俺がここ……煉獄邸で目を覚ましてからニ週間たつ。
 保護という形で、初めて目が覚めてから変わらないこの部屋で、自由に体を動かせるようになって、ここから出て行く為に、俺はリハビリを開始していた。
 瑠火と名乗ったあの女性に、何度も孤児院に移すか見世物小屋に戻せと言ったが聞き入れて貰えず、ならば仕方ないから体を回復させ次第この家から出ていってしまえばいい、とそう思ったからだ。
 この体になる前、十五で死んでしまった時まで、ずっと病院暮しだった事が幸をなし、その時の知識で順調に体を回復させることが出来ている。
 味がしない事にも大分慣れて、固形物を食べる時はなるべく噛まず、鳥の雛がするように飲み込み吐き気を我慢したし、皮だけだった腕も、少しだが肉がついてきている。

 ただ、問題があるとすればここの家族が、俺にいちいち話しかけてくること、特に──────煉獄杏寿郎が何かと部屋に尋ねてくることだった。

 彼、杏寿郎がこの部屋で俺とちゃんと話したのは俺が体を起こせるようになった時だ。
 槇寿郎に連れられたアイツは、「よろしく頼む!俺は煉獄杏寿郎、友達になろう!!仲良くしようではないか!!」と大声でニコニコと笑いながら俺に手を差し出してきた。
 でも、俺にとってはそれは全て嫌悪の対象にしかならない。伸ばされた手も吐かれた言葉も、体が無意識に触れてこようとする手を叩き落とすくらいに嫌なものだった。

「仲良くなる気もなんよねぇんだよ。わかったら俺の目の前からさっさと消えろ……手を差し出されることも何もかも不快だ」

 そう吐き捨てれば、びしりと固まり、一瞬、何を言われたのかわからなかったらしいそいつは、俺の言った言葉を遅れて理解すると、大きな目をぱちぱちと瞬かせてから、むっと頬を膨らませて、「嫌だ!!」と叫んだのだ。

「俺はずっと君と友達になるのを楽しみにしていたんだ!!それに、君は俺の家族になるんだろ。それなら、尚更仲良くなりたいにきまっている!」

 ふんすと鼻息荒くそう大声で続けてくる彼を睨めば、彼は真撃な眼差しで見つめ返してくる。
その視線が、酷く痛くて居心地の悪いもので、つい、目を逸らしながら「絶対になるわけねぇだろ」と、ただ言うことしか出来なかった。

 その日から、アイツは朝から晩まで、稽古を付けられてるらしい時間以外俺のいる部屋に来るようになった。
出てけと言っても出ていかず、今日はこんな稽古を付けただとか、こんな事をした、これが楽しかっただとか、相槌も何も打たない俺にひたすらベラベラと話しかけてくる。
 しかも、何が楽しいのか全く持ってわからないが、笑いながら語りかけてくるのだ。



そして今日も……

「おーい!君!今日こそは名前を教えてもらうぞ!!」

 スパン!と、勢いよく障子を開いて入ってきた彼は、手になにやら煎餅などが入っている盆を持って、そのまま、一言も話さない無言の俺にぷっくりと頬をふくらませつつ、俺が座る布団の傍にくると、ぽすん、と腰を落とし、盆に乗っていたらしいコップを差し出してくる。
 拒否するように、顔を背ければ、むう、だとか、そんな声を出して、それを下げた。

「君が無視しても俺は話すからな!!
今日は久々の晴れで外で父上と一緒に稽古をして、それで紫陽花に蝸牛が乗ってるのを見つけたんだ!
あ、蝸牛は蛞蝓に殻を付けたみたいなやつでな、この時期になるとよく出てくるんだ、それで、その蝸牛が……」

 そうして、彼はまた、彼にとってなんてことの無い日常の一コマを俺に話す。
 俺はその話を聞いて、何となく、視線を外に向ける。
 確かに、今日は、最近ずっと雨続きだったのが嘘の様に晴れていて、この部屋からまだ出たことの無い俺でも、晴天なのだろう、ということが分かるくらいにいつもより暖かい。

「外に出たいのか?」
「っ、!?」

 いつの間にか、目と鼻の先すれすれに彼の顔があり、肩を揺らして驚き、ずりっと後ろに下がれば、満足気に笑いながらじゃあ、少し屋敷の中を歩こうじゃないか!と、足にかけている布団を剥がれた。

「ずっと室内は退屈だろう!歩く練習にも丁度いいはずだ、それに、歩きずらいなら俺がちゃんと支えるから安心するといい!」

 いや、何も安心できないんだが。

 けれど、ふと考えれば、もし、俺がここから抜け出そうとした時に経路を知っておくのは大切な事だ。
 ならば、今それを知るためにここでイエスと言った方がいいのだろうか。
 じっと、立ち上がった彼を見上げれば、何が嬉しいのか、ニコニコと笑いながら、早く行こう!と、心を躍らせるように、声を弾ませて外を指差す。

仕方ない、か。

 まだ、筋力のもどり切っていない身体に力を込めて、震えながら、なんとか、立ち上がる。
 あまり悪夢を見て眠れないので、夜に立ち上がる練習をひっそりとしていたのが幸をなしたらしい。
 おおっ、と声を上げる目の前に立つヤツは、「凄いじゃないか!これなら直ぐに俺とも鬼ごととか出来たりするのではないか!?」と、何やらはしゃいでいるが俺はそんな事する気は一ミリたりともねぇからな。

「では行こう!!体が辛くなったらすぐ言うんだぞ!!」

 そう言って、彼はゆっくりと、俺に速さを合わせて歩き出す。その後ろに、脚を動かして続きつつ、深く、緊張をほぐすように深呼吸をした。

 久々に見た外は昔母と見た事のある紫陽花が咲き誇っていて、遠くに別の建物が見え、廊下は長くて、ここがほんとに大きな屋敷なんだと再認識する。

「君!こっちだ!厨に行こう!」
「くりや?」
「!」

 聞き慣れない言葉に思わず繰り返せば、彼は俺が口を聞いたのが嬉しいらしく、ニコニコと笑いながら厨について説明してくる。
 厨……つまり、台所に菓子をもらいに行こう……ということらしい。

「たまにこっそりと父上には内緒で甘味が貰えるんだ!君はあまり進んでものを食べないが、きっとこれなら気にいると思う!」
「行かない」
「む!?」
「食わないから」
「よもや……甘味も嫌いなのか?」

 芋羊羹……と、呟きながら肩を落とす彼に、お前自分で食べたいだけだったんじゃないか?と、思い、行くなら一人で行けと突き放すみたいに言い、おおよそ、玄関があるだろう方向に身体を向け、脚をゆっくりと動かす。

「あ!待て君!」

 彼は、そう言って慌てたように俺の横に並んでくる。

「場所の案内ぐらいはちゃんとする!こっちには書斎があるんだ」
「……」
「よもや、一度話したのにすぐに黙りか君はあ!」

 地団駄を踏みそうな勢いでぶすくれる彼は唇を尖らせつつ、まあいいが!!知っていたしな!と、うんうんと激しく頷く。
 なんでいちいちこんなにコイツは動作が大袈裟なんだ?

 その後、なんとか休み休み、体力が続く限り体を動かして屋敷の中をみて回ったが、残念なことに俺の体力は恐ろしい程に落ちていたらしく、玄関につくより前にダウンしてしまった。

 これじゃあここを無理やり出ていくにも数歩で倒れる。早急に体力を戻さないと……

 そんな事を考え、リハビリなどを続けていくうちに、骨折していた腕が固定はまだするものの、物が多少にぎれるほどにまで回復した。
 時が流れるのも早い事で、それは梅雨の時期が過ぎ去った頃のこと。目が焼けるように眩しい日差しが、さんさんと照りわたる青い空の広がる季節。

 まだ体力はあまり戻っていないが、ある程度普通に歩けるようにまでなった。
 だから、時折、隙を見て玄関に向かい、出ていこうとするが……

「懲りない子ですね」

 と、そう言って涼しい顔をした瑠火に毎度のことながら何故か見つけられて首根っこを掴まれ部屋に戻されてしまう。
 時間をずらしても、ルートを変えても、不思議とピタリと見つかってしまうし、なんでわかったんだと聞いても“女の勘です”と真顔でいうのだ。
 冗談かと思ったが彼女なら有り得そうな気がして頭を抱えたのは記憶に新しいし、その運ばれる姿を毎度の事杏寿郎にも見つかり、“君!またか!!”と声を挙げられるのはほぼお決まりのことになってきている。
 そして、部屋に戻ってから彼が俺にうっとおしいくらいにひっつき虫宜しく付きまとい、話しかけてくるのがほぼセットになってきていた。
 しかも槇寿郎についてはこの家に帰る度に俺に顔を合わせてきて、俺が近寄るなと言う度に捨てられた犬のような顔をしてくるのはなんなんだ。大の大人がそういう顔普通するかよ年齢考えろ。

本当になんなんだこの家族は……


 悪意がないことはわかってる……だから嫌なんだ。
 夜に眠ろうとする度にあの日のことを思い出す。
 ずっとずっと、身体が■■の血に濡れてるように感じて、悪寒が止まらない。

 良い人が嫌いだ。俺の近くにいたら直ぐに死んでしまうから。

 歪んでしまうから。

 だから、早く、俺はこの家を出ていきたい、この暖かな陽だまりに似た、けれど、残酷な未来の待ってるこの家にいたくない。
 置かれる時間が長くなる度に、恐ろしい事が早々に起こってしまうのではないかと、そう思ってしまう。

 息をするのが辛くて、この肺が、眠った瞬間に止まってくれたらと、そう何度願ったのだろう。
 どうでもいいと、そう思っておきながら、包丁で自分の喉すら切れないで、誰かに殺して欲しいと願う俺はどれほど滑稽で身勝手な奴なのだろうか。

 この生き地獄を脱して、永遠に起きないでいたいと願ったのに、一筋の暖かな光にすがりついた俺はきっとすぐに、亡者が垂らされた蜘蛛の糸を目の前で切られたように、瞬きの間に黒に塗りつぶされて放り出される。
 その時はきっと誰かを道連れにする。
 誰かを不幸にする。

だから、そうなる前に、そうなってしまう前に、疫病神でしかない俺を、早く誰か殺してください。





 そして、暫くして、ひとつの転機が訪れた。