※サンプルはWeb用の改行をしております。
ふと会話が途切れ、視線を上げる。瞳の奥に漂うものを認めて目を閉じると、すぐにくちびるが重なった。最初はとりあえず優しく触れ合わせるだけ、という決まった型をなぞるように離れたくちびるは、今度はわずかに開いた状態で私のくちびるに、挟むともついばむとも吸うともつかない、そういうやり方で甘く触れてくる。私もお返しみたいに同じようにして触れているうち、だんだん遠慮を失い大胆になり、脳がぼんやりしてくる。
せわしない呼吸に急かされるように、私の頬に触れていたはずの手はいつの間にか後頭部にまわりこんで、まるで自立できない生き物を支えるようにぐっと力を込める。
中に入ってきた舌に対してどうするのが正解なのかはいまだによくわからない。激しく動かすのは違う気がして、ゆっくり舌を触れ合わせるようにしている。
そうしているとみぞおちよりもずっと奥の方がうずうずしだすので、寄せ合っていた身体をさらに密着させた。
すると。ぱっと顔が離れ、抱きしめられた。ベッド脇の床に座ったまま、ぎゅう、と。
大きく上下する胸のなかで、またか、と思った。こういうとき、いつも自分だけが突き放されて置いていかれたような気持ちになる。
胸の動きが落ちついてきた頃、ゆっくりと身体が離された。
「そろそろ帰るわ」
目を伏せたままの顔を少しの間見つめ、うん、と答えると、トシはそそくさと鞄を手にして立ちあがる。頷くまでに置いた間の意味を、わかっていないわけではないはずだ。
廊下を渡って靴を履くその間はうっすらと無言だった。
「じゃあまた明日」
「気をつけてね」
トシは別れ際、いつも小さく笑って胸元くらいの高さに手を上げる。それが可愛くて、少し寂しいこの瞬間も悪くはないと思っていたのに、最近それどころではない。
どうしようもない余韻を持て余し、私は小さくため息をついた。
お昼休みはたまにZ組の女子たちと家庭科室でご飯を食べる。家庭科部のお妙ちゃんが融通を利かせてくれるのだ。広くて清潔で、何より密室なのがいい。特別なことをするわけでなくとも、自分たちの秘密基地みたいな、そういう開放感と昂揚感。ちょっとご機嫌なランチタイム。
それが、私の放った一言によって水を打ったように静まりかえった。神楽ちゃんがお弁当箱をつつく音だけが響く。
「ちょ、ちょっと、急にどうしたの」
同じテーブルに座っていた妙ちゃんの顔がみるみる赤くなっていく。その横の九ちゃんは、それよりさらに赤い顔でお箸を握ったまま固まってしまった。神楽ちゃんは私の横でお弁当に夢中。
「何何、詳しく」
隣のテーブルからハム子ちゃんが文字通り突っこんできた。それにふっ飛ばされそうになった妙ちゃんの弁当を、硬直の解けた九ちゃんが目にも留まらぬ速さで守る。他の子はなりゆきを見守っているものの、家庭科室内はあきらかに浮き立った。
どうしたらえっちしてくれるかな。さっき、ため息をつくような何気なさで呟いたのだ。もしこれが「今度の中間テスト自信ないなあ」だったら見向きもされなかったはずで、皆こういう話は、大っぴらにしないだけで興味があるのだ。
「ていうか、まだしてなかったんだ?」
頷くと、ハム子ちゃんはうっそおと大袈裟なくらい驚いた。
「あんたたちいつから付き合ってたんだっけ?」
「二年の初め」
「もう一年半経ってんじゃん! 夏休み二回も過ごして何もないわけ?」
「そうなんだよねえ」
知らねえ間に他の奴に取られたくなかった。クラスが離れてしまった二年生の初日、そういう理由でトシに告白された。春休み前に言わなかったのは、もしふられて二年も同じクラスになったら気まずいと思ったからだそうで、三年のことが頭から抜け落ちている詰めの甘さは今から思えばかなりトシらしい気がするけれど、当時はそんなことより自分に向けられた情熱にばかみたいにただ胸を躍らせた。
そのちょっとした独占欲だけで充分だと思っていたはずなのに。
「本人に言ってないの? したいって」
「言ったことあるよ」
「何て?」
「高校の間はしないって」
「何で? え、もしかして、大事にしたいから的な?」
頷くと、わあ、と温かいため息のような感嘆があちこちからあがった。自称経験豊富なハム子ちゃんは茶化してくるかと思ったけれど、「ふーん、何かあいつのことちょっと見直しちゃったんだけど」なんて髪をいじりながら照れている。
「あいつ、荒いしうざいとこもあるけど、根は真面目アルからな」
口の中ぱんぱんにおかずを詰めた神楽ちゃんが食べる手を止めずに言うと、確かにねと皆も賛同した。
その様子を見ていると、大事にしたいからと言われたときのことが当時の温度のまま私のなかに蘇ってきた。あのときは私も皆と同じように素直に感激し、手放しでその喜びをまるまる受けとめた。
その無垢な幸せが、今の私を責めているような気がした。
「優しいのは結構だけど、でもそれじゃつまんないわよねえ」
一瞬芽生えた罪悪感は、けれどさっちゃんの声がかき消した。さっきまで座っていたはずなのに、なぜか天井のダクトから上半身を覗かせている。
「さっちゃんならどうする?」
「そんなの、男なんて胸でも触らせりゃあとは勝手に進むわよ。いい年してたってそうなんだから思春期となれば一発でしょ」
なるほど。私が天啓を得たような気持ちになっていると、
「でもさっちゃん、隙あらば先生に密着してるのに見向きもされてないアル」
神楽ちゃんが火の玉ストレートを放った。
「教師と生徒、一筋縄でいかない恋愛だから燃えるんじゃない!」
さっちゃんが鼻息荒くテーブルに着地し、その奥から阿音ちゃんが身を乗り出した。
「胸触らせるのはアリだと思う。不意打ちで手掴んで胸まで持ってきゃいいのよ」
その耳元で百音ちゃんが狂ったリコーダーの音色を奏でる。
「クラスメイト同士のそういうの、聞きたくないんだけど」
「それはごめん」
それでも阿音ちゃんのその発言をきっかけに、やってみなよ、とそわそわした空気が生まれ、それが最高潮に達しかけたとき「でも」とお妙ちゃんが流れを切った。
「大事にしたいって言ってくれてるのに、そんなやり方するのはズルっていうか、土方くんの誠意に対する裏切りになっちゃわないかしら」
「裏切り……」
思いのほか強い言葉にひるんでしまった。裏切りって、浮気をしたとかそういうときに使う言葉だと思っていた。胸を触らせることがそんなことと同列になり得るのか。
空気は一転、考えなしに浮かれていたことを皆が反省しかけたとき、
「とはいえそれじゃ物足りないから悩んでんでしょ。相変わらずつまんない女ね」
さっきの火の玉でまだ絶賛炎上中のさっちゃんがつっかかった。妙ちゃんは満面の笑みで応じる。
「面白くたって誰かさんみたいに好きな人に相手にされないくらいならつまらなくて結構よ。まあそもそも誰かさんは別に面白くもないけど」
「何ですって!」
さっちゃんが机をグーで叩いたのを皮切りに、戦いの火蓋が切って落とされた。いつの間にかお弁当を食べ終わっていた神楽ちゃんが椅子の上に立ち、片足を机に乗せて腕を振り上げる。
「ひがぁーしぃー、妙ぇの海ぃぃー、にぃーしぃぃー、猿ぅの山ぁー」
「神楽ちゃん、私、東西より赤青コーナーの方がいいわ」
「ていうか猿から取らないでくれる⁉」
あっという間に私の話は忘れ去られた。
胸を触らせる、かあ。
触ってと誘って素直に乗ってくれるとは思えない。となると、阿音ちゃんの言っていたように強引に触らせることになるけれど。
〈裏切り〉という言葉が頭をよぎる。これまでトシと過ごしたやわらかく優しい時間、それを足蹴にするようなことなのかもしれないと思うと、さすがにためらわれる。
「あの……」
じっとお弁当を見つめていた私に、九ちゃんがおそるおそる声をかけてきた。
「出過ぎたことを言うようだが……そ、そういうのは、どうしてもしないといけないことなんだろうか」
「どう、なんだろうね」
「僕には、君たちは今のままですごく幸せそうに見える。それは彼のそういう優しさがあってのことでもあるんじゃないかと思うんだ」
「……うん。そうだよね。ありがとう」
九ちゃんは照れくさそうに笑った。
教室に戻りながら、私は少しだけ冷静になった。
告白されたときも、大事にしたいと言われたときも、こんなに幸せなことはないと思った。心の宝箱にしまって、いつまでもそのままの形で残しておきたいと確かに思った。
それは九ちゃんの言う通り、トシの誠実さや優しさであるはずなのに。
◇
土方が風紀委員の教室に入ると、先に座っていた沖田が意味ありげな視線を向けてきた。無視して席についてもまだこちらを見ている。穴が開くほど見つめてくる。
土方はすぐに痺れを切らせた。
「何なんだよ! 言いてえことがあんなら言えよ!」
「土方さんってまだ童貞だったんですね」
「なっ――」
間髪入れない攻撃をまともに喰らって、土方は二の句が継げなかった。沖田の言動はいつだって突拍子がないが、それにしたってあんまりだ。それぞれ雑談をしていた他の委員たちが童貞の一言に敏感に反応して一斉にこちらに注目した。これが「土方さんって寺門通推しなんですね」だったら誰ひとり興味を持たなかっただろうに。いや、それはそれである程度の反応はあったかもしれないが。
「え、そうなのトシ⁉ まじで⁉」
土方が適当にはぐらかすより早く近藤が大声をあげてしまった。
「……だったら何なんだよ」
「だってもう付き合って長いからてっきり。いやーそうか。なんだか勇気の出る話だな」
「何だそりゃ。つーか、何で急にそんな話……」
「今日の昼、女子たちがそんな話をしてたもんで」
沖田があっけらかんと答えると、近藤は顔の影を深めた。
「総悟お前、昼休みいないと思ってたら女子と弁当食ってたの?」
「まさか。家庭科準備室にいたら女子たちが家庭科室に入ってきちまって、出るに出られず会話も丸聞こえだっただけでさァ」
「家庭科準備室で何してたの?」
「まあちょっと」
そう言いながら、沖田はまた意味深な視線を土方に向けた。
「俺への嫌がらせの準備だな⁉ そうなんだな⁉」
「まあそれはさておき。そのときに土方さんが手出してくれねえってぼやいてやしたぜ」
とんでもないことがさておかれたが、しかし、土方にとっては後半の方がよっぽどとんでもなかった。
女同士のことだから、なれそめだの告白はどっちだの、土方たちについて多少のことは共有されているだろうと思ってはいたが、まさかそんな明け透けなことまでとは。
「それって、向こうはオッケーなのにトシの意思でしてねえってこと⁉」
たちまち教室がざわつきだし、奇妙な生き物でも見るような視線があちこちから飛んでくる。土方は黙ってむすっとしたまま、それらから逃れるように目を逸らす。
「何で……?」
怪奇現象に直面したような顔をする近藤が、いつかの彼女とだぶって見えた。男ならしたくてたまらないはずなのに。それを女から誘っているのに。どうして。そういう疑問を内包した瞳。
彼女には、はぐらかしたりごまかしたりすることではないのできちんと理由を伝えた。あまりに照れくさくて目を見て言うことはできなかったが。
それを、今の、茶化されることうけあいなこの場で言えるわけがない。
土方が答えずにいると、「んなの決まってんでしょう」と沖田が言った。
「EDなんですよね、土方さんは」
「ふざけんな! 正常だわ!」
全力で否定するが、しかし今のところ一番納得のできる理由だったらしく皆半信半疑の様子だ。このままでは沽券に関わるので、もう正直に言ってしまうほかなかった。土方は舌打ちの代わりに咳払いをした。
「まあ、あれだ。何かあって責任も取れねえしな」
こういう場合の定番で一番わかりやすい理由だろうに、今度は「じゃあ副委員長」と今までいたことにも気付かなかった山崎が入ってきた。
「社会人になるまでしないつもりなんですか?」
「それは――」
言葉に詰まったその一瞬、山崎の目がきらりと光った。弁護人の隙をつく敏腕検事のように切りこんでくる。
「責任ったって、一度でもヤったら結婚なんて考えてるわけじゃないんでしょ? だったら避妊すればいいじゃないですか」
「でもあれだって別に百パーってわけじゃねえだろ」
「コンドームの成功率って八十五パーくらいなんでしたっけ? ポケモンでいうだいもんじの命中率って考えるとちょっと心許ねえですよねィ」
沖田が言うのに「あれ割と外れるもんなあ」と近藤が乗り、山崎が苦笑して続けた。
「あの数字は間違った使い方した人のデータも入ってますから。正しく使えばほぼ百パーセントらしいですよ」
使う機会もないくせ偉そうに、と土方が呆れるかたわら、委員の面々は「へえー」と感心したあとまた土方に注目した。これで逃げ道はなくなった、どうする? 無数の目がそう言っている。
土方はたまらず叫んだ。
「もういいっつーのこの話は! 終わりだ! さっさと委員会始めるぞ!」
ええー、と不満そうにする委員たちをひと睨みする。さっと視線が外れていくなか、沖田だけがまだ何か言いたげにこちらを見ていた。
「だから何だよ!」
「他にもまだ女子たちが話してたことがあったんですがねィ」
「しつけーな、もういいっつってんだろ!」
「へーい」
正直なところ、彼女が何を話していたのかは気になる。どんな風に会話がなされ、何がどこまでクラスの女子たちに知られているのか。しかし今ここで聞けば藪蛇になるに違いなく、これ以上はもう触れないのが無難と諦めた。
しかし、それにしても。
土方は小さな、誰にも気付かれないほど小さなため息をついた。
高校卒業までそういうのはなしだと告げたとき、彼女は渋々という風でもなく納得してくれたように見えたのに。裏でクラスの女子に愚痴るくらいには不満だったのか。
◇
最近、会うのはもっぱらうちの家になった。受験に向けて勉強するという建前で、前日までに伝えておけばいつでも滞在オッケーと、トシのことを気に入った共働きの親にお墨付きをもらっているからだ。
その経緯を思えば、強引に胸を触らせることは親の信頼をも裏切ることになってしまう。あの日のお昼から一週間。私はだいぶ冷静になっていた。
「お邪魔しまーす」
親がいないとわかっていてもトシは毎回挨拶をして家に入る。勝手知ったる私の部屋で、トシはベッド際に鞄を置いてローテーブル前の座椅子に座り、早速クーラーの電源を入れた。その間に私は麦茶ポットとコップを、トシが来るからと母親が買っておいてくれたお菓子と一緒にローテーブルの上に置く。
「松平先生ってさ、やっぱ阿音ちゃんびいきだよね」
向かいに座りながら振った雑談に、トシは間を置いた。硬直したような反応は、返事を考えているとか思いがけない話に驚いたというよりも聞いていなかった風で、それから一瞬遅れてようやく私が返事を待っていることに気付いたようだった。
「え? 誰の姉貴が何だって?」
「阿音ちゃんだよ、阿音ちゃん」
「え、あ……ああ、あいつか。そ、そうだな」
あきらかによそよそしい挙動で、そそくさと問題集に向かった。
おかしい。
今日のトシは、帰り道からずっとこんな調子だった。妙に上の空で、向こうから話題を振ってくることもなければ、私の話も聞いているのかいないのか。部屋に入ったら入ったでさっさと問題集とノートを取り出してしまう始末。いつもはしばらくお菓子を食べながらお喋りをして、結局ほとんど勉強なんてしないまま帰ることもあるくらいなのに。
お茶を飲んで、私も仕方なく勉強を始めた。
けれど、まともな勉強の習慣をつけてこなかったせいで三十分でギブアップした。早速休憩に入りコップにお茶を注ごうと手を伸ばし、あることに気付く。
「トシ、お茶飲んでないじゃん」
「え」
お茶が少しも減っていない。今日はクーラーをつけるほど暑いのに。
「そ、そういやそうだな。どうりで喉乾いたと思った」
トシは汗をかききったコップを握り、お茶をひと息に飲みきった。
やっぱりおかしい。言い方があまりに白々しいのもそうだし、それに。
「問題集、全然進んでなくない?」
ノートには何やら書いてあるものの、問題集は最初に開いたページと同じままなのだ。
「ずっと考えてたの?」
「ま、まあ……」
「どんな問題?」
「えっ、いや大丈夫――」
身を乗り出して問題集を覗きこみ、それが決定打になった。基礎的な計算問題が並んでいるだけで、いくらなんでもこれを三十分もわからず悩んでいたわけがない。
顔を上げ眉をひそめる。目が合うなりすぐに逸らされてしまった。
「ねえ、今日どうしたの?」
「ど、どうって?」
逸らした目線の先にまわり込んでじいっと顔を覗きこめば、トシは顔ごと私から逸らしてしまう。さらに顔を寄せ距離を詰めると、今度は後ずさっていく。
「別に何もねえから」
いつもと違うのはあきらかなのに、トシは頑なに認めようとしない。
わかりきった隠し事とその距離感が、私のなかに小さな焦燥を生んだ。
「ふうん、ならいいけど」
それが自分でも少し驚くような冷たい声として表れ、トシがはっとした。
「おい」
トシの呼びかけに反応せず、また向かいで淡々と勉強を再開した。トシはしばらく私を気にしていたものの、そのうちまた問題集に向かった。けれどやっぱり気まずさに耐えられなかったらしく、十分ほどして「なあ」と呼びかけてきた。
「何?」
顔を上げず冷ややかに答えると、少し怯んだ気配があった。
「悪かったって。機嫌直してくれ」
「別に何もないなら謝る必要ないでしょ」
私、今すごく嫌な奴だ。頭ではそう思うのに、この疎外感をうまくやり過ごす方法がわからない。
するとトシが小さなため息をついた。自分で突き放しておきながら、私は突き放されたように感じてぴくりと肩が震えた。
「今日は確かにずっと気が散ってた。お前の話もちゃんと聞いてやれてなくて悪かったよ。でも特に何かあったわけじゃなくてだな……そういう日っつーか……」
「……本当に?」
「ああ」
「そ、っか」
なんとなくまだ腑に落ちないところはあるものの、これ以上は決定打になりかねない。
「私もごめん。嫌な言い方した」
「いや、俺が悪かった」
うん、とお互い小さく呟いた。
トシがさっき空にしたコップにお茶を注ぐ。
とりあえずつんけんした空気は消えたものの、まだどこか気まずさが尾を引いている。
どうにかそれを早く払拭したくて私はまたトシの方に移動した。お茶を入れっぱなしにしたまま、トシは私が横に座って両手を広げるのを始終見つめていた。
「仲直り」
トシも多分同じことを思っていたのだろう。私がそう言ったのに少しほっとしたような顔をして「ん」と胸のなかに私を引き寄せた。苦しくも頼りなくもないちょうどいい力加減で身体が包まれる。
トシは男子らしい匂いがする。夏はたまに汗臭いけれど、それも嫌いじゃない。
目を閉じて胸にぴったり耳を寄せ心臓の音を聞いていると、トシの手がそっと私の頭をてっぺんからゆっくり撫でた。途端、さっきの意地悪な態度に対する後悔や申し訳なさと、それでも今こうしてくれているという愛おしさがいっぺんに押し寄せて、胸がいっぱいになる。
私を抱きしめる腕に一瞬ぐっと力が入り、トシは私の身体を自分から少し離した。私の顔にかかった前髪をよけ、くちびるを重ねる。
今日はもう勉強は終わりだろうな、と思った矢先、トシは触れただけのくちびるをすぐに離して、また私を胸のなかに閉じこめてしまった。
あれ?
苦しいくらいにぎゅうと抱きしめられ、これ以上くっつけないほど密着しているのに、何だろう、この妙な疎外感は。焦燥感は。やっぱりいつもと様子が違う気がする。外でもないのに触れるだけで終わってしまった。
じっとトシを見上げる。
「……何だよ」
「もう終わり?」
トシの眉がぴくりとわずかに動いた。そのほんの一瞬の、わずかにためらうような素振りに胸がざわめく。
いつものように私の身体を支えるようにしながら強くくちびるを押し当てられる。触れるだけなんて子どもだましみたいなものとは別もののキス。呼吸を止めているわけでもないのにすぐに息があがり、そしてそのうちだんだん頭がぼおっとして何も考えられなくなる。
この先もしたい。
そう思ったのは、突きあがってくる衝動に身を任せてみたいからというだけではなかった。安心したかったのだ。いつもと様子が違うことに対する不安を、いつもは許してくれない身体に触れるという行為で埋めてほしかった。
――男なんて胸でも触らせりゃあとは勝手に進むわよ
――土方くんの誠意に対する裏切りになっちゃわないかしら
あの日の会話が蘇る。
私は、トシの手をそっと握った。胸の近くに誘導するだけだ。無理に触らせるわけではない。触ってほしいと伝えて、その先どうするかの選択はあくまでトシに委ねる。それならいいはずだ。
「……トシ」
そうしてトシの手を胸の方に引き寄せようと力を入れた瞬間。
強く手を払われ、トシの身体が離れた。トシの顔を見て私ははっと息を呑んだ。ありありと浮かぶ不信感。裏切り、という妙ちゃんの声が頭のなかでこだまする。
「帰る」
「待って」
いつも私といるときには絶対に作らない大きな歩幅で、トシはあっという間に鞄を拾って部屋を出ていってしまった。私は小走りでついていき、靴を履く背中に呼びかける。
「さっきの、違うの」
「何も違わねえだろ」
取りつく島もない。靴を履き終えさっさと立ちあがってしまう。
「ねえ、トシ」
腕を掴むと払われた。まるで顔の周りをしつこく飛びまわる虫に対するような仕草で。
「ヤりてえだけなら他の男としろ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
ヤりたいだけ。他の男。
私の頭が言葉の意味を理解するのに時間をかけているうち、トシもさすがにまずいことを言ったと思ったらしい。ばつの悪い顔で口を引き結んだ。
少しの間無言で見つめ合う。
どちらも何も言わないまま、トシは玄関を出ていった。