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2025/12/14のWebオンリー内企画で展示させていただいたお話です。
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君は何よりうつくしい
今宵の月は満月よりわずかばかり欠けている。夜はこんなに明るいものだったのかと思うことに最近ようやく慣れてきた。こんな夜に眠りお天道様と一緒に起きる生活をしていたことが、私にもあったはずなのだけれど。
休暇を持て余し、吉原で一番賑やかな表通りを目的なく歩いていると、紅白のミニワンピース姿で客引きをする女とぶつかった。女はこちらには目もくれず通りがかりの男の腕に絡みついた。
まったく。呆れてまた歩きだし、そこから少し進んだところにある総籬の廓の前で私はふと足を止めた。以前まで日輪さんが太夫を務めていた見世だ。目に留まったのは、その二階で欄干にもたれて外を眺める百華の頭だった。
彼女に会いにきたと入口で告げ、二階に上がる。
「月詠さん」
手を伸ばせば届くほどの距離で呼んでようやく、月詠さんははっと振り向いた。
「ああ……何じゃ、ぬしか。どうした」
「いいえ別に。下から月詠さんが見えんしたから」
そうか、と月詠さんは怪訝な顔をした。彼女がここから吉原の街を見下ろしているのはいつものことだ。百華の頭として、いつもそうやって街に意識を張り巡らせている。
月詠さんの隣に並び、私も一緒に見下ろした。鳳仙から解放されてもなおここで身を売ることしか生きる術を持たない哀れな女たちと、相も変わらずそれを買う男たちの美しくない様相を。
「出かけていたのか」
「今日はお休みだったから、そのへんをお散歩」
「ぬしはいつもそうじゃな。たまには地上にでも出てみなんし」
「地上ってそんなにいいところ? どうりでいつも地上から帰ってきた月詠さんが幸せそうなわけでありんすなあ」
「なっ、べ、別に、わっちはそんな……」
月詠さんは必要以上の勢いをつけてこちらを振り向いた。顔が真っ赤だ。私が口角を上げると咳払いをひとつして、拗ねた子どものようにくちびるを尖らせた。
遊女の経験こそないものの人生のほとんどを吉原で過ごし、禿として廓の中にいたこともあるはずなのに、こんなうぶなままよくこの歳までこられたものだと思う。地上で普通に育った女もこんなものなのだろうか。
まだ顔の赤いまま、月詠さんはまた街の方を向く。そのときふと一瞬、月詠さんの意識がどこかへ飛んだのがわかった。そして同時に、そのおぼこみたいな表情のなかに影のよぎるのを見つけて、私は身体の奥から何かがぞくぞくとこみ上げてくるのを感じた。
月詠さんは時折、こんな風に上の空になることがある。ちょうどあの男が吉原を救ったあとからのことで、そういうとき、決まって今のように昏い何かが瞳の奥に現れるのだ。
私は中見世のしがない遊女だ。七歳で廓に売られ、禿から始まり適齢期に水揚げ、突出を経て――という定番の手順を踏んで遊女となり、お茶を引くでも売れるでもなくやっている。
淡々と日々を過ごしていた。あれこれ考えることはせず年季明けに向かって客を取り、年季が明ければ遣手にでもなるのだろうと、前向きとも後ろ向きともいえない毎日を生きていた。
そんな私が、激しく心を揺るがされる出来事があった。鳳仙が消え、吉原が解放されたのだ。
自由を喜ぶ空気のなかで、私は冗談じゃないと思った。だって、吉原の女がいまさら地上で生きていけるわけがないのだから。年季が明けて一度地上に出た女が結局吉原に戻ってくるという話はこれまで腐るほど聞いてきた。地上でやっていけるのは、身請けという僥倖を得た女か身につけた芸事でたつきを立てられる女くらいで、どちらも数多いる遊女のほんのひと握り。
もちろんそんなことは誰より理解している日輪さんが自分たちで新しい街を作ろうと立ちあがってくれたけれど、蓋を開けてみればできあがったのはただの風俗街で、やっぱり私たちはこうやってしか生きていけないのだと思い知らされた。
それなら、鳳仙がいたときの方がまだましだった。私たちは支配されていたから。逆らえなかったから。そういう世界だったから。言い訳がいくらでもできた。被害者でいられた。身売りしかできない己のみじめさから目を逸らすことができた。
なのに。自らの意思で吉原にいるという建前なんて作ってしまったら、もう救いようがないじゃないか。
眼下でさっきの女がまた男を引っぱっていた。わざわざ吉原を選ぶ男にミニスカサンタのコスプレが魅力的に映るのかは疑問だけれど、まさに〈自分たちで作る新しい吉原〉の象徴だと思う。
「クリスマス時期の地上は景色がきれいだそうですね。月詠さんは見にいきんした?」
「ああ。街全体がきらきらして、道ゆく者もどこか浮き立っていた」
「それじゃ吉原の日常と変わりんせん」
「ふっ、あっちには品がある。それに――」
そこまで言って月詠さんは口を噤んだ。まるで思わず口をすべらせてしまったように。
「それに?」
促すと、月詠さんはためらった末に小さく言った。
「愛もある」
その瞬間、また月詠さんの瞳に昏いものがよぎった。それを認めて私は背筋がぞくりとする。この影が差したときの月詠さんといったら。言いようのないほど美しい。
月詠さんは以前こう言ったそうだ。鳳仙を恐れて張っていた檻を破ると。そして実際破ってみせた。だというのに、今また檻にとらわれはじめている。今度は「女は捨てたはず」という檻に。皮肉なものだ。檻を破るきっかけとなった男のために新しい檻を自ら作っているのだから。
あの男ならその檻も破れるよう手を伸ばしてくれるかもしれない。その次も、その次も、月詠さんがいくら檻を作ろうが、いくらでも。けれど、そのとき取った手を引いて胸のなかには絶対に抱いてくれない。そういう男に違いない。
恋心を抱く自分を認めることができない。認めても、その先はない。月詠さんの瞳に浮かぶのは、そういう不自由さやみじめさへの苦しみだ。それがただのおぼこだった彼女に影を生み、このうえなく美しく見せる。
できることなら、永遠に檻にとらわれていてほしい。このままずっと、どうにもならないむなしさや己の無力さにうちひしがれた昏い美しさをたたえていてほしい。
私たちを置いて自分だけ檻を破るだなんて、そんなひどい話ないでしょう。
私は小さく笑って月詠さんに背を向けた。
「行くのか」
「ええ。また明日」
クリスマス。街が愛に溢れきらめくとき。だから地上に行かなかったのだ。他人の幸せでどうして心が満ちるというの。私の心を潤すのは、月詠さんのその美しさだけなのだ。
階段を下りる前に振り返る。もうこちらを見ていない背中に囁いた。
「メリークリスマス」