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Xに上げたお話です(2024/05/26)。
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   シンタックスソルト

 姉上は花が好きだった。といってもそれは今から思えば、娯楽が限られたど田舎の、決して余裕があるとはいえない暮らしの中で、他に気を紛らわす選択肢がなかったというだけのことかもしれないが、本当のところはもう確認のしようがない。
 ふたりで住むには広い実家には、いつもどこかに何かしらの花が活けてあった。生活のことで手一杯だっただろうに、姉上は俺に加えてそれらの世話をし、よくそれにまつわる話を聞かせてくれた。対して俺はというと、川のせせらぎのような姉上の声は永遠に浸っていられそうなほど心地がよかったが、正直なところ、話の内容にはちっとも興味がなかった。だから残念なことに、姉上のすべてが美しかったこと以外ほとんど何も覚えていない。覚えているのは、
「お花にはそれぞれ意味があるの」
 だから人は気持ちを花に託して贈るのだ、というようなことを姉上が言ったことだ。
「じゃあ僕は姉上に何を渡せばいいですか⁉ 大好きです、一生僕が守りますって意味の花!」
 うとうととしていた俺が鼻息荒くそう言うと、姉上は一瞬目を見開いて、ふふ、と笑った。
「ありがとう、そーちゃん。でも今直接言ってくれたので充分伝わったわ」
 だったらわざわざ花なんていらないじゃないか。当時今よりもずっと幼かった俺はそう思った。あの頃の俺は、良くも悪くも、言葉を何かで包む必要に迫られたことはなかったし、言葉にできない想いなどという繊細な情緒だって知りもしなかったから。

「いらっしゃい沖田さん!」
 はっとして顔を上げると、バラやらデルフィニウムやらをバックに、店の親父がにこにこしていた。
 しまった。通りがかりに思わずいつもの花屋を眺めてしまっていた。しかも、よりにもよって――。
 おそるおそるそちらを見ると、親父の声で数歩先から振り向いた土方さんが俺と花屋を見比べ、世にも奇妙なものでも見るような顔をした。そりゃあそうだろう。土方さんは俺が毎年姉上の誕生日に花を贈っていたことなど知らないのだから。今がちょうどその時期だということも、だから俺がうっかり花なんか眺めてしまっていたのだということも。
「そろそろ来る頃だと思ってやしたぜ。今年はどんなのにしやしょうか」
 ごまかす隙も与えてもらえず追い討ちをかけられる。余計なことを言いやがって。
「いやァ、実はね」
 姉上、亡くなっちまって。
 別に、努めずとも軽い調子で口から出せた。人前でその程度が取り繕えないほどガキではない。なのに。
「総悟」
 俺が言うより一瞬早く野郎が呼びかけてきた。その声がいつもより一段と、というよりもわざとらしくぶっきらぼうで、俺は反射的に頭に血が上った。
「先行ってんぞ」
 あの世にですかィ俺が送ってやりやしょうか、と返す瞬発力を失うほどには俺の平常心はかき乱されていた。ポケットに手を突っ込み去っていく気取った背中にバズーカを構えることもできなかった。
 このわずかなやりとりの中で野郎は諸々を察し、俺に気を遣いやがったのだ。さっきのはそういうときの声色だった。野郎は図々しくも姉上の誕生日を覚えていた。そのうえで、俺に変な気をまわしてきた。きっとうまくフォローしてやったつもりになっているに違いない。
 野郎に気遣われるなんて。憐れみを受けるなんて。最悪だ。厄日だ。野郎のそういうわかったような態度が、一挙手一投足が、いちいち全部気に食わない、腹立たしい。くそ、くそっ。迂闊だった、今日を朝からやりなおしたい。そうすれば野郎を始末してから屯所を出るというのに。いや、今からでも遅くはないか。
「あの、沖田さん?」
 自分は無関係と言わんばかりにきょとんとした親父にも苛立った。花屋のくせに真選組の隊服がよく似合いそうないかつい顔をしておきながら、実際はパステルも甚だしい水色のエプロンをつけている。そんなことすら憎たらしい。
「……何でもありやせん」
 事実を伝える気もタイミングも逸してしまい、俺は親父に促されるまま店内に入った。
 入店の瞬間はいつも、様々な花の匂いが待ち構えていたように押し寄せるので、そのたび頭の中に花いきれという単語がよぎる。もちろんそんな言葉はない。
 しかし、花を選ぶ手はいつものようには進まなかった。買った花束のやり場がないからだ。本人に直接渡せずとも墓前に供えたっていいのだが、武州にある墓は頻繁に手入れができない。姉上の墓を枯れた花でみすぼらしく飾るような真似はしたくない。かといって屯所になど持ち帰れば好奇の目にさらされ、耐えかねた繊細な俺は奴らを皆殺しにしてしまうかもしれない。
「どうしやした、何か迷ってんですか?」
「いや……」
 どうしたものか。
 そのとき、ふと姉上の言葉が蘇った。人は気持ちを花に託して贈る。それと同時にある女の顔が浮かんだ。このところ、気付けば目で追うようになってしまった彼女の顔が。
 一瞬ためらって、考えて、花に手を伸ばした。
「これと……これも入れてくだせえ」
「おっ、今年はがらっと雰囲気変えるんで?」
「まあ、たまには」
 選んだ花の意味など知らない。ただ、なんとなく、それっぽい、似合いそうなものを選んでみた。選びながら彼女を想うと、胸がきゅうと締まった。おかしな話だ。姉上の完全さには遠く及ばないような女なのに。もしかすると俺にも日本人らしい感受性があって、不完全性に美を見いだしているのかもしれない。

「これ、やる」
 なりゆきで場所を知った家の門のを叩くと、本人が出てきた。俺が突き出した花束を、冷蔵庫の奥から発見した数ヶ月前の野菜のように見ている。
「急にどうしたんですか?」
「た……誕生日」
「いや私今日誕生日じゃありませんけど」
 誰と間違えてるんですか、と呆れた声には悋気の欠片もない。ひたすらに警戒の色。いいから、と強引に受け取らせようとしても余計に頑なになってしまう。
「……仕事で表彰されて、もらったんでさァ。俺じゃ枯らせちまうから誰かにと思っただけでィ」
 そう言うとなんとか、俺の様子をじっと窺いながらおそるおそる花束を受け取り、警戒を解かないまま一周ぐるりと入念に眺めた。まるで鑑識だ。
「何かいたずらでも仕込んであるのかと思いましたけど……本当に普通にくれるんですか?」
「だからそう言ってんだろィ」
「そう……じゃあ遠慮なく。ありがとうございます。あと表彰おめでとうございます」
 色合いがとっても素敵、とようやく笑ってくれた。
 あ。まただ。胸がきゅうと反応する。けれども同時に激しく後悔した。
 お前を想って買った、なんてきざなことは無理にしても、せめてもう少しましな嘘をつくんだった。
 姉上。花で気持ちを伝えるなんて、俺には言葉以上にできそうにありません。これはきっと、姉上のような日々を正直に清廉に生きている人間にだけ許された方法みたいです。