「おかえりなさい、陛下」
―――この言葉を彼女に言える日を、ずっと待っていた。
黒曜の瞳が怪訝そうに瞬きを繰り返す。アーダルベルトたちを追い払い安全になった地上へ降ろされた少女は、ぺたんとその場に尻もちをついた。
漆黒の髪と瞳。この国では二つとないほど珍しい色を持ち、加えて真っ黒な制服を着ている。
15年の歳月を経て魔族の世界へと還ってきた少女は、コンラッドが差し出した手に戸惑うように視線をやった。
まだ混乱が頭を占めているようだ。
無理もない。彼女の纏う色を見て恐慌を来たした人間たちから農具で脅されたり、土塊や石を投げられて、羽のある骸骨に抱えられて空を飛んだ直後なのだから。おおよそ彼女の生きてきた土地では経験しえないことだ。馬も軍人も初めて見たというように、彼女の視線が下から上へ沿うように辿り、ようやくコンラッドの顔をその視界に入れた。
「……日本語が、おじょーずですね。ここは映画の撮影か何かですか? 一番近い出口はどこでしょうか?」
コンラッドは笑みを浮かべる。自然と浮かんできた、心からの表情だった。
「違いますよ。詳しいことは移動しながら説明します。ひとまず、立てますか?」
手を取って、立ち上がった少女の頬についた汚れを払ってやる。どうしても、彼女の瞳に目がいく。大切に育てられてきたのがわかる、真っ直ぐな光を宿していた。
少女の視線はコンラッドの背後にいる栃栗毛の馬へ向き、
「えっ、馬って、本物の馬? 私、乗馬なんて小さい頃に行ったふれあいランド以来なのだけれど」
「大丈夫、陛下は俺の馬に一緒に乗ってください」
ユーリの体を抱き上げ、コンラッドの愛馬に乗せる。ノーカンティーが緊張しないよう、撫でて落ち着かせる。おっかなびっくりしながら、
「これからどこに行くんですか? 私はそこで何をさせられるのでしょうか?」
と訊いてきた。映画の撮影現場だか異世界だか知らないけれど、見知らぬ場所に放り出されるように落とされた彼女は、ここがどこなのかを含めて、自身に正確な情報を教えてくれる人を求めていた。
「とりあえず近くの村へ。そこにフォンクライスト卿もいますから」
「フォンクライスト卿……」
コンラッドの言葉を反芻するように、口の中で呟く。次いで、背後にいるコンラッドへと視線を向け、
「……あなたのことは何て呼んだらいいですか?」
「ああ、名乗りがまだでしたね。 コンラート=ウェラーです」
「コンラッド……コンラート?」
「言いにくければ、コンラッドでいいですよ」
「じゃあ、コンラッドで。私は、渋谷 ユーリっていいます。ユーリが名前です」
コンラッドは笑みを浮かべた。知っていますよ、と口をついて出そうになったのを堪える。
外の世界へ出たがって、母親のおなかの中で元気にしていた貴方を知っている。二度目は不遇の邂逅で、彼女は覚えていないだろう。争いの記憶など忘れて、健やかに育って欲しいと、コンラッド自身も願ったことだ。
夏に大輪を咲かせる花のようにすくすくと育ってくれたのが伝わってきて、彼の王の選択は正しかったのだと知る。
この世界のことを何一つ知らない、いかなる種族にも染まっていない無垢な魂。
彼女はどのような王になるのだろう。コンラッドの想像していたようになるのか、それとも全く違う形で眞魔国を発展させていくのか。
この先何があろうと、ユーリの進む道に如何なる試練が課されようと、彼女が良き王となれるよう、支えるのがコンラッドの務めだと。覚悟はできていた。
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