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サイト開設前Twitterに上げたお話です(2022/03/31)。
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   しらふでよろしく

 爆発のような笑い声が響いた。パチンコ屋の方がいくらもましに思える乱痴気騒ぎの中、コップに残った水を飲み切った。
 年に数回ある屯所内での宴会。今回は新人隊士歓迎会という大義名分を得た隊士たちがここぞとばかりに酒を浴び、服を脱ぎ、声を張り上げる。楽しむのは結構だけれど、こいつら今攘夷志士の襲撃に遭ったらどうするつもりだ。
 時刻はもう丑の刻に差し掛かろうとしている。ただの無秩序となり果てた場から抜けるべく立ち上がると、
「もう戻るんで?」
 真っ赤な顔で鬼嫁を抱きしめる総悟君に声をかけられた。
「ついでにこの人連れてってくれやせん?」
「いや何で私が」
 憎々しい顔でしゃくった顎の先で、トシが何故か総悟君の足首を掴んだまま口を開けて眠っていた。こちらも負けず劣らず真っ赤で、総悟君が頭を蹴ると目を開くも焦点は定まっていない。いつもは端の方から遠巻きに涼しい顔をしているのに珍しい。
 まあ、十中八九総悟君が無理に飲ませたに違いないんだけど。
「早く連れてってもらいなせェ」
「……一人でいい」
 呂律は怪しく覚束ない足取りではあったけれど、自力で立ち上がり廊下に出て行った。外出するわけでもなし私の出る幕はない、と今度こそ自室に戻ろうとしたとき、トシがそのまま濡れ縁を越えて庭に落ちかけた。咄嗟に抱きつくように腰に掴みかかり引き戻すと、今度はよろよろと宴会の行われる広間の襖に突っ込もうとするので、必死に押し戻す。そうして結局、肩を貸し部屋に連れて行かざるを得なくなった。
 準備のいいことに布団は既に敷いてあった。
「ほら着いたよ。早く寝な」
「んん……」
 背中を叩いても、私に体重を預けたまま動かない。
 膂力に自信はあれどさすがに自分よりひと回り以上大きい男を介護よろしく寝かせてはやれないので、布団に投げ捨てようとした。が、力の抜けた人間は思いの外扱いづらく、バランスを崩しトシともども布団に倒れ込んでしまった。咄嗟に庇おうと背中から倒れた私の上に、トシがうつ伏せにのしかかる。
「……痛ぇ」
 どう考えても私の方が痛い。けれど相手は泥酔した酔っ払いだ。
「どうもすいませんね、早くどいてくれません?」
 ぐいと肩を押す。反応はすこぶる鈍く、何度か押してようやくのっそりと上体が起こされた。しかし、上体だけが起こされたところでまた止まる。
 さっきから行動ひとつひとつのテンポが悪く、私は苛立ち始めた。「ちょっと」と視線を上げ、はっと息を飲んだ。思った以上の至近距離で目が合ったのだ。
 廊下の灯りがぼんやりお互いを縁取るだけの薄暗がりで、少しの間見つめ合う。
「……いやいや土方君それはまずい。懲戒免職もんだよ? 酔ってたは言い訳になんないからね、まじで」
 おかしな空気になりかけている気がして、努めて軽い調子で言った。
 けれど返事はない。返事どころか、微動だにしない。目を凝らしてみれば、こちらを見下ろす目は据わっているうえ、相変わらず焦点が合っていない。
 様子はおかしいものの、思ったような雰囲気ではなさそうだった。
 ほっとしたはいいけれど、どちらにしろ困った状況には変わりない。「早くどいてくんない?」と声をかけても反応はなく、全力で肩を押しても動かないこと山の如し。とにかくここから逃れようと全身を総動員する。脚も動かし、蹴るというよりは押すようにぐいぐいと膝を鳩尾に入れる。
 するとトシは顔を一瞬しかめ、私の胸に顔を埋めた。
 私は血の気が引いた。貞操の危機を感じたから、ではない。トシの身体が、ポンプの様に小さく波打ったからだ。
「え、まさか、吐く気……?」
 酔っ払いの鳩尾なんか刺激するから! 私の馬鹿!
「だっ誰かァァア! 助けてェェエ!」
 宴会の大騒ぎはまだ続いている。トシの身体がまた波打つ。
「まじでやめろお願い三百円あげるからァァア!」
 う、と低い唸り声がした。よく見るとシーツを握りしめている。不明瞭な意識の中でも人としての尊厳を守るプライドは残っているらしい。さすが鬼の副長――なんて感心している場合じゃない。
「おっお前吐いたら斬るかんな! つーか吐いてもいいけどそこどいてからにしろ! ねえまじで誰か助けてェェエ! 副長が鬼籍に入っちゃうよ、鬼だけにィィイ!」
 叫びは野郎どもの声に飲まれ、その間にもトシの呼吸はどんどん浅くなる。
 諦念に包まれ始めたとき、不意に身体が軽くなった。
「大丈夫!?」
「ザキィィイ! さすが名監察!」
 駆け付けてくれたザキが間一髪トシを引っぺがし、仰向けに転がした。
 一体何事、と上司の不祥事を懸念する男の足元で、回転がとどめの一撃になったらしく吐瀉物が広がった。それに気付いたザキの顔がたちまち青から白になった。

 *

 ショーウインドウに展示されている着物一式を指さし「これがいい」と言うと、ブランドロゴ“美恥”を見た男の口から煙草がぽろりと落ちた。
 あのあと事態は近藤さんに報告され、翌朝一番トシと近藤さんに土下座で謝罪された。本人にそういうつもりがなさそうだったとはいえ、こういうことはきちんとしておいた方が良いと言う彼らに私も同意であったので、素直に謝罪を受けた。
 そして、あの晩もがいているときに着流しの袂が破れてしまっていたため、新しい物をトシに買ってもらうこととなり、非番の重なった今日ふたりで街に出てきたわけだった。
「……破れたの、安物の寝巻っつってなかった?」
「謝罪は言葉だけじゃ気が済まないから何でも好きな物選べっつってなかった?」
「そりゃ言ったけど、限度ってもんが」
「そっか……結局トシにとってはその程度の」
「あああああ! わーったよ買わせていただきます! つーかそれネタにすんな、洒落になんねえんだよ!」

 店内で、試着して半ば強引に似合っていると言わせたりしながら長居したあと、店を出たところでばったり銀さんと鉢合った。
 銀さんは私たちと店を交互に見る。
「税金で美恥ですか」
「わあ、絶対言うと思った」
「服買ってもらったの? 何、おたくらそういう関係なの?」
「そういうって何だ、お前にゃ関係ねえだろ」
「お前知らねえの? 男が女に服贈るって、脱がせたいって意味あんの」
 あーあ、言っちゃったなー、オイ、言っちゃったよー。
 服の話が出た時点で、なんとなくその話をされそうな気がしていた。衣服や装飾品にわざわざ意味を込めて贈るなんて普通は指輪くらいのものだろう……というのは銀さんも百も承知で言っている。その証拠に、顔にしてやったりと書いてある。「そうらしいねえ」と軽く答える私の横で、案の定トシが固まっているのは見るまでもなかった。そもそもこの手の冷やかしに滅法弱いのに、今はタイミングも悪い。
 ぎぎぎと音がしそうなぎこちなさで、首がこちらに向いた。
「ちっ違うからな!? そういうつもりじゃねえぞ、断じて!」
「わかってるっつーの! こっちまで恥ずかしくなるから照れんのやめてくんない!?」
「別に照れてねえ!」
 ああやだやだ、ハイブランドの店の前でこんなやり取り。
 種を蒔いた張本人はもう興味を失ったらしく、冷ややかな目をして鼻をほじっている。ハイブランドの店の前で。
「俺もう帰っていい?」
「早くどっか行け!」

 銀さんと別れ、無言のまま並んで歩く。しばらくして落ち着きを取り戻したトシが口を開いた。
「お前、あれ知ってたのか?」
「服贈る意味? まあ雑学としてはね。でも別にそんなのいちいち気にしないでしょ」
 人通りの多い道を抜け、トシが煙草に火を点ける。
「つーか、服にも意味あったんだな。靴下だけだと思ってた」
「いや靴下にだけ意味があるって違和感ありまくりだろ。むしろ何で靴下は知ってんの?」
「仕事で、贈り物するときに靴下は避けろって聞いたからな。見下してるって意味があるんだと」
 珍しくこういう類の知識があるのだなと思えば、その理由に色気もくそもないのがこの男らしい。
 ふと口元が緩んだとき、はたとあることを思い出した。そういえば、靴下には他にも意味があったはずだ。すぐにスマホで調べると、複数のサイトで思った通りの意味が記載されていた。
「歩きスマホすんな」
 急にぐいと腕を引かれる。同じように歩きスマホをする人とぶつかるすんでのところだった。とん、と一瞬肩がトシの二の腕にぶつかり、元の距離に戻る。
「警察の自覚が足りねえ」
「そっくりそのままバットで打ち返してやんよ」
 くわえていた煙草を奪ってやると、あ、と短く小さく漏らし、ばつの悪そうな顔をした。渋々差し出された携帯灰皿に煙草を押し付けにっこり笑うと、舌打ちとともに膝蹴りを入れられた。

 *

 最後の書類に判子を捺し、時計を確認する。
 これから近藤さんと接待に出る。先日の失態もあるのでしばらく酒は控えたいのが正直なところだが、さすがにもうあんな色んな意味で痛い出費をするようなことはやらかすまい。
 そんなことを考えていると、廊下から「ひーじかーたくーん」と女の声がし、返事をする間もなく襖がすっと開いた。件の着物が目に飛び込んでくる。
「今日下ろしたんだ。似合う?」
「似合う似合う、どこのモデルかと思ったわ」
 頬杖をついて答えると「相変わらずつれませんねえ」とわざとらしい鼻息を吐き出された。真剣に言ってほしいのなら、着物は俺と出かけるときに下ろして言葉は待つぐらいの奥ゆかしさを見せてほしいものだ。
「何か用か? 悪ぃけどもうすぐ出るぞ」
「この着物のお礼を、と思って」
 小さな紙袋が差し出される。
「礼だぁ?」
 確かに法外な値段ではあったし、それでも買ったのは相手が他でもない彼女だからであるが、謝罪に贈ったものだ。礼を貰ういわれはない。
「ま、細かいこと気にせず受け取ってよ」
 はい、と再び差し出されるのを渋々受け取り、促されるまま中身を取り出して、俺は腹が立つを通り越して呆れた。
 中身は靴下だった。
 先日の件は、あわや大惨事であったと重々承知しているし、何を言われても文句は
言えないと思っている。
 だが今ひとつわからないのが、どうも彼女が面白がっているようにしか見えないことだ。
「……わざわざ遠回しにこんなことしなくたって」
「まあでも、あって困るもんじゃないでしょ?」
 遮るように言われ、僅かにあった反論する気は完全に失せた。
 そりゃどうも、と靴下を袋に戻す。思わず小さな溜息が漏れた。
「ちなみに、靴下には見下してる以外にも意味あるらしいよ」
「何だよ?」
 問いには答えず、彼女はにっこり笑って部屋を出た。と思えば引き返し
「しらふでよろしく」
 と言い残していった。
 全くわけがわからない。
 要領を得ないやりとりに苛立ち、とりあえずスマホで靴下の意味を調べる。
 一件目のサイトの記載を読み、思わず身体が硬直した。しかし彼女がそれを指していたとは限らないと二件目、三件目と確認するが、いずれも書いてあることは同じだ。
 俺は頭を抱えた。
「何考えてんだ……」
 女性から男性に靴下を贈る場合「私を好きにして」という意味がある、と俺の見たサイトは口を揃えて言っていた。「脱がせたい」の服に対する返事としてこれを贈ってきたのだ、あの女は。今頃俺があたふたしているのを想像して笑っているのだろう。
 あまりの揶揄われようにまた苛立った。
 本当に好きにしてやろうか――などと心の中で息巻いてはみても、昨日の今日であるし、そもそもそうでなくとも俺にそんなことができる筈もない。あいつもそれをわかってやっている。
 くそっ、と吐き捨てて煙草に火を点ける。煙を吐き出しながら紙袋を見遣った。
 彼女でなければ一挙手一投足にいちいちこんなに心乱されることもないと、それもわかっているのだろうか。そう面と向かって言ってやったら、あの余裕ぶった顔も少しは焦りを浮かべるのだろうか。
 もちろんそれも、俺にはできやしないのだが。