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Twitterに上げたお話です(2022/12/25)。
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   レ・ミゼラブル

 本格的に夜が始まって、誰かを待っているのは私と、ついさっき来たばかりのモデルのような女性だけになった。次から次へと私より後に来た人が待ち人と去っていき、そのたび惨めになっては縋るようにツイッターを眺めた。連絡ない。ドタキャンされた。他の女といるっぽい。顔も名前も知らない、ツイッター上で絡んだことすらない人たちの暗澹たる言葉で埋まるタイムラインを眺め、私はいつものように安心する。
 画面をスクロールしていると隣の女性が「はい」と電話に出たので、思わず私も顔を上げた。
「……ほんともう無理! 別れよ!」
 通話してすぐ、相手の言い分をおそらくほとんど聞かないまま彼女は電話を切った。そして、つけていたネックレスを引きちぎって植え込みの中に叩きつけ、ヒールを高らかに鳴らしながら去っていった。
 あまりのことに呆気に取られながら、きれいな後姿が駅の改札に呑まれていくのを見送った。
 なんだか恋愛映画の冒頭みたいだった。今のシーンは物語を引き立てるための導入に過ぎず、彼女にはこのあと運命の出会いが待っているのだ。私は画面の端で彼女の憤慨ぶりに眉をひそめるエキストラ。
 たまらず私はまたスマホの画面を眺めた。そうしていると、リアルでは皆うまく隠しているだけで、私と同じような人はごまんといるのだと実感を得られる。だからといって自分の抱えるあれこれは何ひとつ解決しないのに、どうしてこうも心強くなれるのだろう。
 五年ほど付き合っている彼氏は、よくダメ男だと言われる。見た目こそそこそこだけれど、仕事は続かない、金は返さない、約束は守らない。感情的で優柔不断、気分で私を振りまわす。そういうところに私も嫌気が差すことはあるけれど、ただ、浮気はしないし、愛情表現も欠かさない。つまり、ちょっとだらしないだけで、私たちはまっとうに愛し合っている恋人だ。
 それでも周りからは散々反対されたし、同じような彼氏を持つ人も周りにはいなかった。
 そんなとき、ツイッターで似たような女の愚痴アカウントを見つけた。そのときの私と言えば、言葉の通じない国で日本人を見つけたときのような昂揚と安堵を覚えたのだった。そうして私は専用のアカウントを作り、フォローを辿れば芋蔓式に出てくる同様のアカウントをひたすらフォローして、安寧の空間を作った。そこにいれば、私はごくごく一般的な彼氏を持つ女なのだと自信が持てた。むしろ良い方ですらあった。世の中にはひどい男と付き合っている女がたくさんいた。
 今日もクリスマスイブだというのに連絡なしに一時間待ちぼうけをくらっているし、他に同じような人は見当たらないけれど、見えるところにいないだけで、本当はありふれたことなのだ。全然おかしくない。
 タイムラインに新しいツイートが流れてきた。ツイート主は、おそらくミゼラブルの逆読みだろう、ルブラゼミさんという人だ。
『また仕事。寒いからホテル入ってろってホテルには来るのかよ もう無理だわ。別れた。もらったネックレスも捨ててやった』
 一瞬固まってしまった。
 ネックレス? まさか、と植え込みを凝視する。視線を画面に戻すとリプがついていた。
『あんま会えてないお詫びにもらったってやつ? 美恥の』
『そう』
 考えるより先に体が動いていた。植え込みに手を突っ込み、枝葉に絡みながら沈んでいるネックレスをちぎれないよう丁寧に引っ張り上げた。そして、チャームを確認し愕然とした。
『もったいな』
『私があいつに使った時間の方がもったいない』
 一瞬頭が真っ白になったあと、じわじわと焦燥が込み上げてきた。
 美恥のネックレスを植え込みの石垣の上に置き、私は元々立っていたところに戻った。恐ろしくてタイムラインを見る気になれない。
 さっきのきれいな人が、あのルブラゼミさんだったなんて。
 ルブラゼミさんは、フォロイーの中でも特に印象的な人だった。彼女はいつも自分が都合の良い女であることを嘆き、彼氏の浮気を疑っては悩んでいた。彼氏は愛情表現も連絡も少ないうえ、仕事と言ってよく約束を反故にする男だ。そんな、明らかに愛してくれていない男に縋る人もいるのだと、それを思えばきちんと愛し合っている私たちは何も間違っていないのだと、彼女のツイートを読むたび私は自信を持てた。
 なのに――。
 そのとき、鼻先がひやりとした。まさかと空を見上げてげんなりする。雪が降ってきた。彼氏からの連絡はまだない。仕方なく正面のカフェに入り、待ち合わせ場所の見える窓際に座った。温かい場所に座っても、私は一向に落ち着かなかった。
 だって、話が違う。ルブラゼミさんの彼氏が本当にツイッターで言われているほど薄情なダメ男だったなら、決して安くはないネックレスをただの詫びで贈るだろうか。寒い中待たせないようにホテルに入っていろと早めに連絡をくれるだろうか。そして、それでも別れてしまえる美女のルブラゼミさんは、私よりひどい境遇にあると言えるのだろうか。
 呆然と窓の外を眺めたまま、三十分ほど経っただろうか。ひとりの男性がさっき私の立っていたあたりに走ってきた。きょろきょろしながらうろうろして、植え込みのところではたと何かに気が付き、立ち止まった。それを手に取りじっと眺めている。
 美恥のネックレスだ。すると、あの人はもしかして――。
 男性が電話をかけはじめたので、私は思わずカフェを飛び出した。
「――いや、無理やり抜けて駅に来たんだって……」
 私が近付くと、男性は声のボリュームを下げ、手で口元を覆った。私は声がぎりぎり聞こえるくらいの間を空けて立った。
「飯は一緒に行けなくて悪かったよ。遅くなるけど夜には行けるから、先にホテル入ってルームサービスでも取ってゆっくりしてくれてりゃ……いや、そうじゃねえって。部屋取ってあんだからひとりで外うろつくより……おい、待てって」
 電話は切られたらしく、何度かかけ直したけれど、ついに諦めた。そしてまた手の中のネックレスを見つめはじめた。私は折り畳み傘をわずかに傾けてそれを横目で盗み見る。
 ルブラゼミさんに負けず劣らずモデルみたいな人だった。走ってきたからか髪は乱れているけれど、身なりも整っている。本当に仕事の合間を縫って駆けつけたらしく、スーツなのにバッグは持っていないし、首から社員証がぶら下がったままだ。誰もが知る大企業の社名入り社員証が。
 やっぱりダメ男だったと安心したくてカフェを出てきたのに。こんなに必死に追いかけてきてくれる男性だったんじゃないか。
 ルブラゼミさんは、まともな男性にちゃんと大切にされていた。ただ彼女の求めるものとは食い違っていただけ。私とは全く状況が違う。私が勝手に、同じ土俵で話をしていると思い込んでいただけだったのだ。
 だったら、私が今まで見てきたのは一体何で、何に優越感を覚えて安心してきたのだろう。
 もしかすると、他のフォロイーたちも――。
 さっき私が感じたぼんやりとした焦燥は、いよいよしっかりと輪郭を持つ絶望に変わった。私をかろうじて支えていたものががらがらと音を立てて崩れていくのを感じる。けれどそれでもまだ、縋りたかった。私の五年は無駄じゃなかったと思いたかった。確かに私の彼氏はこの男性と比べればかなりだらしないけれど。
 そのときやっと、彼氏から連絡がきた。
『ごめん寝てた! もうこんな時間だし雪降ってるし、俺の家にする?笑』
「……」
 最後の最後に残っていた何かが、ぽきりと折れた。
 頭のどこかではわかっていた。口で好きだと言うだけならいくらでもできる。でも中身のない言葉は実感を伴わないから、見ず知らずの、自分より不遇だと勝手に決めつけた女たちで補っていたのだ。けれどそれが全部虚構だったのだと突きつけられた今、縋る気力も湧いてこなかった。
 なんだかもうどうでもよくなった。アカウントを消してしまおうとツイッターを開くと、ルブラゼミさんがまたツイートしていた。
『着拒とブロックしたら案外すっきりした』
『ひとりで飲んでたら声かけられた』
 本当に恋愛映画みたいな展開を繰り広げる彼女は、最初から私とは違う世界の人間だったのだ。
 すると最後のツイートに
『麻衣ならすぐ新しい男できるよ』
 ルブラゼミさんのおそらくリア友からリプがつき、すぐに消えた。うっかり本名を入れてしまったらしい。『ごめんミスった』と新しくリプがついた。
 そのとき、私の体に電流が走った。映画の主役は彼女ではない、私だと悟ったのだ。
 理想の高すぎる女に一方的にふられた男と、長年ダメ男と別れられなかった女が、クリスマスイブにこんな風に隣に並んでいる。そのタイミングでルブラゼミさんの名前が発覚したことが、とても偶然だとは思えなかった。
 傘の柄を握りしめる。未だ手の中のネックレスを眺める男性に近付いて、傘を差し掛けた。同時に社員証の名前を確認する。
「あの……濡れちゃいますよ」
「ああ……すみません。大丈夫です、もう行きますので」
 男性は少し気まずそうに歩き出した。その背中に投げかける。
「あの、違ってたらすみません。土方さん……ですよね?」
 土方さんが振り返った。
「急にごめんなさい。私麻衣の友達で、写真を見せてもらったことがあって」
 訝し気に細められていた目が見開かれた。正面から見ても素敵な男性だ。
 やっぱり、これまでのすべてはただのお膳立てだったのだ。今から私の幸せな恋愛が始まるのだ。