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Twitterで企画参加させていただいたお話です(2022/10/08)。
企画:@yumenosyoka(Twitter)様
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   Love Me Tender

 目が覚めたとき、彼の腕の中にいた。ほっとした私は眠りの浅瀬に佇んだまま、しがみつくように彼に抱きついた。すると彼はぴくりと小さく震え、私の頭をぎこちなくひと撫でする。その動作がどうも彼らしくないことに違和感を覚えた途端、次から次へと違和感が溢れかえった。馴染みのない匂い。ひと回り大きい身体。シャワーを浴びずに寝たときのべたべたした感じ。普段の敷布団ではなく、ベッドマット。
 はっと身体を離して見上げると、気まずそうな顔が飛び込んでくる。
「……大丈夫か」
 昨晩のことを思い出し、血の気が引いた。思わず目を逸らした先、はだけた衿から覗く胸がやけに健康的に見えた。

 *

 昨日、男にふられた。そして土方さんをやけ酒に付き合わせたうえ、最後はホテルに連れ込んだのだった。土方さんだったのは、別れ話のあと家を飛び出した先で最初にばったり会ったというだけのことだ。
 土方さんとは、どうしてか彼が見廻っているときに限って、私が交通違反をしたりちょっとしたトラブルに巻き込まれたりするので何かと顔を合わせる、それだけの間柄だ。土方さんからすれば私イコール厄介事のようなもので、いつからか疫病神のように扱われるようになった。けれど、だからこそ、失恋直後のやけ酒なんてみっともない姿を見せるにはうってつけの、ちょうどいい具合にどうでもいい相手でもあったため、嫌がるのを強引に飲み屋に押し込んだ。
 結婚することにしたって言われて。私そいつと八年も付き合ってたの。同棲もしてんの。ついにって思うでしょ? でもそのあと、だから別れようって。接続詞おかしいだろ。まあ、他に女がいたってことなんだけど。もちろん揉めに揉めたよ。でもそいつもう色惚け状態で……っていうか、そいつの中ではとっくに終わってたんだよね。私が気付かなかっただけで。
 最初こそ何で俺がとぶつぶつ言っていた土方さんは、私が話しはじめると案外じっと耳を傾けてくれた。まあ、飲みはじめてしまった以上そうするしかなかったのだろうけれど。
 たまに打つ相槌は「そうか」か「そうだな」のどちらかで、否定も、白々しい肯定もされないのは思いのほか心地がよく、アルコールも手伝って、店を出る頃にはすっかり傷心が土方さんに寄りかかってしまっていた。だめ押しとばかりに、家まで送ると言う土方さんの声色が柔らかかったせいで、自立できなくなった。隙間を埋めてくれそうな誰かが必要だった。
 帰りたくないと言うと、そうか一緒に住んでんだったな、とずれた解釈をされつつ行先はホテルになった。近くにラブホテルしかなく、初めてなので勝手がわからないと部屋の前まで送ってもらい、そこで寝るまで一緒にいてほしいと伝えた。一瞬躊躇ったようだったけれど、わかったと一緒に入室してくれた。
 ラブホテルが初めてというのは嘘だけれど、けばけばしかったり安っぽかったり、あからさまな内装のところ以外知らなかった私にとって品のある部屋は初めてだった。どんと中央に鎮座する、クイーンかキングか、とにかく広い清潔そうなベッドに横たわると、土方さんはその縁に腰掛けた。
 しばらく、煙草を吸う背中を見上げていた。時間が経つにつれ、ベッドの広さとシーツの硬さが人恋しさを募らせていく。本当に馬鹿正直に、私が寝るまでこうしているつもりなのだろうか。元彼以外の男を知らないけれど、あいつを基準にするなら少なくとも、頼んでもいない添い寝くらいはしてきそうなものなのに。
 ふと元彼のことを考えている自分に気付き、胸が重くなる。忘れたいのに。忘れさせてほしいのに。
 煙草の火が消えるたび期待が新しい火に挫かれて、二本、三本、と吸殻が増えるにつれ焦ったさが増していった。
 五本目を押し潰したとき、身体を支える左手に手を伸ばしてみた。指先でそっと触れると、ぴくりと強張った。避けられないのをいいことに、甲の筋をなぞるように指を滑らせる。
 しかし、反応はない。ぼんやりと存在していた焦燥感が、くっきりと輪郭を持ちはじめた。
「ねえ」
 声をかけると、やっと煙草を吸う以外の動きをしたけれど、小さいため息をついただけだった。
「……そういうつもりで来たんじゃねえんだけど」
 素っ気のない返事は、胸の内を濃い焦燥で埋めた。声はすっかりいつもの無愛想に戻っているし、こちらを振り返ってもくれない。不安が心臓から鳩尾のあたりを圧迫した。
「んな元気あんなら帰るぞ」
 土方さんが立ち上がった。こんな状況でひとり残されるなんて! 数秒後の未来に耐えきれず、抑えがきかなくなった。引き倒すつもりで帯を引っ張り、背中からベッドに倒れた土方さんに馬乗りになった。
「何考えてんだ……!」
 右手は帯を外そうと腰に、左手は衿下に滑り込ませようとして、けれどもそれぞれあっさり掴まれた。どうして、という苛立ちが勢いよく湧き上がってくる。何ひとつ思うようにいかない。このやるせない感情から、早く解放されたくて仕方がないのに。
「ただなんだし、後腐れも何もないんだから、やっときゃいいじゃん」
 それをぶつけるように投げやりに言うと、土方さんの顔にありありと不快感が浮かんだ。
「別に求めてねえよ」
 吐き捨てるようなその一言で、ふいに、元彼の声が頭に蘇った。
――お前も一緒にいるの苦じゃなかったし、嫌いじゃなかったけど。でも、彼女といると楽しいんだよ。積極的に一緒にいたいっていうか。結婚して家庭築くならこの子かなって。
「……そんなに……ないの、私」
「ああ?」
 もう一度両腕に力を入れても、それ以上の力で押し返される。それがまるで、たった一晩、たった一度抱く価値すら私にはないのだと、長年付き合った男にも行きずりの男にも、誰にも必要とされていないのだと言われているようだった。
「……やけ起こすと後悔すんぞ」
 いっそう力を込めてもびくともしない。指一本触れさせても触れてももらえないことがひどく惨めに感じて、余計に私を意固地にした。
「ここまで来て何もされない方が惨めで辛い! そっちは別にデメリットないんだから……」
 そのときぐるりと視界が反転し、腕に痛みが走った。上下が入れ替わりベッドに押さえつけられていると気付いたのは、そうなった一瞬あとだった。
「一回抱きゃ気が済むんだな?」
 私を見下ろす目と目が合って、ぞっとした。さっきまで呆れたり困惑したりしていた顔に、今は何の感情も浮かんでいなかった。声も驚くほど冷たく、目は人を見る目じゃない気がして、急激にすうっと頭が冷えていく。
「正直俺はもう帰りてえんだ。この状況終わらせられんならやってやってもいいが、お前が痛かろうがどうだろうが無視してさっさと済ませて帰るからな」
 頭が冷え、はっとした。
 慰めてもらえると、どうしてかそう思い込んでいた。それが愛情からくるものでなくても、私に属する何かは求めてもらえると。土方さんにそんな義理はひとつもないのに私ときたら、ただだからだとかデメリットがないだとか、相当に失礼なことを言っていたと、このときになってようやく気が付いた。
 土方さんを蔑ろにしながら、自分の価値を認めてくれと言っていたのだ。
 今度は情けなさと恥ずかしさが込み上げた。私の中はもう、暗く否定的な感情ばかりが溢れかえって、手が付けられなかった。すべてが嫌で、嫌だと感じることが辛くて、けれど対処の術も知らず、涙がぼろぼろ零れた。
 解放された両手で顔を覆った。ごめんなさいごめんなさいと何度も謝り「いや、こっちもきつい言い方して悪かった」と謝罪合戦になりかける。けれど、すぐに痺れを切らせた土方さんがもういいと私をベッドの正しい位置に横たえた。そして自分も横になり、私を胸に引き寄せた。
「朝までいてやるから、これで我慢してもう寝てくれ」
 赤ん坊をあやすように背中をゆっくりとんとんと叩かれる。それで少し安心して、そうすると余計に涙が止まらなくなって、私は土方さんの胸を借りて散々泣き、疲れて意識を手放した。

 *

「ほ、本当に、申し訳ございませんでした……」
 土方さんから飛び退き、ベッドの上で土下座した。
「ほんっとお前は厄介事ばっか持ってきやがる」
 心底うんざりしたように言われ、返す言葉もない。けれど、それはいつもの私の知っている土方さんで、少しほっとした。
「今日はちゃんと帰れよ」
 土方さんが起き上がり、首や肩を念入りに伸ばしはじめた。それが私のせいで一晩中下向きになっていた方だったこと、それによく見ると目の下にくまができていることに、気が付いた。
 穴があったら入りたい。
 羞恥で無言になっていると、それを違う意味に受け取ったらしい土方さんが遠慮がちな声を出した。
「あー……なんだ、こういうのはもう勘弁だが、まあ……しんどいときは飯くらいなら付き合ってやるよ」
「え」
 土方さんが身だしなみを整え時計を見る。
「そろそろ仕事だから出る。お前はどうする? あと二時間くらいいれるけど」
「シャワーとかしてから出ようかな……」
 そうか、とドアに向かう土方さんの後ろを、見送りについていく。
「……ご飯行きたくなったら、どこに連絡したらいい?」
 そう訊くと、電話の発信画面を差し出された。私の番号を入れ、発信ボタンを押す。「返事、大抵遅いけど」と言って、土方さんは帰っていった。
 一瞬廊下の空気に触れただけで、部屋の中に戻ると急に煙草とアルコールの臭いが鼻についた。
 ひとりになった部屋で考える。昨日もし最後までしてしまっていたら。たとえ優しく慰めてもらえていたとしても、きっと今頃虚しくなって、土方さんの言う通り後悔していただろう。
 ベッドに腰掛け、土方さんからの着信画面を眺める。
 元彼の出ていった家に今からひとりで帰ることを思うとまた言いようのない苦しさが込み上げてくるけれど、この番号があることで少しは心強くいられる気がした。