※書き下ろし2話のサンプルを掲載しております。
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抱きしめる術も知らない
目が覚めたとき、ひとりでないことに一瞬驚いて苦笑した。夜明け前、眠っていた俺を置いて去ろうとした彼女を引き留めたのは、他でもない自分自身だというのに。
彼女はいつも、夜の明けぬうちにいなくなる。それも自分のいた痕跡を完璧に消して。その日の午前に顔を合わせてもしれっとしているし、俺には指一本触れたことも触れられたこともないような距離感を保つ。初めて抱いた翌朝ですらそうだった。それがあまりに自然なので、俺はいつも前夜のあれこれを思い起こす余韻もないどころか、あれは夢だったのではないかと思ってしまうのだ。
けれども最初はそれがありがたかった。彼女を抱いたのは決してノリや勢いではなかったが、かといって先々のことを深く考えてのことでもなかったし、正直なところ、彼女がそういう執着をあまり持たなさそうだという打算さえあったからだ。
だからそんな状況はむしろ俺にとって都合がよかったはずなのに、次第に俺は、そんな彼女の態度がどうにも焦れったくなっていった。何度ふたりで夜を過ごそうが変わらない彼女に対し、俺ばかりがこだわっているような釈然としない気分になって、彼女を抱く手は躍起になった。そうしていると自分の腕の中でなす術なくただ声をあげる彼女に多少の満足はできるのだが、しかし、いつも翌朝すべて白紙に戻される。そうなると俺も意地になってしまって、根くらべのような状態が続いていたところ昨晩ついに折れたというわけだった。折れたといってもベッドを出ていこうとする彼女の腕を掴み、何も言わず布団に引き戻しただけなのであるが。彼女の方は、少しばかり驚いたようではあったが、嫌がりも喜びもせず、黙って腕の中に戻ってきた。
そっとベッドから抜け出し、脱ぎ捨てた服の中に埋もれていた、濃紺の色褪せた天鵞絨の箱を拾い上げた。それは屯所の自室から持ってきたもので、普段は地袋に、殉職していった隊士の形見だとか、お通ファンクラブの会員証だとか、そういう物と一緒くたにしまっている。箱の中身は指輪で、俺の母の形見だった。
(中略)
彼女の左手をそっと掛布団から引っぱり出し、薬指に指輪を嵌めた。ぴったりよりは少し窮屈そうにも見えるが、許容範囲ではなかろうか。俺の記憶にうっすら残る母はやせ細っていたが、この指輪を受け取ったときはまだ健康だったらしい。
母親の形見と言えばいくらか聞こえはいいが、いわくつきの指輪だ。そんなものを貰ったところで嬉しくもないだろうし、俺だってこれで済ますつもりはない。ただ、伝えられなかった言葉ばかり溜め込むのはもうやめるという決意表明のようなものだ。
彼女の手を持ったまま、角度を変えて指輪を眺める。そんな風にされても彼女がぐっすり眠っているのは、昨晩自分がずいぶん無茶を強いてしまったせいだろう。そしてそれは昨日今日に始まったことではないのだが、そんな風にされても彼女はひとりでに起きて部屋を出ていくし、また懲りずに俺と寝る。甘い言葉ひとつ貰えないのに。一体こんな男の何が良いのだろうといつも思う。
彼女の手の甲を撫でた。もう少し寝かせてやりたいが、二人揃って屯所に昼帰りは開きなおりすぎているし、今日は話をする時間もほしい。
声をかけようと顔を近づけたとき、彼女が小さい声で何か寝言を呟いた。
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揺らめく夜
海を一望しながらイヴを過ごすなんてロマンチックですね!
ホシを尾行中、女を連れてホテルに入られてしまったので、すぐにザキを呼び出しダクト伝いに部屋に盗聴器を仕掛けてもらった。私は一緒に尾行していたトシと、ホテルの屋上でその音声を拾うことになったのだった。
クリスマスイヴ、午後十時過ぎ、ホテルの一室、男女ふたりきり。十中八九、犯罪に関わる情報は得られないと思う。けれど難航している捜査で今のところ唯一の手掛かりである男――攘夷浪士との繋がりが濃厚なこの男を張らないわけにもいかず、そんな私たちを哀れんだザキは冒頭のように気の利かないフォローを入れたわけなのだけれど、冷ややかな視線がふたり分注がれただけで、口元を引きつらせながらそそくさと自分の持ち場へと消えていった。
ザキが海だと言った場所は、厳密には湾だった。それも、きらびやかな工場夜景が拝めるようなところではなく、今目の前に広がっているのは、薄汚れた水と、敵を迎え撃つ戦車のようにそびえるガントリークレーン、そして整然と不愛想に並ぶコンテナやトラック。灯りは申し訳程度に点いているだけで、霧のような細かい粒の雨が降る視界は煙り、夜景というより夜そのものだった。
(中略)
見るに値するものもない湾の方を眺めるトシは、少しぐったりしている。そりゃあ、朝から働いた一日の結末がこれなのだから仕方がない。けれども、その三十過ぎの男の疲れた横顔は、気怠げであってもくたびれてはいなかった。その顔の近くを、節くれだった指が煙草を挟んで行ったり来たりしている。
ふと、その指に触れられた夜のことを思い出してしまった。たった一度限りのことで、それも、もう何年か前の話だ。
お互いそれまでずっと、そうなることを頑ななほど避けていたのに、どうしてかその日、驚くほどあっけなくそうなってしまった。今思えば、地球を護った直後で相当浮かれていたような気がする。大きな困難を乗り越えたという万能感でハイになって、明るい未来みたいな、ありもしないものを夢見てしまっていたのかもしれない。別に地球を護ったのは私たちでもなければ、私たちがこれからも刀を振るうことに何も変わりはないのに。
だから、身体の隅々まで埋めつくすように抱き合った翌日の明け方、トシの腕の中で浸ったのは余韻などではなく、後悔だった。外が薄明るくなるにつれ明日もふたりで朝を迎えられる保証がないことを思い出した私は、それを初めて惜しいと思ってしまった。そうなることがわかっていたから、お互い求め合わずにいたはずだったのに。
そのまま私は黙って部屋を出た。それ以上腕の中にいたら、もっと欲してしまいそうだったから。言葉も、身体も、心も、未来も。全部。何もかも。そうなったらきっと、二度と離れられなくなってしまうと思った。
部屋を出る直前、背中越しにトシの目覚める気配を感じたけれど、私は気付かないふりをしたし、トシも引き留めてこなかった。それが、トシも私と同じ気持ちだったのか、単に私の結論を受け入れただけなのかはわからないけれど。
そうして私たちは、あの夜のことをなかったことにした。