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Twitterで企画参加させていただいたお話です(2022/07/16)。
企画:@yumenosyoka(Twitter)様
あくまで過去の話としてですが、ミツバさんとの回想シーンがあります。
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   海桐の花

 パチパチと何かの爆ぜるような音がした。妙な臭いがして顔を上げると、いつの間にか障子が僅かに開いている。何事かと部屋を飛び出すと、庭で総悟が山盛りの草花を燃やし、団扇で煙を俺の部屋へ送っていた。ご丁寧にガスマスクを着けて。
「何してやがる!」
「海桐を燃やすとひでえ悪臭って聞いたんで、土方さんで試してたんでさァ。どうです、実際?」
 答える代わりに刀を引き抜くと、総悟は一目散に逃げ出した。追いかけようとしたが、視界の端で火と煙が勢いを増したので、慌てて消火しているうちに見失った。
 煙が消えた後も臭いは立ち込めていた。庭はもちろん、俺の部屋の中まで。鼻につくだけでなく、湿気と絡み合いながら身体にまとわりついてくるようで、凄まじく不快だ。
(それにしてもこんな量の海桐、一体どっから……この辺だと道や公園に植えられてるくらいしか――)
 そこで俺は考えるのをやめた。器物損壊の新しいレパートリーなんざ、できれば知りたくなかった。
 ため息をつき、煙草に火を点けた。煙を吐きながら、海桐の山を見下ろす。上の方は炭になってしまっているが、下の方ではまだ青い若い実が顔を覗かせている。

 そーちゃんが生まれる前、両親と遠出して海の方へ行ったことがあったの。そのとき見た花がとってもきれいで……確か、トベラっていったかしら。白くて小ぶりで、甘い良い匂いがして、葉っぱもつやつやで、上品な花。この辺にも咲いていたらいいんだけど、海の方の花らしいの。いつかまた見に行きたいわ……。
 あのとき彼女は、目の前で野を駆ける弟越しにその景色を見ていたのだろう。俺はというと、見も知らぬ花よりも、彼女のことばかりが気になっていた。
 それから江戸に上りしばらく経った頃、俺は思いがけない形で実物に出会うことになった。
 その日、公園で低木に袖が触れ、粘ついた赤い何かがくっついた。袖を払いながら見てみると、それはどうも、その木に生った実が裂開して出てきた種らしかった。種は開いた実の中から糸を引きながらいくつも外に出てきていて、俺にはそれがまるで、寄生虫のような何かが体を食い破って外に出てきたところのように見え、そのおどろおどろしさに思わず顔をしかめた。そのまま立ち去ろうとしたが、そのときふと目に入った樹名板に、俺は息を呑んだ。その木が、海桐だったのだ。海の花だったんじゃないのかと思いながら周りを見てみれば、公園内だけでも同じ木がいくつか植えてあった。公園を出れば、街路樹としても。
 彼女の夢見た花は、確かに海の辺りに自生する花ではあったが、一方で、江戸では植栽としてよく選ばれるありふれた花でもあったのだ。
 それを知って俺は、無性に虚しくなった。どうして彼女はいつも、取るに足らないものを欲しがってしまうのだろう、と。取るに足らないのに、いつも手に入らない。
 それを嘆く資格も、哀れむ権利も、俺にはないのだが。

 臭いがすっかり消えても、むしろ、日が暮れるにつれ、胃の奥の不快感は酷くなった。彼女のことを発端に、思い出したくない昔の出来事がいくつも頭に浮かんできたからだ。俺と関わって不幸せになった人間が、次から次へと頭を過るのだ。俺さえいなければもっと楽に自由に生きられただろう母親。俺を庇って光を失った為五郎さん。俺がもっとマシな戦略を練られていたら死なずに済んだかもしれない隊士たち――。
 誰にでもあるだろう、選りすぐりの忘れたい過去ばかりがとめどなく溢れ、地獄の底に引きずり込まれそうになるような、落ち着かない夜が。俺はこういうとき、じっと時をやり過ごすということができない。だから、いつもひとりで酒を飲む。酔いに任せて記憶の輪郭をおぼろげにし、揺蕩わせたまま眠ってしまうのだ。
 買い置いていた焼酎を開けようとしたとき、「開けるよー」と声がすると同時に障子が開けられた。
「返事聞いてから開けろ」
 おかまいなしに入ってきた彼女は、報告書を文机の上に置くと俺の抱える瓶を覗き込んだ。
「今から飲むの?」
「……ひとりでな」
 意識的にすげなく言うと彼女は、そっか、とだけ言って部屋を出ていった。そして、すぐにグラスとつまみを持って涼しい顔で再登場した。
「おい」
「その酒、皆にバラされるのとどっちがいい?」
 しかしそう脅されれば、差し出されたグラスに注いでやるしかなかった。真選組副長の人脈を駆使し、苦労して手に入れた幻と言われる酒を。
「うわ、良い香り」
 乾杯して、口を付ける直前に彼女が目を瞠った。続いて一口目を飲むと口当たりだの旨味だの、しばらくしてからは後味がどうのと、彼女は怒涛に酒を称賛した。黙って味わえと思わないでもなかったが、それがいちいち声を上げて賛同したくなるほど的確で、俺は思わず舌打ちをした。
「あ、何か的外れなこと言った?」
「……その逆だ」
 彼女は目をしばたたいて、笑った。そしてこの焼酎の話から美味い酒や食い物、他愛ない話へと会話が広がった。
 俺は、そうは見えないらしいが、物静かな女よりは積極的に喋る女の方を好む。とはいえやかましいのや話題があちこちに飛ぶのは苦手だが、気の利いた話題を振ったり会話を盛り上げるのが不得手な俺にとって、話題の尽きない相手は有難い。特に彼女の場合は、会話のテンポが心地良い。きっと話す以上に聞くのも上手いのだろう。アルコールの力も手伝って、脅迫的に酒を飲みにきた減点分はあっという間に挽回され、俺はさっきまでの気の重さを少し忘れていくらか饒舌になっていった。
 一升瓶が空になる頃には、すっかり気分が良くなっていた。最後に残った一杯分を彼女に注いでやろうと思うくらいに。数日かけて飲むつもりをしていた酒だが「いいの?」と緩みきった顔で彼女が笑ってくれれば、惜しくはなかった。
 酒を注ぎながら、グラスを持つ彼女の人差し指に新しい傷がついているのがふと目に入った。
「指、どうした」
「ん? ああ、報告書で切っちゃった」
「うわ、聞いただけで痛ぇ……気ぃ付けろよ」
「うん……」
 最後の返事で、どうしてか急に彼女の声のトーンが下がった。変なことを言ったとはとても思えなかったが、彼女はそれきり、傷に目を落としたまま物思いに耽るように黙り込んでしまった。さっきまでまろやかだった空気が、妙によそよそしく変わる。
 何か声をかけるべきか、どうすべきか、しばらく考えあぐねていると、彼女がすっとこちらに手を伸ばし、そっと俺の手を取った。その指先が思いの外熱くて、身体がぴくりと小さく震えた。
「お互い、傷だらけじゃん」
「……悪かった」
 てっきり、女の手の傷に言及したことを野暮だと責められたのだと思って、そう言った。しかし、彼女は小さく笑って、そのまましばらく俺の手の甲を見つめた。
「……生傷絶えない仕事だから、傷なんていくらでもあるのにさ。なのに、こんな小さい傷ひとつ増えたの、よく気付いたね」
「……」
 それでようやく、彼女の言わんとすることを察した。しかし、返せる言葉はなかった。
 俺が何も答えずにいると、痺れを切らせたように、彼女の指が俺の傷跡をなぞり始めた。いつついたのかもう覚えていないものから、ついこの間できたものまで、指の腹で産毛をなでるように、ゆっくりと。
 ただそれだけなのに、彼女の指が動くたび身体に熱が籠っていった。妙に胸騒ぎがして、手も少しずつ汗ばんでくる。呼吸が浅くなっていくのを彼女に悟られないよう、静かに深く息を吸い込み、吐いた。
 しばらくして、ふと彼女が動きを止め顔を上げた。
 熱を持ったまなざしとかち合って、こくと喉が鳴る。
「……」
 やっぱり、ひとりで飲むんだった。こんな夜に一緒にいたら、触れてしまいたくなる。
(そうだよ。そんな傷ひとつ目についちまうほど――)
 引き寄せられるように、手が彼女の頬に伸びる。
 指先が彼女の頬を掠めた、そのとき。海桐の花が目の前の彼女と重なった。
 はっとして手を止める。
 俺と関わって不幸せになった人間が、また頭を過っていく。あの日見た海桐の種のように、誰かの人生を食い破って生きてきた俺。
 いつか、もしかすると、こいつのことも――。
 一気に背筋が冷え、酔いが醒めた。彼女が怪訝な顔をする。
 手を引っ込め、目を伏せる。
「……悪ぃ、飲みすぎた」
「……」
 逃げるようにして、彼女がまだ触れている方の手を灰皿横のライターに伸ばす。
 俺が煙草に火を点けるのを見届けて、彼女が立ち上がった。
「……私も飲みすぎたかも。もう寝るね」
「ああ」
 おやすみ、と彼女が部屋を出ていった。
 首筋に垂れた汗の上を通っていく扇風機の風が、はっとするほど冷たく感じた。
 ふたつのグラスが汗をかき、文机に水を溜めている。俺の手はまだ、彼女の熱を帯びていた。