映画が始まって約十分後のことだった。横に座るトシが目頭を押さえぐずぐずと鼻を啜りだした。私が呆気にとられてしまったのは、トシが映画で泣いているからでも、今観ている映画がマリオの実写映画だからでもなく、去年映画館で同じものを見たときとは全然違うところで泣きだしたからだった。何が琴線に触れたのか問うまでもなく、一度観たからこそその奥深さに気付けるシーンだ、観るたびに新しい視点を与えてくれる、やっぱり弁天堂はすごい云々、訊いてもいない賞賛が止まらない。
好きな男がこれだけ満足しているなら幸せではあるけれど、でも、共感はしてあげられそうにない。だって今は、洗面台、シャワールーム、トイレ、あらゆるところから水が溢れ出し、あっちを止めればこっちが漏れ、配管工の兄弟があたふたしているコメディシーンなのだ。
たとえ狙いとずれた感動であっても、これだけ心を震わせられれば創作冥利に尽きるものなのだろうか。誰かに見せるための創作をしたことのない私には想像もつかない。
映画は確かに面白い。マリオがうだつのあがらない男だったり、ピーチ姫が武闘派だったり、さらわれるのはルイージだったり、いつもと少し様相が違っていたけれど、マリオライト層である私も難なく楽しめたし、弁天堂ガチ勢のトシもこの通り。「時流をちゃんと押さえてるところもさすが弁天堂だ」と去年そう言っていた。本当にそういう傾向に対して肯定的なのかはいまいちはかりかねるけれど。トシには案外そういうところがある。好きなものに心酔して盲目的になってしまう、感情に素直で熱いところが。
去年泣いたところでも泣いたトシは、泣き通しの真っ赤な目でエンドロールを見届け、番組が終わってもしばらくまじないを唱えるみたいにぶつぶつと鼻声で褒めちぎっていた。涙を拭っていたワイシャツの袖は左右ともずぶ濡れで肌にぺったりくっついている。
「シャワーしてくるね」
「ああ、俺はもう少し余韻に浸ってる」
余韻のムード作りのため、立ちあがりざまにテレビを消してあげた。
バスルームに入る前にちらと振り返る。右手で両目を覆いうなだれている姿は、それがマリオで号泣したアラサーだとしても、なんとなく絵になった。欲目だろうか。
お風呂あがりにスマホを眺めていると、トシもシャワーを終えて出てきた。上半身は何も身につけず、首からタオルをかけてうろうろしている。お風呂あがりのトシはいつもこの格好で、肩甲骨の下のところ、同じ場所に少しばかり水滴が残っている。手が届きづらいのか何なのか、こういうのも癖と言うのだろうか。
「ヨッシーが出なかったことだけが心残りだ」
まだマリオの話をしている。ちなみに去年も言っていた。
「次出るじゃん」
ヨッシーは本編に出なかった代わりに、エンドロール後に意味深な卵が映っていた。
トシはタオルで耳の裏を拭きながらベッドに座り、仰向けに倒れこんだ。自分の肩甲骨がこうやって乾かされることをトシは知らない。私はデスクチェアに座ったままその様子を眺め、またスマホに目を戻す。
「続編、初日に行くぞ」
「再来年だっけ? たぶん平日だよ。去年も確かそうだったし」
「有給取りゃいいだろ。次も四月っつってたから、前と同じでゴールデンウィーク直前の金曜じゃねえか」
「だといいねえ」
熱量の違いに拗ねている気配を感じたけれど、私は顔を上げなかった。
強引な物言いは、偉そうな男というよりも、ハイになって周りが見えなくなった子どもみたいだった。そして子どもが家族に対してそうであるように、何の疑いもなく一年半後も一緒にいてくれるつもりらしい。
トシが起きあがり部屋を出た。ドライヤーの音が聞こえはじめ、私は画面をスクロールしていた指をふと止める。
未来のこと。それは、三十歳の近づいてきたこのところ避けられない話題になりつつある。そういう話題が増えるにつれ、自然と先のことを考える機会も増えた。そして、学生時代から足かけ七年付き合っている男と結婚の話の出ていないことに驚かれることも。
トシとはもちろんずっと一緒にいたい。けれど子どもだとかそういうことはまだ考えられないし、仕事を辞めて養われたいとも思っていない――トシもそれはしてくれないと思う――。一緒に暮らすだけなら今でもできることであるし、今の状態から変えたいことは特別何もない。だったら、わざわざ急いで話題に出す必要もないと思っている。
私がそんな風に構えていられるのは、トシもこの先ずっと一緒にいてくれるつもりだと感じられるからだ。少なくともトシは、口約束のないのをいいことに無責任にふるまうたちではない。楽観視しすぎているわけではないと思う。
髪を乾かしたトシが、上半身はいまだ何も身につけないまま、またベッドの上に戻ってきた。私はスマホをデスクに置き、トシの横に座って顔を覗きこんだ。
「二重に戻ってる。さっき奥二重になってたのに」
「お前がシャワーしてる間に保冷剤で冷やしてた」
「泣いたのはまだわかるけどね」
まだ赤い目に手を伸ばすとまぶたが閉じた。硬く多いまつげが、きれいに広がりながら目の際をすき間なく埋めている。柔らかい産毛の生えたまぶたを親指でそっとなぞり、そのまま目尻を延長するように指を滑らせると、ゆっくり目が開いてこちらをじっと見つめた。顔が近づいてくるのに合わせて首に腕をまわし、体重を預けられるままベッドに背をつける。
背骨をくすぐるように素肌を撫でながら、少し残念な気持ちになった。服を脱がせたかった。ちょっと冗長にも感じられるあの時間が、結構好きなのだ。こういうとき、能動的にあれこれするのは楽しい。ただ、トシは受け身になるのがあまり好みでないので、させてもらったことはあまりない。もっとも今は、工夫を凝らして刺激を求めるような時期もとっくに過ぎ、教科書があるなら一番最初に載っていそうなシンプルでスタンダードなことしかしなくなった。
七年一緒にいる男といまだこうしていられることにも驚かれることがある。七年一緒にいる男は結婚を考えるべきであるはずなのに、一方でそういう対象でなくなるなんて、ひどく矛盾していないだろうか。もちろんそれぞれ言った人間は別で、つまり、人によって見えている世界が全然違うということなのだけれど。
見上げた顔は、さっき号泣していたときとは別人だった。泣きはらした顔で持て余した苦しさに耐えるような表情は、思わず見入ってしまう。トシを引き寄せるように両手を伸ばして背中に手をまわし、肩甲骨の下のところにきゅっと爪を立てた。
(中略)
トシは大学の同級生だった。同じ学科の別のクラスでずっと顔しか知らず、初めて話したのは二年生も秋になった頃だった。図書館で目的の本に手が届かずにいたところ、声をかけてくれた。
「取ってやろうか?」
位置を伝えると、本を取りながらトシが言いづらそうに訊いてきた。
「なあ。この本、二、三日じゃ返さねえ、よな」
「え?」
「いや、実は俺もその本借りたくて」
「もしかして、後藤先生の授業のレポート用?」
「ああ。お前もそうなんだろ。だから、ちょっとこのあとコピーさせてくんねえか。すぐ返すから」
「うん。私今日はもうバイトで夜遅くまでだから、明日まで持ってていいよ」
「悪ィ、明日は学校来られねえんだ。明後日は? 明後日俺がコピーさせてもらうのは」
「明後日は終日別のキャンパスで、五限が終わったあとならこっち来られるんだけど」
「あー……俺四限のあとバイトだ」
そんな調子で一向にまとまらず、結局私が本を借り、バイトをしている間にトシがコピーをして、私のバイト終わりに届けてもらうことになった。
夜十二時過ぎ、トシは私のバイト先の前で自転車にまたがって待っていた。
「ごめんね、こんな時間に。ありがとう」
「こっちこそ」
本を手渡し、トシがあたりを見まわした。
「お前、歩きなのか?」
「うん」
「じゃあ家の近くまで送る」
「今からそこのラーメン食べにいくつもりだから大丈夫。ありがとう」
「ラーメン?」
トシは私の指さした店舗を見つめ、自分のお腹に手を当てた。
「なあ、俺も行っていいか? 見たら腹減ってきた」
(中略)
ラーメンを食べながら専攻の話をしたことをよく覚えている。レポートの参考文献に同じ本を選ぶくらいなので、私たちは興味の対象も近く、深夜のラーメン屋で少しアカデミックな話をして盛りあがった。とはいっても、まだゼミにも入っていない学生の取るに足らない内容だったし、そのときそれ以外にまだお互いの共通点がわからなかっただけのことなのだけれど、予復習的な事柄でない話を同級生としたのは初めてで、私は人生で何度とない出会いをしたような気分になった。
きっと、トシもそうだったのだろう。
「なあ、また水曜のバイト終わり一緒にラーメン食ってもいいか」
家まで送ってもらい、連絡先を交換した。土方十四郎と律儀にフルネームが表示されたアカウントは、ヘッダはデフォルトのままアイコンがかろうじて設定された、さっき登録したばかりのようなそっけなさだった。SNSをあまりやらないタイプの人だと思った。
じゃあな、とトシは自転車にまたがってから、そういえば、と振り返った。
「お前、何で自転車乗らねえんだ? 持ってねえの?」
「持ってるよ。でも夜の散歩気持ちいいから歩いてる。ラーメン食べたあとの運動にもなるし」
「そうか。でも、あんなら乗った方がいいんじゃねえか。遅えし」
「やっぱ危ないかな」
「用心してしすぎるってこともねえと思う」
「そっか。そうだね。ありがとう」
その日私はなかなか寝つけなかった。それは、単調になりつつあった日常が震わされたことによる昂揚のせいだったけれど、もしかすると、これから起こり得ることへの期待も、少しくらいはあったのかもしれない。
それから私たちは、水曜のバイトあがりに会うようになった。相変わらず話は合って、何度目かで帰り道から外れたファミレスなんかにも行くようになった。親の敵のように絞り出されるマヨネーズにも見慣れ、別れる時間は少しずつ延び、ふたりとも自転車に乗ってきているのにいつも押して歩いた。そうしているうち私は、会えない水曜はなんとなく気分が上がらず、学校では気付けばトシを目で追うようになっていた。
(中略)
そうして変わり映えのしないまま春休みに入り、三年生に上がる直前のこと。その日は雨が降っていて、どちらも自転車を置いてきていた。傘を差し、並んで歩きながら、自転車を挟まない距離感に落ちつかないでいると、ふいに手をとられた。驚いて見上げると、
「そういうつもり、なかったか?」
と言われた。私は小さく「ううん」と手を握りかえした。
家についたとき、手を離す名残惜しささえうまく処理できないまま後頭部をやさしく引き寄せられて、私は昂りをどうにもできなくなってしまった。
「家、寄ってかない?」
だから顔が離れた瞬間、我慢のならないみっともない女みたいにそんなことを口走ってしまった。トシの切れ長の目が一瞬にして丸くなって、私は死んでしまいたくなった。ただ、もう少し一緒にいたいだけだったのに。
取り繕う余裕もないまま愕然としている私に、
「じゃあ、喉渇いたから、何か飲ませてくれ」
トシはそう言って、出したお茶を飲んで本当にすぐに帰っていった。その間何を話したか、あるいはろくに何も話せなかったのか、ほとんど何も覚えていない。
あの日、雨にもかかわらずトシがわざわざご飯に誘ってきたことを私はしばらく疑問に思っていたけれど、むしろ雨だったからだとあとになって気が付いた。私が夜中に徒歩で帰らないといけなかったから、トシはわざわざ出てきたのだ。
(中略)
※とある出来事によりすれ違う土方と夢主。そんなとき土方が転勤することに。ひとりでごちゃごちゃ悩んで夢主に話すことを先延ばしにする土方だが…。
駅前のカフェチェーン店は混雑していた。引き出物を持ってぞろぞろと入るには狭く、二次会までカラオケで時間を潰すことにした。案内された部屋は、三人ともがソファで寝転がることもできそうなほど広かった。
「赤くなってら」
早速履き慣れない革靴を脱ぎ捨てた沖田が、靴下をめくってかかとの具合を確認する。
「近藤さん、土方さん、どっちか絆創膏持ってやせんか」
「持ってねえや、悪い」
「俺も。だから履き慣らしとけっつったんだ」
「二次会って、ずっと座ってられるもんですか?」
「内容次第だからなんとも。でも大抵ゲームしたりするし、少なくとも披露宴のときよりは立ったり動いたりすんじゃねえか」
「げえ。ちょっと耐えらんねえや。土方さん、絆創膏買ってきてくだせえ」
「あ? 自分で行け」
「足が痛えんですってば。話聞いてやした?」
「てめえ、それが人にものを頼む態度か!」
土方が立ちあがって拳を振りかぶっても、沖田は動じずまんまるな目を少し細め、ただ土方を見上げるだけだ。若さに似合わぬ飄々とした態度は憎たらしいことこのうえないのに、結局買いにいってやるのだから自分は沖田に甘い。土方は部屋を出た途端、ため息が漏れた。
沖田は土方より九つも歳下ながら、近藤家の剣道教室では土方の先輩にあたる。生徒の少ない頃は近藤につきっきりで構ってもらえていたのが、土方がきっかけで生徒が増えてしまい、それをいまだに恨んでいる。
部屋に戻ると、近藤が長渕の乾杯を熱唱していた。その後ろで澄まし顔の沖田がタンバリンを鳴らしている。バラードに妙にうまく中和させていて、その器用さがまた土方には小憎たらしかった。沖田は何をやらせてもそつなくこなす。
土方が絆創膏の箱を投げて渡してやると、沖田は礼を言って早速中身を取り出した。
「えらく古い歌選んだな、近藤さん」
「古い曲の方が歌いやすいんだそうで」
かかとの赤みが隠されていく様子を眺めていると、ふいに歌声が詰まった。近藤が泣きだした。
「またかよ」
「さっきも新郎新婦のご両親より先に泣いてやしたからねえ」
今日式を挙げた新郎は、同じく剣道教室の生徒だった。教室の仲間内では初めての結婚であり、幸せそうな姿が胸にくるのはふたりにもわからないではなかったが。
「誰かの結婚式のたびにこの調子じゃ大変ですぜ」
「お前のときなんて、どうなることやら」
土方が何気なく言ったことに、沖田がただでさえまんまるな目をさらにまあるくさせた。何だよ、と土方が言うより先に、近藤がふたりの間にどしんと腰かけた。いつの間にか曲が終わっていた。
「総悟の結婚式かあ。考えただけでもう、ちょっと泣けてくるな」
鼻声になる近藤を沖田が呆れたように見やる。
「どんだけ先の話してんですかィ。俺は結婚なんか想像もできやせんし、そもそも興味もありやせん」
「そりゃ今はまだそうだろうよ」
近藤ががははと笑ってドリンクを飲んだ。それでふたりも思い出したようにそれぞれのグラスを手に取った。
「つーか、俺よりもよっぽど結婚に近い人がいるでしょう」
ストローをくわえながら、沖田が今度は土方を見やる。
「先週別れの危機に瀕したそうですが」
「別に瀕してねえよ」
近藤が不安げに土方の顔を覗きこむ。
「なあ、本当に大丈夫だったんだよな……?」
「だから大丈夫だって。別に喧嘩になったわけでもねえし。何回言やいいんだ」
彼女と三人で会った翌日にはメッセージで、今朝は顔を合わせるや否や同じ話をした。
「だって七年も付き合ってんのに、それに亀裂を入れたとなりゃ……腹でも切らんと償えねえよ」
「何ばかなこと言ってんだ。もしそれで別れんならそれまでだっただけのことだ」
「そんな寂しいこと言うなよ」
(中略)
「ま、彼女さんと何事もなくて安心した。その感じだと転勤の話もうまくまとまったんだよな?」
「いや。転勤のことはまだ話してねえ」
「ええ⁉」
近藤がまたあの呆れた顔をするので、土方は少しひるんだ。
「こ、こないだあんな空気になって、タイミング逃したんだよ」
「むしろあのあとだから、早く言った方がいいんじゃねえのか? あれから三週間くらい経ってんだろ?」
近藤が指折り数える。転勤を言い渡され近藤と彼女と三人で会った月曜日から、今日で三度目の土曜日になる。
「近いうちに言うつもりだ」
「そんな悠長な……」
沖田が近藤の向こうからひょこっと顔を覗かせた。
「転勤、彼女さん連れてくんで?」
「いや。そのつもりはねえ」
「何でィ、潔く結婚して連れてっちまえばいいのに」
「んなことできるか」
「甲斐性なし」
「あのなあ」
「まあまあ、ふたりとも」
両側からじりじり詰め寄ってくるふたりを近藤が両手で押し離す。
そのときふいに、ずっと流れていた広告映像の音が大きくなり、三人ともはっと顔を上げた。若いバンドのトークから新曲ミュージックビデオに切り替わったらしかった。土方は急に気が抜けて、ばかばかしくなった。全員で寝転がれそうなほど広い部屋で男三人、わざわざ寄り集まって女の話なんて。
「煙草吸ってくる」
土方が出ていくのを見送り、近藤が呟くように言った。
「総悟、彼女さんにも彼女さんの生活があるから」
「わかってやすよ。土方さんが彼女さんのキャリア気にしてんだろうってのも、土方さん自身右も左もわかんねえ場所に行くだけで大変なんだろうってのも」
「そこまでわかってんなら」
「気に食わねえんでさァ。昔の話してなかったことだけでも呆れてものも言えねえってのに。だって転勤の話、今のところ土方さんがひとりでどうするか考えてるだけで、彼女さんの意見は何ひとつ確認してねえんでしょう? たとえ彼女さんのことを慮ってのことだとしても、全部土方さんのひとり相撲じゃねえですか。そんなのフェアじゃねえや」
「フェア、かあ……そうだなあ、総悟の言う通りなのかもなあ」
「ま、土方さんが結婚しようが別れようが俺ァどうだっていいんですがね」
近藤がどっかりとソファに深くもたれかかる。
「お前たちは思慮深いというか何というか。俺はトシの話聞いてお前みたいにフェアだとかそんなこと考えもしなかったし、もし俺に彼女がいて転勤になったら、トシみたいにあれこれ考えずプロポーズしちまうだろうなあ」
黄ばんだり黒ずんだりしている天井を仰ぐ近藤に、沖田は珍しくにこりと笑った。
「近藤さんはね、そうでなくっちゃ」
(中略)
※共通の知人から土方の転勤の話を聞いてしまう夢主。ただでさえすれ違って不安になる中、言葉の少ない土方が自分から話してくれるのを待つが…
まいった。
大事な話を人づてに知ることが続いたのもそうであるし、何より、それから二週間、本人から何も聞かされないことに、日ごとに消耗していた。私が友人づてに話を聞いてから二週間だ。転勤が決まってからはどれくらい経っているのだろう。
連絡してきた友人は、トシの会社の同期である彼氏から転勤の話を聞いたと言っていた。詳しく聞けば、根も葉もない噂というわけでもないらしかった。
さっさと話をすれば済むのはわかっている。けれど、トシから話をしてほしかった。つつかれたからではなく、能動的に。だってトシの転勤は私にも関わることなのだから。
そうして、話をされるとしたら休日だろうと待ち構えること三度目の土曜日。トシは今日結婚式に呼ばれているので、今週はないものと思っていたら。
『今から行く』
ひと目見ただけで、かなり飲んだことがわかった。顔は赤いし酒臭い。目は少しとろんとしていて、あきらかな酔っ払いだ。この状態で大事な話をする気だろうか。
「悪いな、遅くに」
「いいけど、急にどうしたの?」
靴を脱ぐトシのつむじを見つめながら尋ねる。
「会いたくなったから」
「え?」
言葉に詰まったのは、嬉しいよりも、一体どうしてしまったのかという戸惑いだった。
固まっている間に、靴を脱いで上がってきたトシに抱きすくめられた。トシの胸からはいつもの匂いに混じって嗅ぎ慣れないスーツの匂いがした。つむじのあたりにそっとくちびるが押しつけられる。そのあと髪をかきあげられて額に、そしてくちびるにも。顔を離したトシは私の目を一瞬じっと覗きこみ、首元に顔を埋めた。
「ちょっと待って」
「何だ?」
聞く耳を持った声色に反して動きを止めるそぶりはなく、首元でわざとくちびるの音を立てながらシャツの裾に手を滑りこませようとする。
「トシ」
手を掴むとおとなしく従ってくれた。顔が上がり、やっと目が合う。
「急にどうしたの? 本当に」
「だから、会いたくなって」
「……」
トシは掴まれていない方の手をそっと私の頬に添えた。
「そんなにおかしいか、俺が急に会いにきたら」
おかしい。だって、こんなことをする前に話さないといけないことがあるんじゃないの? 私は話してくれるのをずっと待っていた。この間のことがあった直後だから不安で仕方がなくて、なのにこんな酔っ払った状態でやってきて。
私は怒っている。はずなのに、こんな風にまっすぐ顔を見つめ合っているだけで、怒りは簡単に瓦解していってしまう。会いたくなったなんて甘ったるいこと、普段は口が裂けても言わない。こんな風に求めてくることももうしばらくなかった。
だから、このところ不安に押しつぶされそうだった心があっけなく揺らいでしまった。
トシの顔が近づいてくる。
「だめか?」
くちびるが触れるか触れないかの距離で囁かれる。だめだと言えば、トシはちゃんと引きさがる。
私は掴んでいたトシの手首を離した。
(中略)
トシは引き出物をすべて確認すると、立ちあがって着替えた。その間も背中はちりちりと焦れ、トシが帰り支度をするのをどことなく浮き足立った心もちで見つめた。
「急に悪かったな」
「ううん」
ついに玄関に向かおうとするので、焦りが苛立ちに変わった。それでも縋るような期待を捨てきれずに背中を見送ろうとして、けれどやっぱり、トシが靴を履くのを見ながら我慢ならなくなった。
「ねえ」
「ん?」
「転勤するって聞いたんだけど、本当?」
きゅ、と靴紐を結んだトシの手が止まった。はっと小さく息を呑む気配がして、途端、背中がぞわりとした。
「……誰から聞いた?」
「いっちゃん。大学の同じゼミだった」
「何であいつが」
「いっちゃんの彼氏、トシの同期なんでしょ?」
ああ、と観念したような声を出したきり、トシは考えこむように黙りこんだ。
怒りは、もっと勢いよく全身に熱が駆けあがるものかと思っていた。実際はもっと重く腹の奥からじわじわ湧いてきて、どろっとしていた。
「いつから決まってたの?」
「三週間前、くらい」
「……何でもっと早く言ってくれなかったの」
「どう切り出そうか考えてた。悪ィ」
「昨日、言いにきてくれたんだと思ってた……うちに何しにきたの?」
「それは昨日言った通りで」
「会いたくなって、それで、私が止めようとしたのも強引に押しきってまでやることやって、何も言わないで帰ろうとしてるの?」
ものは言いようだ。会いたくなったなんて、酔っ払って人肌恋しくなっただけじゃないか。本当にやるべきことはあとまわしにして。この間のことがあったばかりなのに。昨日の今日でこんなことをする神経がわからなくて、そんな男だと思っていなかった分だけ混乱した。
会いたくなったという甘い言葉も、少し強引に求めてきた態度も、昨日はそれで怒りを鎮められたのに、今は怒りの火種になるばかりだった。
「そんなつもりじゃ……」
立ちあがったトシが反論しかけて、いや、と言いなおす。
「お前から見りゃその通りだな。悪かった」
お前から見たら。見方を変えれば正当性のあるような物言いが癪に障った。
けれどわかっている。今は些細なことでも引っかかるのだと。だからそんな言葉尻を捉えてこだわる意味のないことも。なのに、湧いてくる苛立ちを鎮める方法がわからない。まだかろうじて冷静さの残る頭がやめておけと言うのに、腹の熱に抑えがきかない。
「私のこと、どうでもいいんだね。でなきゃ、ばかにしてる」
「んなわけねえだろ」
「だっていっちゃんが言ってくれてなかったら、近藤さんが言ってくれてなかったら、私いまだに知らないままだったんでしょ?」
「それは……」
「七年も一緒にいた人の大事な話を他人から聞かされるって、結構むなしいんだよ」
「それは、本当に悪かった」
「お家の話はまだしも、転勤の話は少なからず私にも関わってくることなのに」
「わかってる。だからどう話すか悩んで二の足踏んじまって……けど別にお前を蔑ろにしてるとか、誓ってそういうんじゃ」
「でも、性欲に負ける程度のことなんだよね」
あえて挑発的な言葉を使うと、トシが眉をしかめた。こんな子どもじみた方法で一方的に責めたって何も解決はしない。でも、じゃあ、この、寂しさなのか、むなしさなのか、悔しさなのか、言いようのない感情はどうしたらいい?
「言葉もないのにそんな風に扱われたら、私信じられるものないよ。今まで大事にしてくれてると思ってたのに、それも全部勘違いだったのかって、私のこととか私のこれからとか、そんなことより目の前の欲求の方がトシにとっては大事なんだって、正直思っちゃう。ていうか、実際そうなんでしょ」
ひと息に言いきる間、トシは身じろぎせず私を見下ろしていた。
しんと静まりかえった部屋が、硬くて冷たい。
途方に暮れそうなほど長く感じた沈黙のあとで、トシが小さく息をつき、
「お前がそう思うんなら、そうなのかもな」
ひどく投げやりに言った。
「そんで、その大事な話を知っときながら結局俺と寝ること優先したお前にとっても、その程度のことだったんじゃねえの」
「は……」
「帰る」
何を言われているのか理解できず呆然としている間に、トシは目を合わせないまま出ていってしまった。