朝の瑞々しい空気の中、誰もいない厩舎に行くとアオはもう起きていた。鞍を付けて、馬番が戻って来ないうちに厩舎から出る。
連れ出してから青毛の馬を連れていたら目立つかしらと思ったけれど、既に出かける気満々のアオを逆戻りさせるのはかわいそうだった。
正門ではなく、召使いの使う通用門へ向かった。門番はユーリより少し若そうな見た目の兵士だった。
薄い色のコンタクトレンズをして、頭からすっぽりフードを被った女がユーリだと気づき、困ったように通せんぼしてきた。職務に忠実なのはいいことだけれど、ユーリは外に出たいのだ。
「コンラッドは後から来るから」と理由をつけて、「通して」と命令されれば従わざるを得ない。
けれど、伴も護衛も付けていないのは明らかで、ユーリの言ったように遅れながら着いてくる者はいなかった。(でまかせなのだから、当たり前だ。)
そのことに気づいた門番が、「お待ちください!」と色をなくした顔で叫んだのと、それまでおすまし顔だったアオが走り出したのはほぼ同時だった。
止められたら散歩が無くなると察知したようで、アクセルを思いっきり踏み、けれど早駆けに不慣れな主を落とさないようにゆるやかな坂道を駆け下りていく。さすが名付け親がしつけた子だ。
ユーリとよく似て、猫っ被りのお転婆娘だ。だから気が合うんだろうね、と心中で語りかける。口を動かしたら下を噛みそうだったから。
坂を下りきって平坦な道に出ると、アオはスピードを緩めた。ユーリは低くしていた背を起こし、背後から追ってくる気配のないことを確認する。
「さ、アオ。もっと遠くへ行ってみようか」
蹄の音に混じって、鳥の声や木の葉が摺れる音がしてきた。
ああ、自由だ。久しぶりに味わう開放感に胸が高鳴った。
どこまで行って見ようか。せっかく馬に乗ったのだし、まだ行ったことのない場所まで足を伸ばしてみるのもいいかもしれない。
ユーリは服の上から魔石のお守りを握り、アオを進めた。
いくつかの分かれ道を曲がって行くと、湖を見つけたのでそこで休むことにした。湖面に口をつけて水を飲むアオの隣で、ユーリも水筒から水分補給する。
湖の畔には、名前も知らない花がたくさん咲いていた。
一面に生えた背の低い白い花に、群生したピンク色の花が混じっている。風が吹くとそよぐ姿が愛らしい。
気持ちよくて、落ち着く場所だ。
ユーリは草花のベッドに横になり、目を閉じた。アオが髪を噛んだり湿った鼻先をくっつけてきたのに小さく反応を返す。しばらくユーリに構っていたけらど、反応のつまらない主に飽きてしまったのか、離れていった。
どのくらいそうしていただろう。
うたた寝をしていたユーリは、地面から響く蹄の音で目を覚ました。数は複数。走っているようだ。
顔を上げてアオの姿を探すも、黒色の体がどこにも見当たらなくて心臓が大きく跳ねた。
「―――っ、アオ?」
離れたところで馬の嘶きが上がる。ユーリがアオに乗ってきた方向からだ。
徐々に近づいてきた馬は二つだけれど、馬上の人影は一つだった。
ハシバミ色の方に乗っていたウェラー卿が、一人立ち尽くすユーリを見つけてほっとしたように表情を緩めた。アオは、ユーリを残してウェラー卿と姉貴分のノーカンティーを連れてきてしまったのだ。
同じ色を持つ主人よりも、育ての親と姉貴分の方を取った相方をじとっとした目つきで見るも、黒色の末っ子は「やっと起きたの?」とどこ吹く風だ。
「見つけましたよ、陛下」
「…おはよう、名付け親」
彼は「ユーリ」と律儀に呼び直して、ユーリが無事である事を目視で確認する。
「遠乗りに出かけるなら、声をかけてください」
「そうしたら着いてくるでしょう」
それが彼の役目であるとはいえ、ユーリにとって誰かと出かけるのでは何の意味が無かった。コンラッドは、ちょっと困ったように笑ってみせた。
「俺がいたらだめなんですか?」
「一人になれる時間がほしかったの」
ああ、とコンラッドは納得とも相槌ともつなかい声を漏らした。
この世界に来てから、ずつと傍に誰かがいた。それは目の前の名付け親であったり、王佐や婚約者殿だったり。そして彼等の他にも、護衛という名の監視役がついている事も知っていた。姿が見えた訳では無いけれど、『見られている』という気配はあって、一歩部屋の外に出ようとすれば付いてこようとする護衛の兵士や侍女たち。彼ら彼女らが悪いわけではない。向こうも仕事なのだ。
貴族王族たちにとってもしごく当たり前のことで、そこにユーリが馴染めないだけだった。けれど一人になりたい思いが抑えきれず、カーテンやシーツを繋ぎ合わせた布を使い、窓から抜け出してきたのだ。
「ユーリ、貴方は魔王で、俺はあなたの護衛ですから。お守りするのが務めなんです」
「うん」
魔力を使えなければユーリはただの弱い存在だし、使えたところで意識を失っていたのでは自分の身を守れない。
「あなたが遠出をしたいとか一人になりたいとお望みなら、可能な限り叶えて差し上げます。その代わり、俺もついて行かせてください」
「うん、ごめんなさい」
ユーリは素直に謝った。
コンラッドは小さく笑うと、アオとノーカンティーを連れて彼女らの手綱を近くの木に結びつけた。
城に連れ戻しにした訳ではないらしく、ま ユーリの気が済むまでここにいてもいいらしい。木陰に腰を下ろす。
「でも、どうしてここだってわかったの」
「門番からの報告で向かった方向は分かったんだけど、ユーリの向かった先は、ほぼ勘ですよ。アオの方から迎えに来てくれて、助かりました」
勘で正解を引き当ててしまうのだから、名付け親の探知能力や恐るべし。
コンラッドが隣にいる。
近づいてくる蹄の音に怯えていた心臓は、彼の姿を見た途端に落ち着いた。それは、彼が自分を守ってくれる存在であるとわかっている故の安心感だった。
―――そこで、ユーリはふと思い至った。
兵士や侍女も同じように、異世界から来たばかりのユーリを気遣ってくれていたのだ。何か困ったことはないか、陛下の役に立つためにお守りするのだと。
それをいらないなんて言うのは、思い上がりだったんじゃないだろうか。穴があったら入りたい気分だ。
「……お城に戻ったら、みんなに謝らなくちゃ。大騒ぎになってるよね、きっと」
「素直に理由を言ったら、皆はわかってくれますよ」
コンラッドは白い花の中から一房摘み、ユーリの赤茶色の髪に挿す。
「…やはりあなたには黒の方が似合う」
「これでも頑張って染めたんだよ。人にやってもらうと外出がバレちゃうから、1人でやったの」
「誰です、あなたに染め粉を渡したのは」
一瞬迷って、けれどユーリは素直に協力者を明かした。
「グリ江ちゃん」
「ヨザ……それで昨日、飲みに誘ってきたのか。馬番が居ない時間を教えたのもあいつですね」
ずるずると芋づる式に彼の余罪が明らかになっていくので、ユーリは心中で彼に謝罪した。今度、アニシナのもにたあ(体力部門)に彼を推薦しておこう。
コンラッドはおかしそうにするユーリの頬に手を添え、上を向かせた。コンラッドの瞳に宿る感情に気づいたユーリが、眉を下げて困ったようにする。
「妬いている?」
「俺を頼ってほしかったと、少し残念です」
「ごめんね。…本当は、あなたを困らせて見たかったの」
完璧無比で、いつもユーリの考えを読んだように先回りの行動を取る彼の焦った顔を見てみたかったと聞かされたコンラッドは、小さく息をついた。
「まったく、困った方だ」
「ごめんなさ、ん……」
謝った口に、優しい口付けが降ってくる。しばらく啄むように唇の感触を楽しんでから、ゆっくりと離れていく。繰り返し降ってくるキスの雨に、ユーリは「くすぐったい」と笑い声を上げた。
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