お月さまがみてる


 夜半にコンラッドが彼の主人の部屋を訪ねると、ベッドに入らずに暖炉の前で小さくなっていた。
 枕をぬいぐるみのように腕に抱え、そこに顔を埋めている。―――ぱちぱちという暖炉の中で炎が爆ぜる音に混じり、少女の啜り泣く声が聞こえる。

 名を呼ぶと、慌てて涙を拭う。寝間着の袖で、ごしごしと。
 つかつかと歩み寄り、コンラッドは彼女の手首を両手でそっと掴んだ。正面に回り込んでユーリの顔を覗き込むと、涙に濡れた黒曜の瞳と視線が合う。努めて、優しい口調で話しかける。

「そんなに強く擦ったら、赤くなりますよ」

「だって……」

 続きの言葉を紡ぐことができなくて、ユーリは赤くなった眦から涙がまた溢れさせてしまった。
 コンラッドは上着のポケットから手ぬぐいを取り出し、頬を伝う涙を拭いてやる。

「上等なのじゃなくてすみませんが」

「そんなこと、ない……」

ユーリは小さく礼を言い、ようやくというようにコンラッドを見た。けれどじっと見ているのも、見られるのも落ち着かない心地だったようで、恥じ入るように視線を落とした。

「…ごめんなさい。ハンカチ、汚しちゃって」

「気にしないで」

 それよりも、ユーリに涙を流させている方がが重要だ。
 乱れた前髪を指で整えてから、後頭部に回した手でゆっくりと髪を撫でる。親が子にするように。波立つ心を宥めるように。何度か繰り返しているうちに、ユーリの肩から力が抜けていくのが分かった。

 魔王としての、公的な視察だった。
 黒色を隠さずに城下に下りたユーリは、陛下を一目見たいと集まった民衆にたちまち囲まれた。
 集まってくれた人たちと一人ずつ握手や挨拶を交わす中で、ある青年の番になった。彼は、ユーリが差し出した手を打ち払い、ユーリに対して酷い暴言を吐いた。

ーーーいい気なものだ。玉座を空けてばかりいる王が。戦争を知らない腑抜けめ。

 それ以上の危害を加えてしまう前に、彼は護衛たちによって地面に引き倒された。
 手足を拘束されながら、彼は尚も叫びを上げた。
ーーー村を返せ。家族を返せ。死でもって償え。全部、ぜんぶ。お前のせいだ。

 剥き出しの敵意と、悪意。
 城に戻るまでの間、ユーリの表情は強ばっていた。

 素直な人柄であり、誰にでも分け隔てなく接するのは彼女の美徳であり、また弱点でもある。
 罵りの言葉は鋭い刃物となって、ユーリの胸に刺さった。白く、血の気の失せた顔が痛ましかった。

 警護が甘かったのは、コンラッドたちの落ち度だ。

「拐われたり、怪我したり……危ない目には何度も会ってるのに。体が動かなくて、怖かった」

「申し訳ありませんでした。あなたを危険な目に遭わせてしまった」

 護衛として、害意を持って近づく者を排除しなければならなかったのに。何も無かったのが幸いだ。
 もし剣などを持っていたり、彼が即座に魔術を行使でもしていたら、ユーリは無事では済まなかった。
 それでも、彼女はむき出しの悪意に傷つきこそすれ、青年への積極的な処罰は望まなかった。

「実はさっきまで、ホームシックになってたの。 魔王じゃなかったらあんなこと言われなかったのに、って」

 コンラッドが何かを言うより先に、ユーリが「でもね、」と今自分が言ったことを否定する。

「魔王になるって決めたのは自分なんだから、って思い直したの。 ああいうふうに、まだ傷ついている人がいるのなら、二度と起こらないようにするのが私の役目わなんだよね」

 誰もが平和に暮らせる、争いの無い国を。
 平和主義を掲げるユーリを、敬愛する国民は多い。だから一部の心ない者の言葉に傷つき、自分を見失わないでほしい。
 ユーリがユーリらしく、優しく健やかな心のまま、政に関われるように支えるのが己の役目だ。
 泣いてしまいたい時は、どうか自分を頼って欲しい。今日のような日に、一人で泣くなんてことはしないで欲しかった。


「温かい飲み物を持ってきましょうか」

 暖炉の火が弱まってきた。この時期の夜はすぐに冷え込む。

 コンラッドが提案すると、胸に顔を押し付けたまま「……ホットチョコが飲みたい」と返ってくる。コンラッドの服を掴む手に力がこもった。

「でも、もう少しこのままでいて」

「もちろん構いませんよ。貴女が望むなら、朝まででも」

「うん、ありがとう。明日には元気になるから」

 やがて暖炉の火が消えようかという頃、ユーリは微かに寝息を立て始めた。泣き疲れたのと、自分の気持ちを外に出せて幾らか落ち着いたのだろう。

 目が覚めれば、朗らかに笑う彼女が戻ってくるといい。そう願いながら、コンラッドはランプの灯りを消す。

 少しして、魔王の寝室に静かな寝息が二つ聞こえてきた。



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