど、日を置いてしまったせいで彼女に会うタイミングをすっかり逃してしまった。
 もちろん、さすがの俺もホワイトデーの存在くらいはちゃんと認識していたけど、でも、それもだめだった。彼女のお菓子の意図がわからなかった俺は、お返しを決めきれなかったのだ。何度も何度もお菓子を見に店へ足を運んでは硬直して帰るだけを繰り返し、いよいよホワイトデー前日になってなんとかレジまで持っていけたと思ったら、ラッピングやお渡し用の袋、保冷剤などなど怒涛の質問に答えられずレジに長蛇の列を作った挙句諦め、手ぶらで彼女に会う胆力のないまま、定食屋に行けなくなってしまったのだった。
 そしてそのあと少しして徳川茂茂将軍が亡くなり、俺たちが江戸を離れている間に定食屋はなくなっていた。空になった家屋を呆然と見つめていた俺に、治安の悪化でどこかへ避難したそうだよ、と近隣の人が教えてくれた。
 ああ、どうして俺は彼女に何も言わなかったんだろう。お返しを渡せなくても、ありがとうの一言を紙に書けばよかったんだ。何を買えばいいかわからなかったなら、正直にそう伝えればよかったんだ。バレンタインとホワイトデーの間の変なタイミングでお礼を言われたって、重すぎたり軽すぎたりするお返しを貰ったって、思いがけず俺の声を聞いたって、彼女ならきっと笑って受け入れてくれただろうのに。
 こんな俺に嫌な顔ひとつせずいつも話をしてくれた彼女の人となりくらい、俺は知っていたはずじゃないか。それなのに俺という奴は、悪いように思われるのが怖い、そればかりが気になって、せっかく相手が心を開いてくれても、手を差し伸べてくれても、何もしなかった。相手にどう思われるかを怖れていながら、肝心の相手の気持ちは無視していた。
 結局俺は、自分のことしか考えていなかったんだ。こんなことになってようやくそんなことに気が付くなんて、本当に、なんて難儀で情けないんだろう。
 だから、江戸の復興も落ち着いてきた今、俺は彼女たちを探しはじめた。いまさらかもしれないけど。でも、一言お礼が言いたい。ふたりの安否だって気になる。
 とはいえ、江戸をしらみつぶしに探しているのにまだ見つかっていない。何の手がかりさえも。調べていないエリアは残りあと一か所、地図一枚分。次の非番は来週。果たして見つかるだろうか。
 そのとき、ふと視線を感じた。はっと振り返ると、看板を下げに店先に出てきた店員さんが訝しげにこちらを見ている。ショーウインドウに見惚れるにしては長く突っ立っていたみたいだ。慌てて会釈して、すぐに店の前から立ち去る。
 だけどそこから少し歩いても、どうもまだ違和感がつきまとう。まだ、視線を感じるのだ。
 さっきの視線は店員さんじゃなかったのか? じゃあ一体――。
 注意深く辺りの様子を窺おうとしたとき。
 鈴の音がした気がした。
 え、といつかと同じように固まっていると、間を置いてもう一度。少し自信なさげに、俺の名前を呼んだ。
聞き間違いじゃない。
 あれだけ探していたくせに、いざとなったら急に緊張してきてしまった。だって、まさかこんな。完全に不意打ちで心の準備なんてできていなかったから、お腹の具合が怪しくなってきた。いや、耐えろ。
 おそるおそる、ゆっくり振り返る。少し髪型の変わった彼女が俺を見上げていた。
 目が合って笑ってくれた瞬間、喉元に言葉が溢れ出てきた。心配していたこと。バレンタインの日のお礼とお詫び。もらったお菓子が美味しかったこと。ホワイトデーに本当はお返しをしたかったこと。いつも俺と話してくれて嬉しかったこと。この三年間何をしていたのか。いつか聞いてもらいたいと思っていた俺自身の話。ずっと、会って話をしたかったこと。それに、まだ声に出したことのない名前も呼んでみたい。
 君に伝えたいことが、たくさんあるんだ。
 俺は深呼吸をして、口元を覆っているマスクを人差し指でゆっくりと下げた。