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2024/11/17のWebオンリーで展示したお話です。
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   ひそやかな呼吸

 やっと過ぎ去った夏がかけ足で戻ってきたような熱気だ。肌が内側からじわじわ湿ってきて、すぐにそこを離れた。
「手伝いに来たんじゃねえのかよ総悟!」
 汗ばんだ土方さんが叫ぶのを無視して遠くを眺めた。樹々が紅く色づいている。
「秋は釣瓶落とし」
「まだ真昼間ですが?」
 ソースとマヨネーズを両手に構えた山崎がすかさず振り返った。暑苦しい土方さんのためにせめて何か季節感のある言葉をと知りたての慣用句を口にしてみたのだが、使い方が違っていたらしい。
「お待たせしました!」
 近藤さんが業務用の袋から割箸を引っ掴み、できたてのお好み焼きと一緒に客に渡す。
 文化祭。トラブルが一段落して、俺たちは長谷川くんの模擬店でお好み焼きを売っている。長谷川くんが食材を補充する間の店番を、近藤さんが快く引き受けてしまったからだ。今にも崩れ落ちそうなぼろぼろの屋台の下、土方さんが生地を焼き、山崎がトッピングをし、近藤さんが会計をする。俺は輪ゴムや割箸などの備品を準備する係に割り当てられているが、近藤さんや山崎が自分の仕事ついでにやってしまうので手持ち無沙汰だ。鉄板は暑いので近寄りたくない。
 とはいえぼおっと眺めているだけというのも何なので、割箸とゴムで銃を作って土方さんを撃ってみる。
「いでっ! 総悟てめぇ手伝わねえならせめておとなしくしてろ!」
 しかし、つまらない。いつもならふた昔前のヤンキー漫画よろしく凄んでくるくせに、今は振り返りもしない。ひたすら生地ばかり見ている。俺が土方さんに嫌がらせをするのは、土方さんが不快になることそれ自体もそうだが、何をやってもばかみたいに全力で返ってくるリアクションを楽しんでいるのであり、こんな生ぬるい反応しかしてこない土方さんなど虐げられて悦ぶ雌豚も同然だ。
 そう。土方さんは当番が始まってからずっと、一度たりとも視線を上げず目を鉄板から離さない。誰が来ようと、知り合いに声をかけられようと、それに返事をするときさえも。この模擬店に精を出したって俺たちには何の得もないというのに。先日の野球の件もそうだったが、唐突な無茶振りであろうとこの人は案外真面目に取り組む。いや、ちょっと違うか。やるからにはきちんとやってしまうたちなのだ。
 そうか、だから嫌がらせへのリアクションもいつでもどこでも全力なのか、とひとりで合点がいったところで、ふと土方さんが顔を上げた。思わずその視線の先をたどる。近藤さんからお好み焼きを受け取る女子。あれは確か隣のクラスの、名前は、えーと、忘れた。一年のとき俺や土方さんと同じクラスだった。ただそれだけの認識だったが。
 お好み焼きを受け取ったその女子は、去り際遠慮がちに土方さんを見た。目が合って、土方さんが小さく会釈する。ここからでは聞こえなかったが何かひと言言葉を交わし、女子は控えめに手を振って友達のところへ小走りで向かっていった。
 土方さんは、その後姿もしばらく見つめていた。鉄板なんてまるで忘れてしまったように。

   ◇

 総悟は備品係にしよう。食品を扱わせるにも接客をさせるにも何をしでかすかわからん。備品係なら大事には至らないだろうし、サボられてもカバーできる。
 そうですね。あ、あと、土方さんにマヨネーズを持たせないようにもしとかないと。
 おお、そうだな。じゃあ……ザキ、お前がトッピング、トシが鉄板、総悟は備品、俺が会計。これでどうだろう。
 店番の役割は、そんな風に近藤さんと俺で予め話し合い、残りのふたりに提案した。こだわりのない沖田さんと違って、土方さんは最後までトッピングをやりたがっていたが、近藤さんがなだめすかしてどうにかこの体制に持ち込んだ。
 結果、正解だった。鉄板係が思った以上に暑かったからだ。もし俺や近藤さんが汗だくで生地を焼いていたら、女子から心ない言葉を投げつけられていたかもしれない。決めたときはそこまで考えていなかったが、名采配だった。
 だが、土方さん本人はトッピング係への未練を断ち切れずにいる。
「おい山崎、マヨネーズ充分かけてんだろうなァ!」
「はいはいたっぷりかけてまーす」
 八つ当たりのように怒声が飛んでくる。そもそも普段からやさしい声などかけてもらうことはないが、今は暑さと沖田さんからの嫌がらせのおかげで五割増しの刺々しさだ。
 ふと思う。この人も、たとえば赤ん坊や動物なんかには猫なで声で話しかけたりするのだろうか。お好み焼きに鰹節をかけながら、しかしちっとも想像がつかなかった。もしそんな声を出した日にはばっちりしっかり録音して、それをネタにゆすって俺のカバディチームに引きこんでやる。
 淡々と手を動かしながらくだらない妄想を繰り広げていると、ふと、耳を疑うような声が聞こえてきた。
「ああ。わかった」
 やさしい、温かい声だった。そう、ちょうど、子どもの頃遊んで帰ってきて飲んだ、お母さんの入れてくれたミロみたいな。甘くて、絶対的なやわらかさで包みこまれるような。
 どうしてか俺がどきっとしてしまって、思わず声の方に顔を向けた。土方さんが、見たことのない穏やかな目をしていた。その見つめる先には、友達のところへ小走りで向かっていく女子の後姿。あれは隣のクラスの――。
 さっきの声はあの子に向けたものだったのか。猫なで声というのとはまた違うが、でも、いや、あんた、どこからそんな声出したんですか。そんな声出せるんですね。ていうか、本当にあんたの声だったんですか?
 ほとんど混乱しながら呆然とその横顔を眺めていると、ふいに土方さんがこちらを向いた。
「おい山崎! マヨネーズかけすぎだろうが!」
「えっ!? あ!」
 俺は手元を確認し、血の気が引いた。土方さんに気を取られていたせいでパックからあふれ地面に流れ落ちるほどマヨネーズを絞り出してしまっていた。
「いくらマヨネーズが万能だっつっても適量っつーのがあんだろ! もったいねえな!」
「いやあんたにだけは適量を説かれたくないですが!?」
「んだとコラ!」
 さっきまでの穏やかさはどこへやら、眉間にしわ、声には険、険、険!
 ああ、くそっ、さっきの声も録音しておくんだった。

   ◇

「あ、忘れ物した。総悟、俺学校戻るから先帰っててくれ」
「何ですかィ、近藤さんまで。クラスメイトのリコーダーは忘れ物とは言いやせんぜ」
「ちっ違うし! 三者面談のプリントだし!」
 学校へ戻る道すがら、ほとんど誰ともすれ違わない。文化祭のあと風紀委員の反省会をしていたせいで、学校を出たのが他より遅かったのだ。薄暗くがらんとした校舎に入って通り過ぎる教室にも、もう誰も残っていない。
 3年Z組のドアに手をかけ、しかし引く直前で手を止めた。中に誰かいる。咄嗟に息を殺して中の様子を窺ってみて、えっ、と大きな声を出しそうになった。慌てて両手で口を塞ぎ、意味なくその場にしゃがみこむ。トシと、隣のクラスの女子だった。窓の方に身体を向け仲睦まじく話している。
 俺は少し混乱した。だってトシはさっき俺たちと帰る途中、校門を出る直前、いかにもそのとき何かを思い出した素振りで「悪ィ。ちょっと先に帰っててくれ」と引き返したのだ。それが今、こんなところで女子と一緒にいる。それも、あんまりに予想外の子と。接点がないわけではない。一年のとき俺やトシと同じクラスだった。ただ、トシとそう仲の良い印象はなく、廊下ですれ違ったときに会釈したりしているのは何度か見たものの、てっきりその程度だと思っていた。なのに。
 そろそろと立ち上がって、もう一度こっそり教室の中を盗み見る。とても中に入っていけそうにない。気まずいというのももちろんあるし、何よりトシの沽券に関わる。女子とこっそり会うため友達に小芝居を打ったのがこんな形でばれるなんて俺でもちょっと恥ずかしいのに、それがましてやプライドの高いトシのこと。できれば見なかったことにしてやりたい。でも、プリントは持って帰りたい。
 その矛盾を両立させる方法が思いつかないまま、俺はふたりをただ眺めた。教室の中のふたりは、話になのか相手になのか、あるいは両方になのか、とにかく夢中のようで俺に気付く様子もない。
 そうか、さっき彼女がお好み焼きを買いに来たのはトシに会うためだったのか。あのときトシと言葉を交わしていたのは挨拶かと思っていたが、もしかしたらこの約束の確認をしていたのかもしれない。
 俺の知らないところでふたりは進展していたんだなあ。トシに好きな人がいることすら気付かなかった。トシはこういう話、全然してくれないしなあ。
 かたや好きな人に近づいただけで殴られる自分を思うと急にみじめな気持ちになって、同時に少し悔しくもなった。そうだ。こっそり隠れて愛を育んでいた男のプライドなんて知るか。俺なんて心身ともにボロ雑巾のようにずたぼろだ。それに比べればトシなんて、少しくらい恥ずかしい思いをしてやっととんとんになるはずだ。
 妙に強気になってドアに手をかけた。が、しかしまた手が止まる。窓の方を向いていたふたりがいつの間にか向かい合っていた。甘い余韻は残したまま、けれどかしこまった空気の中見つめ合っている。
 トシが一歩、前に出た。右手がゆっくり彼女の頬に添えられる。その指先がわずか滑るように髪に潜ると、髪が一本一本さらりと揺れるように流れ、静止する。途端、校舎の静まりかえった音さえふと途切れた。ふたりの呼吸や鼓動が聞こえてきそうなほどの静謐は、瞬きひとつで簡単に壊れてしまいそうで、俺は微動だにできなくなった。そのままふたりはまた見つめ合い、やがて高まりに耐えられなくなったように彼女が目を閉じた。トシは、その表情を、かすかに震えるまつ毛の先すら見逃すまいとするように、じっと見つめ、そして、ゆっくりと顔を近づける。中途半端に開いた古いカーテンの間から差し込んでいた西日がそのシルエットに遮られていき、こぼれた赤い熱がふたりの輪郭をくっきり映し出した。
 くちびるの重なる直前、俺は一目散に走りだした。校門を出て少ししたところで、海中から出てきた人のようにぶはっと空気を吸いこんだ。
 呼吸は乱れに乱れ、心臓は早鐘を打っていた。走ったせいではない。さっき、無意識に息が止まっていたからだ。妬み嫉み羨ましさにトシの沽券、そんな些末なことは全部吹っ飛んで、呼吸を忘れるほど魅入ってしまったからだ。
 ようやく呼吸が整っても、まだどきどきしていた。だって、あんなトシは見たことがない。ぶっきらぼうながら実はやさしい男であることはよく知っている。たまには眉間のしわをなくして無邪気に笑うことも知っている。誰にも見られていないと油断して野良猫にでれでれしているところも見たことがある。
 でも、そういうものとは決定的に違う。彼女を見つめるやさしいまなざしは、その中にほんのわずか、西日に劣らない暴力的なまでの激しさをはらみながら、それを必死に包んで隠していた。
 見てはいけないものを見てしまった。あれはきっと、トシの彼女にしか見せない、いや、彼女にすらまだ秘めている感情だった。それを俺は不正をして覗き見てしまった。だからどきどきしている。
 はああ、と細く長い息が空に吸い込まれていく。プリントも持って帰れなかったし、週明けトシに会うとき、何事もなかったような顔をしていられるだろうか。