※サンプルはWeb用の改行をしております。
1
ひと口分残った焼酎を二回に分けて飲み干した。店の入口を横目に見て、再び手元に視線を落とす。皿の上には裸になった串二本と、悪あがきのように残ったひと切れのねぎ。
今日はもう来ないかな。
冷めてへたってしまったねぎを口に放りこみ、汗をかいたお冷やも飲み干す。ごまかすものが何もなくなった。
会計を告げようとしたのと、ほぼ同時だった。
「おっ、いらっしゃい土方さん」
親父さんの声でみぞおちの奥が弾けた。入口の方を大袈裟にならないよう振り返る。あくまで反射的にそうしただけだというなにげなさを装って。
「よォ」
土方さんは当たり前のように私の隣へやってきて、煙草をくわえたまま器用に口を開いた。
「お疲れさま」
「あれ、お前もう帰んのか?」
私の前に並ぶ空の食器を見て土方さんが言うと、
「やだねえ、ずっと土方さんのこと待ってたんだよ」
私が答えるより早く、親父さんが割って入ってくる。なんて野暮なことを、と私が親父さんを恨めしく思う横で、土方さんはそう気に留める様子もなく「そりゃ悪かった」と椅子に腰かけ、注文をする。そして親父さんの背中を見送り、こちらを向いた。
「で?」
「え?」
「時間あんのか? あんなら一杯付き合えよ」
質問の体をしながら、断られないことをわかっている顔で酒瓶を私の方に傾けてくる。
「じゃあ、いただきます」
互いに猪口に注ぎ合って、乾杯する。
「帰ろうかもうちょっとゆっくりしようか、ちょうど考えてるとこだった」
口をつける前、透き通った酒を見つめながら言うと土方さんが小さく笑う気配がした。
「なら、急いだ甲斐があったな」
「え?」
「もう少し早く出るつもりが、直前に色々あってな」
「また沖田さん?」
「まあ、そんなとこだ」
土方さんお気に入りのこの焼酎は香りがしっかりしていて雑味がなく、あまり舌の肥えていない私でもそれなりのものとわかる――そして調べてみたらそれなりどころではなかった――代物だ。そんなものを、土方さんはいつも気前よく分けてくれる。それに対して、もらってばかりだからたまにはと私が奢ろうとしても、いつものらりくらり躱されてしまう。
今日も私がひとりで食べていた分まで払ってくれた。
「今日もごちそうさまでした」
「どういたしまして」
土方さんの到着も遅かったので、帰り道ではところどころ店じまいが始まっていた。酔っ払いたちが外に追い出されてなお、この夜を惜しむように通りのあちこちで固まって談笑するのを横目に帰路につく。
横を歩く、ほろ酔いの土方さんをこっそり盗み見る。
送っていこうかと訊かれなくなったのは、いつからだっただろう。
数ヵ月前、仕事帰りになんとなく入ったこの定食屋で、土方さんと出会った。
その日、店内の客はまばらで、カウンター席にはおじさんと、私と同年代くらいの男の人――土方さんだ――が並んで座っているだけだった。私はそこからいくつか間を空けたところに座り、注文を待つ間、ふたりの会話をラジオを聞き流すように聞いていた。
ふたりはその日出会ったばかりのようで、しばらくはおじさんの仕事や家庭の話をしていたが、ふいに「兄ちゃんは? 結婚とか」と土方さんに矛先が向いた。
「してねえよ」
「予定は?」
「考えたこともねえな。そもそも相手がいねえ」
「まったまたあ、嘘に決まってらあ」
おじさんが笑いながらのけぞり、指に挟んだ煙草を土方さんに向けたとき、正面からカウンター越しに「お待たせ」とどんぶりが差し出された。視界の端に小さく入ったそれを、私は思わず顔ごとそちらに向けて確認した。大きめのどんぶりからはみだすほど山盛りに盛られ、とぐろを巻く白いもの。しっかり見てもさっぱり何かわからなかった。さっきまでほとんど喋りっぱなしだったおじさんも言葉を失いそれを見つめている横で、当の本人はあっさりしたものだった。
「嘘じゃねえよ。皆これ見て逃げてく」
どんぶりをひょいと顔の前に掲げ、自虐的でも、かといって誇らしげでもなく、ただ淡々と事実を事実として伝えるように言うと、おじさんが眉を下げた。
「そんな男前なのにもったいねえ。なあ、姉ちゃんもそう思うだろ」
「えっ?」
ふたりの方を見すぎてしまっていた。おじさんが唐突に私に話を振り、それにつられて土方さんが振り返った。
ずっと後頭部しか見えなかったその顔は、おじさんのお世辞ではなく、本当に男前だった。筆をすっと流して描いたような切れ長の目に、高すぎず筋の通った鼻。煙草をくわえてわずかに開いたくちびるから覗く歯はきれいに揃い、薄い上くちびるに比べて少し肉感的な下くちびる。
鋭くて、色っぽい。
不躾に顔を凝視してしまった私に気を悪くする様子もなく、土方さんはすぐにおじさんの方に向きなおる。
「顔は関係ねえだろ」
そしてひどく真面目な声色でそう言うので、おじさんと私は一瞬ぽかんとしてしまい、それから遅れておかしさがこみあげ思わず吹きだした。
「なっ、何がおかしい」
もう一度振り向いた顔は、遠慮なく笑った見知らぬ私への戸惑い半分、そのつもりのない場面で笑われたばつの悪さが半分、といった感じで、さっきとまるで別人のように子どもっぽいその表情は、美しく整った顔に血を通わせた。
私が笑ったのは、男前だということを否定しなかったからだ。そういう態度は多少なりとも嫌味に感じそうなものなのに、土方さんにはそういう感じが一切なく、むしろなんだか可愛げさえあって、それがおかしかったのだ。
食事だけさっさと済ませて帰るつもりが、そのやりとりをきっかけにふたりに混ぜてもらい、いい時間になると、送ってもらいな、とおじさんに送り出された。
またなあ。おじさんの大きな声を背に外に出ると、途端、少し緊張してきた。陽気でお喋りなおじさんを挟んでこそ盛りあがっていたのが、ふたりきりになると急に静かになって落ちつかず、わずかばかりのよそよそしさのなか、こっちです、と私の指す方へ並んで歩きだす。
「この店、初めてか?」
「はい。たまたま通りかかって」
「どうりで。見ねえ顔だと思った」
「土方さんは常連さんみたいですね」
「まあな。客に合わせて品書きにねえもんも作ってくれるから重宝してんだ」
「ああ、さっき食べてらしたのもそうですよね。あれ、何だったんですか?」
さっき完食するのを隣で見ていたが、おじさんも私も怖くて何も訊けなかった。
「土方スペシャルだ」
「ひじ……え? 何ですか?」
「わかりやすく言やマヨネーズ丼だな」
わかりやすいようで、全然わからない。意味が。
「ご飯とマヨネーズ、だけ、ですか?」
「ああ。質素に思うかもしれねえが、それがいいんだ。本当にいいもんっつーのは飾りけがなくシンプルなもんだろ」
てっきりそんなわけねえだろと言われると思っていたら、会話が少し盛りあがってしまった。正気の沙汰ではない。
「スタンドもシンプルなやつほど強いっていいますしね」
意味がわからないなりに返したのに、何を言っているのだという顔をされた。正直自分でもそう思ったが、マヨネーズ丼を熱く語る人にそんな顔をされる筋合いはない。
そのあとも続くマヨ丼談義を聞いているうち、周囲の灯りが減り、住宅街に近付くと一気に静かになった。
ふいに、土方さんが立ち止まった。
「このまま家の前まで送って構わねえのか?」
「え?」
「会ったばっかの野郎に家の場所知られたくねえとか、ねえのか」
「あ……」
思わぬことを言われ、言葉が出なかった。だって、こんなのさっきまでマヨ丼で白熱していた人のする気遣いではない。
そんな気をまわしてくれる時点で安心できる人、と思うのは無防備すぎるだろうか。幸いなことに周囲の男性に恵まれていた私は、そういう警戒をしたことがなかった。
「ご迷惑でなければ、家の前までお願いします」
「わかった」
それ以来、土方さんとその定食屋でよく会うようになった。
町家の前で足を止める。その二階が、私の間借りして住んでいる家だ。昔和菓子屋だったという一階は今は空いていて、二階に上がるための少し見栄えの悪い階段が外側についている。元々中で繋がっていた一階と二階を賃貸向けに後から分けたため、取ってつけた感が否めない。
「今日は家上がってかない?」
「ああ、まだ仕事が残ってんだ」
「あ、さっき言ってた沖田さんの?」
「ああ。全部片付く前に出てきちまったから」
みぞおちの奥がまた跳ねる。さっきも言っていた。急いだ、と。
食事を楽しみたいなら仕事を終わらせてからの方がいいに決まっている。別日にゆっくり来たっていい。それをわざわざ中途半端に放って、急いで来たのは、どうして?
「お疲れさま。無理しないようにね」
せり上がってくる言葉を呑みこんだ。土方さんが「ああ」と小さく笑う。
階段を上がり、玄関に入る前に振り返って手を振ると、土方さんも小さく手を上げてくれる。玄関を閉めすぐに窓へ向かい、格子に隠れたり格子から出てきたりしながら遠ざかっていく土方さんの後姿が見送った。
定食屋で会うようになり、当たり前のように送ってもらうようになり、この頃は家に上がってお茶をしていくようにまでなった。本当にお茶を一杯、だらだら居座り続けることなく飲んで帰っていくだけではあるが。
その清廉さに心惹かれる一方で、同時に物足りなさも感じる。だって、何度も家でふたりきりになって、何もない。別に何も、すぐにでも抱かれたいだなんて思ってはいない。ただ、進展を予感させるような空気にすらならないのが寂しい。少し広めのふたり掛けソファに座るときはきっちり間が空けられているし、ふいに見つめ合ってはっとするようなこともない。昼間のカフェで休憩するような気安さで酔いを覚まして帰っていくだけなのだ。店からの帰り道だって、手を繋ぐことはおろか、並んで歩く私たちの間には常に他人行儀な距離が保たれている。
なのにさっきみたいなことを、私に会いに来たというようなことを、何でもないように言うからたちが悪い。
だから、そのたびうっかり舞いあがってしまいそうになりながら、私はいつもおまじないを唱えて冷静さを失わないようにしている。
私は土方さんの連絡先すら知らないのだ、と。
特に取り決めたわけでもないが、店に行く日はお互いなんとなく決まっている。その日に行けばおおむね会え、でも、約束をしたわけではないので必ず行く必要もない。
土方さんはきっと、その気楽さが気に入っているのだろう。飲み友達として私に好意があっても、連絡を取り合って約束をするほどの熱はないのだ。
カーテンを閉め、シャワーを浴びた。髪を乾かす頃には酔いは覚めて眠気が襲い、寝室のダブルベッドに倒れこむ。このだだっ広さにももう慣れた。
でも、今日みたいな日はシーツが無性に冷たく感じられる。
◇
副長監察日記 一
今日も副長は外で飲んで帰ってきた。元来酒は大勢で飲むよりひとりを好む人ではあるが、このところ頻度が目に見えて増えた。このところ、というのはちょうどミツバ殿が亡くなった直後くらいのことだ。だから気になってはいたが、毎度泥酔するようなこともなく、日付が変わる前に気分よく帰ってくる。
あのふたりの関係については、それほど深いものではなかったのだろうと推察している。そのうえおそらくお互いとっくに過去の話になったことであり、いまさら副長が大きく荒れるような理由もないのだろう。
だから、少し感傷的になっている、そういう類のものだと俺は結論づけた。
しかし、今日は様子が少し違っていた。雑務が増えたとわかった瞬間時計を気にしていたし、何かに急きたてられるよう、仕事を終わらせないまま出かけていったのだ。仕事はそこそこ喫緊のもので帰ってから再開してはいたが、そんなやり方は副長らしくなかった。
会いたい人ができたらしい。
浪士組発足直後は定期的に女の影があった副長だが、このところはとんとご無沙汰だった。面倒なことを嫌がる割に面倒くさい人間の面倒を見ずにはいられないという矛盾した性質の副長に、色事はあまり向かなかったのだろう。そこに何の約束も与えてやれない事情、三十代目の前という年齢、そういう様々なことが重なれば、関わりごと断つのが賢明だし誠実だ。
と、思っていたのに、ここへきて、だ。
とはいえ普段連絡を取っている様子もなければ朝帰りすることもないところから察するに、いい具合に線引きした付き合いをしているようだ。
いい具合に。――副長にとって都合のいい具合に、かな。
2
内線が鳴った。うんざりしながら出ると、電脳が起動しないと言う。
「充電は切れてませんか?」
煽っているわけではない、大真面目だ。これで解決することが本当にある。「ええ、ちゃんと充電中で光ってます」と言うので現場に向かってみると、別のボタンを電源ボタンと間違えていたのが原因だった。端末を新しいものに変えたばかりで、ボタンの配置が以前のものと違っていたらしい。笑顔が引きつりそうになるが、それでも礼を言ってくれただけましだった。なかにはまるで私がわざと面子を潰したかのようにむすっとしてしまう人もいる。その高いプライドがあるなら恥をかかないよう学べばいいのに。
戻ってくるとまた内線が鳴った。今度は社内システムにログインできないと言う。
「画面に何かメッセージは出てますか?」
「昨日はログインできたのにできないんです」
「ええ、ですのでその原因を調査するためにメッセージを」
「パスワードも変えてないのに」
埒があかない。これもまた現場に向かうと、キーボード設定が大文字固定になっていたのが原因だった。
こんな調子で一日が終わることもある。
デジタル省。天人台頭以降急速に発展したIT技術を推進するため、現在幕府がとりわけ力を入れている省だ。その業務局業務課に、専門知識などまったくないまま数ヵ月前に異動してきた。専門外の人間の配属は一般企業でもよくあることとはいえ、それにしてもあまりに門外漢の私は、不安に思いながらも新しい分野を勉強する気満々でいた。だが蓋を開けてみれば、こんな業務ばかりだった。
業務局業務課とは、要は社内ヘルプデスク、もっと実態に沿った言い方をすると、ITまわりの雑用係だ。システム構築なんかの高度なことは外注し、その外注先とやりとりするのももっと専門性を兼ね備えた別部署の仕事。考えてみれば当たり前だったが、私は拍子抜けした。
しかし、こういう雑務も誰かがやらなくてはならない。どういう場所にも縁の下の力持ちが必要だから――と自分に言い聞かせてはみても、心のどこかできれいごとだと思っている。だって、いくらなんでもひどすぎる。ヘルプの域を超えている。
ふと虚しくなる。いずれまた部署異動するとはいえ、一体何をしているのだろう、と。
自席でぐったりしていると、音もなく課長が現れた。
「新しい仕事のお願いがあるんだけど」
もったいぶるように言葉を切り、私と隣の席の鈴木さんをそれぞれをじっと見つめる。
「何でしょう?」
「幕府のサイトで月替わりの部署紹介をするんだって」
「部署紹介?」
「そ。まあ全部署とはいかないから、いくつかピックアップしてだけど。で、そのために各部署に取材して仕事風景の写真を撮ってきてほしいんだよね」
「……それって、広報の仕事なんじゃ」
「向こうは今いっぱいいっぱいだからさ。元々の仕事に加えて最近頻発するゲリラ豪雨への安全対策特集ページ作らないといけないとか言ってたし」
だったら部署紹介なんて落ちついてからやればいいのに。喉元ぎりぎりまで上がってきた言葉を呑みこんだ。課長だってきっとそう思っている。
「そういうことだからふたりで段取りつけて、よろしくね。対象部署や〆切は後でメールしとくよ」
課長の後姿を眺めながらため息をつきたくなった。他部署からさえ雑用係として扱われるのかと思うと胸にくるものがある。
早速課長からメールが送られてきて、私が開くより先に鈴木さんが「おっ」と声をあげた。
「これまたすごいとこですねえ」
すごいところ。どこだろうと添付ファイルを開き、私も声をあげかけた。
部署紹介の初回が真選組だった。
「すごい雨」
土方さんが家に上がった途端に降りはじめた雨は、すぐに激しさを増し、少し遠くでばりばりと雷まで鳴りだした。最近こういう突発的な豪雨が多い。
「やむまでゆっくりしてって」
「悪ィな」
テーブルに湯呑を置く。相変わらずソファの端に寄って座る土方さんに倣い、私ももう反対側に寄り腰かけた。ここでふたりの間を詰めてみる勇気も胆力も、私にはない。
「今日金曜だね。映画観ようよ」
今週は何かな、とリモコンの電源ボタンを押すと、ちょうど短い3Dアニメ映像とナレーションが流れていた。番組開始直前の予告だ。
「アナ雪だって」
土方さんは絶対好きではないだろうと思って言うと、
「結構いい話だったよな、これ」
満更でもなさそうな顔をするので「え⁉」と大袈裟に驚いてしまった。土方さんがきょとんとする。
「好きじゃねえのか?」
「いや、そうじゃなくて。土方さんが観たことあるのにびっくり。アニメ興味なさそう」
「前はそうだったんだが、気まぐれに観た『となりのペドロ』が案外悪くなくて観るようになったな」
「実は映画観る人?」
「結構な。屯所で誰かが観てりゃ一緒に観るし、ひとりで外で観ることもある」
「へええ、意外」
「そうか?」
「うん。何が好き?」
「最近観たのだったら『えいりあんVSやくざ』」
「あ、それは意外じゃない」
だろ、と土方さんは笑った。湯呑のお茶を飲み、くつろいでいる。
いい雰囲気、だと思うんだけどな。
ふと目を伏せたとき、土方さんの脚が小刻みに揺れていることに気が付いた。
「煙草、吸う?」
「いいのか⁉」
今にも立ちあがりそうなくらい喜ぶので笑ってしまった。そういえば、土方さんはうちで煙草を吸ったことがない。吸えるとわかれば長居してくれるようになるだろうか。コンロ上の換気扇をつけ、ごみ出しのためにまとめていた袋から空き缶をひとつ取り出し、水を入れて渡した。
「そういや」
煙草を吸い終わり、土方さんはまたソファの端っこに戻ってきた。オープニングが始まり、番組マスコットキャラのおじさんが映写機をまわしているところだ。
「アナ雪って、主人公の名前何つったっけ」
「エルサ?」
「と、もうひとりの方」
「え?」
一瞬、質問の意味がわからなかった。私が何か思い違いをしているのかと思った。奇妙な沈黙のなか、土方さんは首を傾げる。
「ア……アナじゃなくて?」
おそるおそる言うと、首を傾げたまま土方さんが固まってしまった。
映画が始まり冒頭の映像が少し流れ、土方さんの顔が一気に赤くなる。
「じゃ、なくてっ、ちげーよ、俺が訊いてんのはあれだ、あの……オラフだ! オラフの名前が何だったか訊きたかったんだ!」
「オラフはオラフだけど……」
すっかりパニックになった土方さんは、右手で目元を隠してうなだれてしまった。覗く耳が真っ赤だ。
これはちょっと、いや、かなり、可愛すぎる。
胸の奥がうずうずした。もうちょっとこの姿を見ていたい。
「土方さん」
「んだよ」
声がすっかり拗ねてしまっている。
「この映画のタイトルは?」
「……」
「映画始まっちゃったよ」
「……」
「オラフ出てくるよ」
「……お前なあ」
指の間から睨んでくる目は、鋭いのに弱々しい。
「ごめん。映画観よう」
舌打ちとともに上体が起こされた。まだほんのり赤い顔を横目で盗み見ていると、
「映画を観ろ」
さすが、すぐに気付かれてしまった。
絶対そいういう場面じゃないところで涙ぐむ土方さんに驚いたりしながら、二時間はあっという間に過ぎた。番組のエンドロールを見送り、次のニュース番組の予告に切り替わったところで土方さんが立ちあがる。窓の外を見て、少し悩ましげだ。さっきより落ちついたものの雨はまだ降っている。
「もうちょっといる?」
「そうさせてくれ」
立ちあがりついでに土方さんはまた煙草に火をつけた。
泊まっていってもいいのに。一瞬思っても、口には出せない。泊まったとて、ベッドとソファで別々に眠り健全に朝を迎えることになるだろうが、それはそれで、そんなことをしてしまえば進展するきっかけを永遠に失ってしまう気がする。
ニュースが始まった。冒頭いきなり粉塵が飛び散り、その煙が晴れるにつれ真選組の面々が現れるというまるで映画のような映像が流れた。攘夷浪士が猩々星大使館をあわや爆撃というところで真選組が捕縛した、とナレーションは読みあげたが、そのあと流れたのは、沖田さんの撃ち放ったバズーカで大使館が崩壊する瞬間の映像と、それに添えられた〈真選組お手柄? 大使館一部崩壊〉というテロップで、どう見ても大使館を襲撃しているのは真選組の方だった。
「もしかして、こないだ言ってたのって、これ?」
この間、定食屋に来るのが遅れたときのことだ。
「そうだよ。あんときゃこれのせいで上から散々どやされた……ったく、イメージ改善で一日局長だの何だのやったってこれじゃ焼け石に水だ」
「寺門通呼んでやってたんだっけ」
「ああ。そういや今度また懲りずに幕府のサイトで真選組の紹介するとか言ってたが」
あの話だ、と思い出す。自分が取材の担当だと話そうとしたが、
「幕府のサイトなんざ一体誰が見てんだか……そんな費用対効果も薄そうなことに割く時間ねえっつーのに今度広報かどっかが屯所に取材に来るらしくってよ」
あんまりに煩わしそうに言うものだから、とても言いだせなかった。相当溜まっていたのか、それから煙草を何本も吸い終わるまで延々と愚痴が続き、終わる頃には雨はやんでいた。
「長居しちまったな」
じゃあまた、と土方さんが出ていく。
玄関の鍵を閉め、振り返った途端、部屋が二倍くらい広くなったような気がして、それを埋め尽くす静寂に圧迫されそうになった。残された灰皿代わりの空き缶と、テーブルに置かれたふたつのグラスが、その空白をより濃く浮かびあがらせる。
ただ寂しいのとは違う。なんだか虚しいのだ。土方さんが恋人だったら、あるいは、その期待のほんの欠片でもあれば、きっともっと充実した寂しさのなかで余韻に浸れるはずなのに、と思う。
そう。私たちは、連絡先も知らない間柄なのだ。
門の前で出迎えてくれた隊士さんについて屯所に入る。建物は年季が入っているものの、庭も含めて手入れがされ整っている。職場を兼ねた場所だからなのか、取材のためにきれいにしたのか、あまり生活感は感じられなかった。
こちらです、と隊士さんが足を止め障子に手をかけた。かすかに緊張する。
「局長、副長、お連れしました」
すっと開いた障子の向こうでふたつの人影が立ちあがった。
「これはこれはどうも、ご足労様です」
私たちに頭を下げた近藤さんの後ろで、土方さんが目を真ん丸にした。
「システム省業務局業務課の鈴木と申します。本日はよろしくお願いいたします」
鈴木さんの挨拶を皮切りに名刺交換が始まる。気まずくて目を合わせないようにしていても、どういうことだと言わんばかりの視線が土方さんから容赦なく突き刺さる。言いだせない空気にしたのは自分のくせに。
「どうぞご着座ください。お茶もどうぞ」
近藤さんに促され座る。私たちがお茶を飲む間「いやあ、今日は晴れてよかった、おふたりが濡れずに済んで。最近にわか雨が多いですから」と間を持たせ、本題へと移った。
「本日の取材、真選組のイメージ改善を目的として……というのはお聞きでしょうか?」
「はい、伺っております」
答えると、横で鈴木さんが「え?」と小さく呟いた。しまった。土方さんから個人的に聞いた話だった。
「お恥ずかしい話ですが、ご存じの通り不祥事が続いておりまして」
私たちの様子に怪訝な顔はせず、近藤さんが頭を掻きながら補足をしてくれた。
「ですので、市民の皆様に親しみを持っていただけるようなご紹介をしていただきたく」
「まあ、こっちである程度構成は考えてある。隊士に屯所内を案内させるから詳しくはそいつから聞いてくれ」
それまで煙草をふかせるだけだった土方さんが最後にそう締め、立ちあがる。部屋の外でさっきの隊士さんが待っていたので、私たちは彼についていった。
ついていきながら、さっきのことには特に触れず「親近感が湧くように、かあ。どうすればいいかな」と鈴木さんが悩んでいたが、すぐに杞憂に終わった。個人の部屋を除く各部屋や施設をまわって数枚ずつ写真を撮るなかで、案内役の隊士さんがその部屋と各隊士さんにまつわるエピソードを教えてくれたからだった。それがどれも人間臭さを感じるような内容で、真選組に対する親近感を湧かせるには充分だった。こちらとしては非常にありがたかったが、それをかき集めるのにかかった手間暇を想像してみれば、確かに土方さんが愚痴のひとつやふたつ言いたくなるのもわからないではなかった。
二時間ほどかけてまわり終え、最初に近藤さんたちと話をした部屋の前まで戻ってくると隊士さんの電話が鳴った。話し終えたあと申し訳なさそうに私たちに頭を下げる。
「すみません、局長が最後にご挨拶をする予定だったんですが急な来客がありまして。すぐに代理の副長を呼んできますので、少々こちらで掛けてお待ちください。部屋も空いておらずすみません」
ばたばたと隊士さんが廊下を駆けていくので、言われた通りふたりで縁側に腰かけた。
「親近感、いきなり言われてどうしようかと思いましたけど、どうにかなりそうでよかったですね」
鈴木さんが言うのに「本当ですね」と頷いた。仕事としてはもちろん、個人的にも、こんなところで普段の土方さんの話を聞けたのは思わぬ収穫だった。
「ところで」
洗濯室で聞いた土方さんのお茶目エピソードを思い出していると、鈴木さんが言った。
「もしよかったら、このあとご飯でも行きませんか」
私が返事を一瞬ためらったのを見て、鈴木さんは補足するように付け加えた。
「これからしばらく一緒に部署まわりすることですし――」
「待たせた、すまねえ」
鈴木さんの言葉を遮るように背後に人影が現れ、振り返る。土方さんだった。ふたりで立ちあがると、
「悪いんだがもう一ヵ所追加で撮ってほしい。すぐ終わるからカメラ担当だけ来てくれ」
そう言って私だけを手招きする。私は「行ってきます」と鈴木さんに告げ土方さんについていく。さっき通ってきた長い廊下をまた渡り、ある部屋の前で立ち止まった。さっき土方さんのお茶目エピソードを聞いた洗濯室。
「ここ、さっき撮ったけど」
「そうだったか。悪ィ、じゃあ戻るか」
私の指摘に対して驚いた様子もなく、すぐに踵を返す。なんだか妙にあっさりしている。あっさりしすぎていて違和感があった。
怪訝に思いながら土方さんの背中を見つめ、ふと、小さな期待が胸に生まれた。
「土方さん」
「何だ」
「もしかして、わざと?」
立ち止まった土方さんは、ふうっと煙を吐き、振り返らずに言った。
「余計だったか?」
どうかしていると思った。笑ってしまうくらい恰好つけた仕草の土方さんも、それを見て笑うどころか舞いあがった私も。
「あーあ、今日一緒にご飯食べる相手がいなくなっちゃった」
くだらない小芝居に、土方さんが小さく笑う。
「今日は……そうだな、七時半頃なら行ける」
「七時半ね」
廊下を駆けだしてしまいそうになるのをこらえて鈴木さんのところに戻り、土方さんと他人行儀な挨拶を交わして屯所を出る。一緒に職場に戻った鈴木さんには先約があると断り、残りの業務を終えて私は定食屋へ向かった。
会えるとわかって店に行くのは、こんなに幸せなことなのか。ちょうど七時半に店に着き、土方さんの背中を見てそう思った。
私が隣に座ると、土方さんは煙草を持った手で頬杖をついたまま、もう片方の手で私の分の猪口にいつもの酒を注いでくれた。
「お前、写真撮りに来るって言えよな」
「言おうとしたけど、土方さんが愚痴るから」
反論され、それは、とごにょごにょ言い訳をする土方さんの猪口に、一方的に乾杯する。
「でもあれだけの量、確かに手間暇はかかったんだろうね」
酒をひと口いただいて、フォローというわけではないがそう言うと、土方さんがきょとんとしている。
「あれだけの量?」
「うん、皆のお茶目エピソード」
そこまで言っても土方さんは目をぱちくりさせている。
「何の話だ」
「あれ? 知らない? 世間の皆様に親しみを持っていただけるようにって、サイトに顔写真載せる隊士さんたちのちょっとしたおもしろエピソードも教えてもらったよ」
「んなことしてたのか。俺はただ親近感が湧くような案内しろって言っただけだからな」
なんてひどく漠然とした指示だろう。雑務が増えると立腹していた割に土方さんはほとんど何もしていないのではないだろうか。
「……って、待て。顔写真載せる隊士のってことは俺のもか⁉」
「そうだよ」
写真を載せるのは、局長と副長、そして各隊長十名の計十二名だ。
「俺の話、何聞いた?」
「えっとね、土方さんだけやたら多かったんだけど」
「何でだ!」
「さあ……洗濯室では昔アイロン掛けでスカーフ焦がしてたこと、喫煙所では自販機の中身がほぼ副長の好みで決まってること、厠では便器に汚れがあるとそこ目がけて」
「やめろ、もういい、わかった」
こちらに手のひらを突き出し、もう一方の手で目元を抑えてうなだれる。
「どこに親近感湧くんだよその話」
「アイロンの話とかいいと思うよ。鈴木さんには厠の話が一番うけてたけど」
「それまさかサイトに載せんのか?」
「うん。どれかひとつだけど」
「やめろ、日本中どころか地球、いや、宇宙中から閲覧できんだぞ」
幕府のサイトなんて誰が見てるんだとこの間言っていたのは誰だ。でも、絶対載せるなよと念押ししてくる土方さんはちょっとうるさいが、子どもみたいで愛おしい。
今日は、なんだろう。妙に気持ちが浮き立ってしまう。
店を出ても、いつもと同じ道のりを歩いても、私はどうにも浮かれてしまう心を抑えられなかった。他の人からの誘いを土方さんが遮った。ただそれだけのことが、いつも唱えるおまじないよりも強烈に私の心を揺さぶってくる。
「あ、雨」
家に着くより少し早く、ふいに雨粒が顔で弾けた。
「げ。またゲリラ豪雨かもな。急ぐか」
ふたり慌てて走りだす。だが雨脚は容赦なく強さを増し、すぐに数メートル先さえ煙って見えなくなった。家に着いたときには滝に打たれたようにふたりともびしょびしょになっていた。
水滴がとめどなく流れていく身体を玄関先で拭く。
「土方さん、シャワー使って」
見上げた顔にはさっきまでくわえていた煙草がなかった。豪雨のなかで落としてきたのだろう。
「土方さんが入ってる間に私は服乾かしたりするから」
そう付け加えると「じゃあお言葉に甘えて」と土方さんは家に上がった。
湿った足が廊下の板を踏みしめる。浴室で簡単にシャワーやソープ類の説明をして脱衣所のドアを閉め、シャワーの音を確認してから脱衣所の床に放られている土方さんの服を洗濯機に放りこむ。着流しでよかった。隊服だったら洗い方がわからなかった。
それから押入れを開け、急いで着替えたあと、奥からまだ透明な袋に入ったままの男物の浴衣と下着を取り出した。それを手に、少しの間逡巡する。
都合よく新品があるのは、一年前まで同棲していた元彼のために買ってあったからだ。元彼は一年前転職で遠方へ向かい、半年ほど前から連絡がなくなった。いまさら元彼への感情は何もないが、これを出された土方さんにどう思われるかを考えると悩ましい。女ひとり暮らしの部屋にある男物。新品とはいえ、下着まで。何も思われないのも寂しいが、何か思われるのも困る。
とはいえ私の部屋着を貸すにも今はあまりきれいなものがなく、タオル一枚巻いたまま待たせるわけにもいかないので、悩んだところで選択肢はひとつだった。浴衣と下着を袋に入ったままで、バスタオルと一緒に脱衣所に置いておいた。
ひと通りのことをやり終え、ソファでひと息つく。
まだ気持ちがふわふわしている。今日一日の出来事すべてが、なんだか現実味がなかったからだ。真選組への取材にしろ、土方さんと初めて待ち合わせをしたことにしろ。今なんて、土方さんが私の家でシャワーを浴びている。
雨が窓を叩く。カーテンを閉めていても、その音だけで外の様子がうかがえるほどの激しさだった。急な豪雨はそれほど長く続かない。きっと服が乾く頃にはけろっとやみ、やめば土方さんは帰ってしまう。そうすればいつも通り、色濃い虚しさに包まれひとり眠るだけだ。
ぼおっとカーテンの閉まった窓を眺めていると、浴室のドアが開く音がした。それから少しして、バスタオルを頭からかぶり、普段の私服では見ることのないえんじ色の浴衣をまとった土方さんが居間に入ってきた。髪から垂れた水滴で肩口をところどころ染めた姿は、ゆるく結んだ帯も相まってお風呂あがりの色気をこれでもかと振りまいていた。
「お先」
「これ、髪拭くのに使って」
手ぬぐいを渡し、バスタオルを受けとる。
「お前も冷える前にシャワー浴びてこい」
「うん。もし喉乾いたら冷蔵庫にあるもの適当に飲んで。コップはそこの使って」
シンク横の水切りかごを指さすと、わかったから、と土方さんが手を払ってシャワーへと急かす。
誰かが先に使ったシャワーはすぐに温かいお湯が出るので嬉しい。冷えきった身体を温め、外に出る。洗濯機が乾燥モードに入っているのを確認してバスタオルに手を伸ばした瞬間だった。すさまじい雷の音とともにふっとあたりが真っ暗になった。
洗濯機も止まり、しんとした室内にいまだ激しい雨音だけが聞こえてくる。
身体を拭くのもそこそこに、慌てて浴衣を身に着け脱衣所を出た。と、同時に何かにぶつかった。自宅の中で覚えのないそれが土方さんだと理解するのに、一瞬、時間を要した。
「っと、悪ィ。大丈夫か声かけに来た」
予想以上に近いところから声が降ってきて、息が止まりそうになった。
「ご、ごめん」
慌てて離れて見上げるが、動けば輪郭がなんとなくわかるような、それくらいしか見えない。手探りで棚を開け、防災セットの袋から懐中電灯を取り出した。後方を照らすと土方さんがまぶしそうに手をかざす。
「警備員に見つかった侵入者みたい」
「ばかやってんじゃねえ」
テーブルの上に懐中電灯を天井に向けて置き、ソファに掛けた。いつもと同じくふたりの間を空けたソファで、まだ近い雷の音を聞いた。
「懐中電灯なんて持ってると寺子屋で肝試ししたときのこと思い出すなあ」
ふと思い出して口にすると、土方さんはふっと鼻で笑った。
「ガキって好きだよな、肝試し」
「本当にね。土方さんもしたでしょ?」
「いや、やんなかったな」
「そうなの? もしかして怖いの苦手?」
「ばっ……んなわけねえだろ。むしろ得意だっつーの。得意すぎてやらねえっつーか」
「ある程度怖がりじゃないと楽しくないもんね、肝試しとかホラー系の娯楽って」
「そっ、そうそう、それだ。何が楽しいんだかさっぱりわかんなくてよ。俺ももうちょっと怖がりだったらそういうの楽しめたんだろうけどな。まったく、残念だ」
なんだか今日の土方さんは饒舌だ。
ふと、ただでさえふわふわ浮き立っていた私の頭に、くだらない考えがよぎる。
「じゃあこの話はちょっと楽しめるかも」
「へ?」
「その寺子屋でやったのが、林の中の一本道を四人で奥まで行って帰ってくるっていう単純な肝試しだったのね。暗くて不気味なだけで、本当にシンプルなただの一本道。なのに帰り道、途中で道がふたつにわかれてたんだ」
「……」
「少し先は真っ暗闇で何も見えないし、どっちに行くべきなのか誰もわかんないし決められないしで立往生しちゃって」
「……で、どうしたんだよ」
「とりあえずどっちかに進んでみようって片方選んだら『そっちじゃない』って声が聞こえて、声の通りもう片方に進んだら元の場所に戻れたっていう話なんだけど」
「へ、へえ」
「やっぱり全然怖くない?」
「あったりめえだろ。そ、そんなどっかで聞いたような話」
「だよねえ。でもこの話、続きがあって」
「つ、続き?」
「うん。実は道が二股に見えたのは、私たち以外の子による手の込んだ悪戯だったの」
「……んだよ、くだらねえ」
「私たちも何だーって思った。それで『そっちじゃない』って声は誰だったのか訊いたの。あの暗い林の中ひとりで待機してたわけだから、誰がそんな大役引き受けたのか気になるでしょ――そしたらね」
あえて土方さんの方を見ないまま、外連味たっぷりに間を取ってみた。すると土方さんが息を呑む気配があり、私は心のなかでガッツポーズを決める。
「……まさか」
「そう。誰もそんなことしてないって」
ちょうどよい演出のように、外で激しい雷が鳴った。カーテン越しの光が、いつもの澄まし顔を崩し、口を大きく引きつらせる土方さんを強く照らしだす。
「――さすがに今のは、ひやっとくらいはしたでしょ」
演技がかった空気を切りかえて笑う。実際のところは、声の正体ももちろん寺子屋の友人だった。土方さんを怖がらせてみたいと思って作った即興話だが、土方さんはこの期に及んでぷいとそっぽを向いた。
「べべべ別に?」
「えー、それは嘘だあ」
「嘘じゃねえっつの。誰にも覚えのねえ声が聞こえたんなら、そりゃ空耳っつーんだ。寺子屋に通ってた当時ならまだしも、お前デジタル省勤めのくせにそんな非科学的なもん信じててやっていけんのかよ」
小言が止まらない。本当によく喋る。それで、ああそうか、と気が付いた。最初から怖かったのだ。やたらと饒舌だったのも、そういうことだ。
口の端を小さくぴくぴく震わせながら、それでも平静であると主張する強情さはいっそ感心してしまうが、こんなに嘘の下手な人が攘夷浪士との交渉や駆け引きなんて本当にできるのだろうか。沖田さんがしつこいくらい土方さんに嫌がらせをする理由がなんとなくわかる気がした。こんな反応をされたら、もっとからかってしまいたくなる。
けれどこれ以上面子を潰すのはあまりに可愛げがない。私は降参という風に両手を上げた。
「さすが土方さん。本当は林に潜んでた寺子屋の友達の声でした」
「けっ、ほらな。くだんねえ嘘ついてんじゃねえよ」
すげなく言い放ちながら、声には安堵の色が滲み、少し優しくさえあった。土方さんが急に子どもみたいになるこういう瞬間が、私は好きだった。
思わず笑うと同時に、大きなくしゃみが出た。
「大丈夫か」
土方さんが私の方を向き、薄灯りのなか観察してぐっと眉を寄せた。
「お前、よく見りゃ髪びしょびしょじゃねえか」
そう言われて、髪はおろか、髪から滴った水滴で肩まわりまで濡れていることに気が付いた。停電に慌てていたせいでろくに拭かずに出てきたからだ。
それに気付くと急に寒気を感じ、続けざまにもう一度くしゃみが出た。
「しょうもねえ話してる場合かよ……早く拭け」
子どものように強がっていた態度は鳴りを潜め、すっかりお母さんのようになった土方さんが首にかけていた手ぬぐいを私の頭に被せてがしがし拭いた。
「わ、土方さん、髪傷んじゃう」
「あァ?」
「髪はタオルで優しく挟んで水分を――」
ふと顔を上げると、すぐ目の前に土方さんの顔があった。驚きのあまり、心臓が跳ねさえせずに止まったかと思った。身体が動かせない。
目を逸らすタイミングをお互い逃してしまった。さっきまでのふざけた空気が瞬く間に一変し、息を呑んで見つめ合う。
叩きつける雨音のなかの沈黙。
外が光り、髪の湿った土方さんが強く照らしだされる。それから少し置いてどこかに雷が落ちた。それが合図だったかのように、土方さんが身じろぎした。ソファがわずかに沈み、土方さんの身体がこちらにゆっくり近付く。
そのとき、ぱっと部屋が明るくなった。
はっとふたりして天井を向く。そしてまたゆっくり視線を合わせる。沈黙したまま少し見つめ合うが、さっきのような張りつめた緊張はもうなく、なんだかひどく間抜けな空気だった。
「髪、ちゃんと拭けよ」
土方さんが身体を離す。
うん、と頭に被ったタオルの端を握り、はっとする。
「あ、そうだ。乾燥機。まわしてくるね」
乾燥の途中で停電になったことを思い出し、立ちあがる。
洗濯機を乾燥モードに設定し起動させる。土方さんの服がぐるんぐるんまわるのを見つめながら、私はその場に脱力した。
さっきのは、何だったんだろう。
あとほんの一瞬でも電気の復旧が遅ければ、きっと抗えなかった。土方さんにではなく、自分自身に。一瞬、後のことも何もかも、全部どうでもいいから触れたくなった。
どうかしている。
ドライヤーで髪を乾かし居間に戻ると、土方さんは煙草を吸っていた。灰皿にしている缶は冷蔵庫から出したのだろう、隣に置かれたグラスに中身が注がれている。それをふたりで飲みながら、さっきのことはなかったかのように他愛もない話をしたが、妙にそわそわして、よそよそしかった。
雨が予想外に長引き、乾燥機が止まってもやまなかったので、土方さんは泊まっていくことになった。さっきのことが一瞬頭をよぎりつつ、ベッドの譲り合いを経て、私はベッド、土方さんはソファでそれぞれ眠り、早朝訓練があるからと四時くらいに起こされ寝ぼけまなこで送り出した。
◇
副長監察日記 二
ついに副長が朝帰りをした。しっかり他所の家の匂いをさせながら。
相手は幕府勤めの女性らしい。探るつもりはなかったのに、俺の部屋の前でふたりが晩に会う約束を取りつけるせいで話が聞こえてしまった。俺は悪くない。
そのときの様子から察するにだいぶ浮かれているものと思っていたが、副長はといえば、それ以降も相変わらず彼女と連絡をとっている様子もなく、生活スタイルや本人に変化は見られない。
詮索はすまいと思いつつ、少々気になる今日この頃である。
3
休日の夕方、電話が鳴った。発信者を見て出るべきか悩んだのは、話をするのが億劫に感じたからだった。いまさら何を話すことがあるのか。
「はい」
「今家にいる? 家の前にいるんだけど」
「はい?」
あまりの唐突さに苛立つことさえ忘れてしまった。直接会うなんてもっと億劫なのに。そう思いながら玄関を開けると、清々しいくらいの笑顔で元彼が立っていた。一年前転職で遠方へ向かい、半年ほど前から連絡がなくなった男。
「来るなら連絡くらいしてよ」
「ごめんごめん、急にこっちに帰ってくることになったもんだから」
元気だった? と無遠慮に家に上がってこようとするのを外に押し出した。
「もしかして誰か来てる?」
「来てないけど」
そういう問題ではない、と説教をする気さえ湧かず、私は単刀直入に突っこんだ。
「別れ話しにきたんでしょ? 私はとっくに別れたもんだと思ってたから、もういいよ」
突き放すように言ったが、ちっとも効いていなさそうだった。それどころか、
「水臭いな。久しぶりに会ったんだから、ちょっとくらい何か話そうよ」
ね、と手をとられる。
「最後にデートしよう」
頓珍漢な男に怒りも呆れも何も湧いてこなかった。この男に何かしらの感情が生まれるほどの情なり期待なりが、私には何もないせいだろう。いまさらぶつける不満もなければ、好きにさせてすんなり帰ってくれるならそれでいいかと思った私は、手を引かれるまま外に出た。「最後にセックスしよう」でなかっただけましだ。
こういう利己的な態度や強引さを、男らしさだと以前は思っていた。それが恋愛中特有の盲目ではなく、若さゆえの無知だっただけであることを心底願う。そうでなければ、また同じ過ちを犯してしまうかもしれないから。
家から出て、手を引かれるまま歩く。私が心ここにあらずということにも気付かない、いや、気にもしていない元彼は、延々とどうでもいい話ばかりをしている。清々しいほどの独りよがりだ。それを聞き流しながら見上げる夕日は隣にいる男を愛していなくてもきれいで、これが土方さんだったらと思った瞬間、なんだかみじめな気持ちになった。
適当に相槌を打っているうち、街の方にやってきた。きっとこのあたりに宿を取っているのだろう。自分から連れ出しておいて家まで送り返す気はなく、自分に都合のいい場所で別れるつもりなのだと思う。この人はそういう男だった。
何でこんな男と付き合っていたのだろう。恋愛の終わりに思いがちなこととはいえ、虚しくなる。付き合っていた時間さえ虚無の積み重ねだっただなんて思いたくないのに。
そんなことを考えながら街中をぼんやり眺めていると、ふと視界の端に覚えのある人影が映った。はっと息を呑む。
曲がり角から現れた黒づくめのふたり。腰に刀を提げた、巡回中の真選組ペア。よりによって、片方が土方さんだった。
何を取り繕う間もなくすれ違った。距離は少し、数メートルほど。目が合ったわけでもなく、向こうが私を認識したかどうかもわからないほど一瞬のことで、私も今土方さんが煙草をくわえていたか、手をどんな風にして歩いていたか、一緒にいたのがどんな人だったか思い出せない、それくらいのわずかな間だった。
ざわめく心を落ちつかせようと努めるが、でも、万が一が頭の隅から離れない。私が手を繋いでいたことまでもし認識されていたら。
男物の浴衣と下着が家に準備してあり、休日に男と手を繋いで歩いている女。
私が思わずついたため息を自分との離れがたさと勘違いした元彼は、急に情緒的な言葉を紡ぎ、そしてやっぱり、自分の滞在する宿の近くで別れを告げてきた。
二十三時になっても土方さんは現れなかった。二十一時を過ぎたあたりから何度もあと十五分、あと十分、やっぱりあと……と繰り返し、ついに諦めてお会計をした。
親父さんの声を背にのれんをくぐると、ぬるい夜風がまとわりついた。曇り空にただでさえまばらにしか見えない星を、宇宙船が無粋に遮って飛んでいく。
元彼と会って二日が経った。あのとき土方さんは私に気付いていたのだろうか。それを早く確認したい。この二日、何度もそう思った。
でもそのたび、気付いていたとしてどうするのか、とも思った。連絡先すら知らない相手に、私は何を弁明しようとしているのだろう。
ふいに誰かの近寄ってくる気配がした。店の客かと思って慌てて退きながら顔を上げ、私は大袈裟なほど身体が跳ねた。
「よォ。帰んのか?」
隊服姿の土方さんだった。
散々待っていたくせに、いざ唐突に現れると咄嗟に言葉が出ず、ただ土方さんを凝視してしまった。土方さんが怪訝そうに眉を寄せる。
「どうした?」
「あ……いや、びっくりして。今帰るとこ」
土方さんは、そうか、と答え、何かを考えるようにじっとこちらを見つめた。今度は私が「どうしたの?」と訊いたが「いや、何でも」と目を伏せる。
「送ってく。ちょうど仕事終わったとこだから」
すぐに踵を返して歩きだした土方さんの背中を慌てて追った。
その背中を見ながら少し悩んだが、思いきって切りだすことにした。今日確かめておかないと、またもやもやした数日を過ごすことになる。
「日曜、江戸グランドホテルのあたり巡回してた?」
「日曜ってーと……ああ、あのへんまわってたな」
それがどうした、という顔をするので、小さくかぶりを振った。
「街中で真選組の人はよく見かけるけど、土方さん見たのは初めてだなと思っただけ」
「俺は車で移動することも多いからな」
そうなんだ、と返して話題はそのままパトカーのことになった。
ほっと胸を撫でおろす。気付いていなかったみたいだ。
だから、家の前に着いたとき「家上がってく?」いつものように訊いた。数日のもやもやが晴れ、少し浮かれてすらいた。
当然肯定的な返事をされるものと思っていたが、土方さんは何も返事をしなかった。私から少し視線を外したまま、もったいぶるように煙草を長く深く吸う。戸惑う私に構わず、その煙をゆっくり吐き出しきってから、ようやく口を開いた。
「お前、男いるんじゃねえの」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……え?」
「手繋いで歩いてただろ、日曜」
みぞおちの奥を殴られたように身体が激しく揺れた気がした。
気付いてたんだ、本当は。
それを隠されていたことが、見られていたことよりショックだった。知らないふりをしておいて、後からこんな意地の悪い問い詰め方をされるなんて。
連絡先さえ知らない関係なのに。
そう思って、いや、と思いなおす。むしろ、だからか。
私が誰と何をしようが咎める立場にないから見なかったことにして何も言わずにいたのに、私が家に上げようとしたせいで言及せざるを得なくなったのだ。
土方さんの姿勢はまっとうだ。土方さんから見た私が、あちこちに手をつけようとするゆるい女なのだ。
「……土方さん」
「何だ」
「話、聞いてくれますか」
返事はなかったが、立ち去る気配もなかった。
「手繋いで歩いてたの、前の彼氏なの。もう半年くらい連絡も取ってないし私はとっくに終わったつもりだったんだけど、あの日連絡なしで急に家まで来て」
「で、焼け木杭に火がついたってことか」
「まさか。別れ話するために向こうが最後のデートしようって手繋いできて……家にも上げたくないし、それで早く帰ってくれるならと思って仕方なく」
話しながら、なんて嘘くさいのだろうと思った。こんな話、自分がされても信じきれない。実際土方さんも話半分といった風で、煙草をふかしながら鼻で笑った。
「半年ほったらかして最後にデートねえ」
そうして、まだ長い煙草を地面で踏みつぶす。それが、もうこれ以上話を聞く気はないと言っているような気がして、身体の奥から焦燥感がかけ巡った。
「お前、男見る目ねえな」
土方さんが新しい煙草を取り出した瞬間、思わず土方さんの腕を両手で掴んでいた。
「本当の話なの」
顔を見る勇気はなく、目の前の節くれだった指に挟まれた煙草を見つめ、懇願した。
「信じてほしい」
数本先の道を車が通る音がした。それが過ぎてまたあたりが静まりかえると、頭上で土方さんがため息のような息を吐いた。
「……やっぱお前、見る目ねえな」
箱から出したばかりのまっさらな煙草が視界の端を舞った。それと同時に土方さんの胸の中に引き寄せられる。煙草の匂いの奥から、土方さんの匂いがした。