散るより満ちるふたりのために
水底から浮かびあがる泡のように、ふっと意識が覚醒した。
目を開けると、ぼやけた室内と視界の下の方に黒色の輪郭が映り込む。
右腕に重みを感じ、慎重に身動ぎをして視線を下にやると、彼女がまだ眠りの中にいた。伸ばした右腕を枕にし、くうくうと気持ちよさそうに寝息を立てている。
裸眼ではサイドテーブルのデジタル時計の文字は読めないが、カーテンの隙間から差し込む薄い光に、夜はまだ明けて間もないと知る。
今日は久しぶりのオフなので、このまま二度目の眠りに就くのもいいが、妙に冴えた意識ではすぐに眠るのは難しそうだった。
隣で眠っている彼女が冷えこまないようにと、ずり落ちていた毛布を肩までかけてやる。へらりと緩んだ表情に、胸に暖かな感情がこみ上げた。
彼女と出会ったのは、中等部のときだった。
U―17を離脱しドイツへ行くと告げた時、彼女は「行ってらっしゃい」と笑って送り出してくれた。
中等部の卒業式のために帰国し、再びドイツへ戻ってプロを目指すと告げた時、彼女は一緒に高等部には通えないことを残念がり、それでも「体に気を付けて、がんばってね」と自分を応援してくれた。
数年置いて、高等部の卒業式にスケジュールを合わせて彼女に会いに行けば、最後に会った時より幾分大人びた彼女の姿に、言葉が出てこなかった。
桃色の花を胸に付けた彼女は、軽く巻いた毛先を恥ずかしそうにいじる。―――中等部の時は、部活の邪魔だからと顎くらいの長さで切りそろえていたというのに。
記憶の中の彼女と、目の前の彼女の面影が重なり、過ぎた時間の重さを実感した。
「だってわたし、大学生になるんだよ。国光くんだって、前に会った時よりずっとかっこよくなってる」
テニスのために世界中を飛び回り忙しくする自分と、日本で普通の学生生活を送る彼女とでは生活リズムが違いすぎて苦労はあったが、それでもずっと心では彼女を想い続けていたし、彼女にもそうであってほしいと願っていた。
しかし、連絡手段は基本的にメールのやり取りのみ。国際電話はお互いの生活時間のずれがあり滅多にできなかった。
テニスが好きだ。さらなる高みを目指し、強力な選手たちと試合することに喜びを感じていた日々。自分がしてきたことに間違いはないし、これからもこの生活を続けていきたい。
―――ならば日本に一人でいる彼女を、自由にしてやるべきではないのか。
そう思ったが、口から出てきたのは
「日本に帰ってきたとき、また会ってくれるか?」
考えていたこととは正反対の、本心からの言葉だった。
彼女は、下手な笑みを浮かべた。泣きそうなのをこらえたがために、そんな笑い方になってしまったのだ。
「わたしね、大学に入ったらバイトを始めるの。今度はわたしからもちゃんと行くから……会いに行っても、いいかな?」
気づけば、たまらず彼女の体を抱きしめていた。
傍でやり取りを見ていたテニス部メンバーの囃す声が聞こえたが、かまう暇はなかった。不二が即座に取り出したカメラで何度もシャッターを切っていたが、止めるよりも手塚の体は彼女を抱きしめて放せなかった。
後ほど消してもらおうとしたが、あの笑みではぐらかされてしまい、結局消すことができなかった。(データの使い道についてはあまり考えたくない。)
隣に彼女がいてくれたらと、望まない時はなかった。
そして彼女は宣言どおり、手塚がオフの日に合わせて、日本からはるばるドイツへと来てくれた。
多幸感が胸を満たし、手塚は近かった彼女を優しくさらに抱き寄せた。
「んん……」
もぞりと身じろぎし、瞼が重たそうに開く。しばらくぼうと宙を見ていた黒色の瞳が、緩慢に手塚を見上げてきた。
「……おはよう」
「まだ明け方だ。寝てていいぞ」
「うー…ん。まだ朝? もう午後な気分だよ」
時差ぼけに目をこする彼女の姿に、思わず薄く笑みが浮かんだ。
右腕で彼女の頭を抱き込み、髪を撫でる。
髪を一房すくい、指を滑らせる。その動作を何度か繰り返していると、彼女が手塚の手をそっと取った。
「寝てるとき、ずっと暖かかったの」
「あまりそういうことを言うな」
「どうして?」
「…離せなくなるだろう」
彼女が照れを隠すように笑い声を上げた。どうやら彼女の方の意識を本格的に覚醒させてしまったらしい。
「ねえ、今日はどこに連れてってくれるの?」
「そうだな…、まずはカフェに行ってみよう」
「わあ、私、バームクーヘンが食べたいな。あと、ドイツのお菓子とかも見てみたい」
ああ、と返事をしたつもりだったが、果たしてちゃんと返せただろうか。
腕の中の温もりに、再び意識が微睡み始める。普段は睡眠も起床も意識的にきっちり分ける自分だったが、さすがに連日の試合から昨日の今日で、体はまだ休息を求めているようだった。
「…国光くん?」
彼女が呼んでくる。
お前に名前を呼んでもらうのが好きだ。
目を覚ましたら伝えよう。
隣にいてくれと。ずっと俺を選び続けてくれと―――。
「おやすみ、国光くん。起きたら、たくさん話してね」
頬に柔らかな感触が触れる。―――それが答えだった。
◇◇◇
カフェで朝食を取りながら、彼女が自身のスマホの待受画面を見せてくれた。
一瞬、高等部のあの記憶がよぎったが、見せられたのは中等部の卒業式に桜の木を背景に二人で撮った写真だった。
なんだと安心し、コーヒーを口に含む。
「あのね、ドイツで国光くんと新しい写真を撮るんだーって言ったら、不二くんがこれをくれたの」
「……ごほっ、…っ!」
そう言ってスマホの画面をスワイプして見せて来たのは、まぎれもなく不二が撮ったあの卒業式の写真であった。
飲んでいたコーヒーが変なところに入り、噎せてしまった。
驚く彼女に大丈夫だと手で合図し、呼吸を落ち着かせる。ずれた眼鏡をただし、努めて冷静な口調で「それはどうしたのか」と問うと、
「不二くんが卒業の記念に、ってデータにしてくれたの。待受けにするのはちょっと恥ずかしいから、これはさみしいときに見返す用。 でも新しい写真も欲しいから、今日はたくさん写真撮ろうね!」
今度日本に戻った時に不二に必ずデータを削除させることを決め、取り急ぎどうやって嬉しそうにこれからの予定を話す彼女のスマホからあのデータを消してもらおうかと思案するのだった。
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