ぶっちぎりのあいらぶゆー


 3時間目終了のチャイムが鳴り、教室や廊下がにぎやかになる。

 あと1コマ耐えきったら昼休みだ。

 次の授業を担当する古典教師は別に悲しい目にあったわけじゃないのに、常に沈んだ声でぽそぽそ話す人なので、話を聞く側は切れそうになる集中力と、襲い来る睡魔に負けないようにがんばらないといけない。

 そのとき、廊下側の窓から顔をのぞかせた人物がわたしを呼んだ。

「名前ー、いるー?」

 教室内をぐるっと見まわし、印象的な猫っぽい目がわたしの姿を見つけてぱっと輝く。
 ちょいちょいと手招きをしてきたので、教室の後方の出口から廊下に出た。彼がわたしのところに来た目的は、訊かなくても分かっていた。

「菊丸くん、今日は何を忘れたの?」

「英和辞書、忘れちゃったんだー。名前、貸して?」

「もう、しょうがないなあ……」

 自分のロッカーに行き、自分用の古語辞典と、貸すための英和辞書を取り出す。それを持って菊丸くんのところに行くと、「サンキュー!」とお礼を言いながら英和辞書を受け取った。

「どういたしまして。……この前、もう忘れ物はしないようにするって言ってなかったっけ?」

「へへ。そうだったっけ?」

 そう言って笑う菊丸くんの顔に、反省の色は微塵もない。忘れたことを悪いと思ってない様子だ。きっと、また同じように忘れ物をしてわたしなところに借りに来るのだろう。最初こそびっくりしたし、呆れて「また忘れたの?」とかたしなめたりしたけど、こう毎回借りに来られると顔を見ると「今日は何を借りたいの?」という質問が出てくるようになった。

 その度に菊丸くんは、あの屈託のない笑顔でわたしに借りたいものを言うのだ。お願いしたら出てくると信じきった笑顔で。

―――おかげで、わたしのロッカーは置き勉の教科書や辞書ばかりはいっている。まあ、使わないものをその都度持ち帰るほどきちっとはしていないし、一年生の時から置き勉はある程度していたので、決して、誰かさんが忘れ物したときのためとかではない。

「あーあ、次は英語だよぉ。 あの先生、俺ばっか当ててくるから苦手なんだよねぇ 」

「そうなの?」

「そ! ちょーっと外見てるだけで、すぐ当ててくるんだ」

「ふふ、授業中に外を見てたら、そりゃ当てられちゃうでしょ。空でも見てたの?」

「んー……まあ、そんなとこ」

 なんだかあいまいな回答に、わたしはふうん、と相槌を打つ。何か面白いことでも見つけたのか、よそのクラスの体育でも眺めてたのかな。

「名前が俺の隣の席だったら良かったんだけどなぁ〜」

「えっ、……どうして?」

 菊丸くんの言葉に、わたしは首を傾げた。すると彼は、「だってさぁ」と言って、こちらを見つめてきた。視線が合う。甘さを溶かしたような瞳を、こちらも真っ向から見つめてしまい、無意識に辞書を持つ手に力が入る。

「そうしたら、休み時間になったらすぐ名前に話しかけれるじゃん」

 ね、いい考えだと思わない?と菊丸くんはその目を細めて、垣間見えた気持ちを無邪気に隠してしまう。
 どうしてこう、ずるいことをさらりとしちゃうんだろう。
 無意識なのかな。だったら余計にたちが悪いな、と心の中で思う。

「…、それはいいけど、でもちゃんと授業は受けないとだめだよ」

 でも動揺していることに気づかれたくなくて、わざと真面目ぶった口調で返した。そんなわたしの心を知ってか知らずか、菊丸くんは楽しげに笑い声をあげる。

「はいはい―――っと、やばい、そろそろ時間だ。名前、またあとでね〜」

 ひらひら手を振って、菊丸くんは自分のクラスに戻っていった。

 わたしはその背中を見送り、ふうとため息をつく。
 結局、わたしは菊丸くんの笑顔に勝てない。だって、なんだかんだ言いつつも毎回、「しょうがないなあ」と言いながら、教科書や辞書を貸している。

 むしろ、こうして頼りにされるのは役得だとひそかに思っている。クラスが違うわたしと菊丸くんの、唯一のつながりな気がして。

 それに、菊丸くんが借りに来るのを心待ちにしている自分がいるのも事実だった。


◇ ◇ ◇


 またあとで、と宣言していたとおり、菊丸くんは昼休みに辞書を返しに来てくれた。

 教室の入り口のところからわたしの名前を呼ばれ、周囲の友人らも慣れたもので「ほら名前、呼ばれてるよ」「早く行ってあげないと」とはやされながらも席を立つ。廊下の端に寄って菊丸くんと向かいあう。

 辞書を受け取ると、次いで「はいこれ」と言って、右手をグーの形にして差し出してきた。

「なあに?」

「いいから、手出して」

 ほらと急かされて、わたしは手のひらを差し出す。するとそこに、飴玉がぽんと置かれた。

「辞書のお礼だよー。今日だけじゃないけど。いつもありがとね」

「そんな、お礼なんて別にいいのに。 でも嬉しいよ、ありがとう」

 菊丸くんは、わたしの言葉を聞くと満足げに笑った。

「ん、どういたしまして。 これ、姉ちゃんにもらったんだけど、結構おいしいんだよ」

「へえ、そうなんだ。 そういえば菊丸くんって、たまに甘いものくれるけど、好きなの?」

「うん。 好き。大好き」

 はっきりした声で告げられた言葉に、心臓が跳ねる。お菓子の話をしていたところに、別の言葉のように聞こえてしまったのは、わたしが意識しすぎなんだろうか。

 菊丸くんの笑顔には、どこか人を惹きつける魅力があると思う。
 普段はふざけたり、年相応の男の子っぽい表情を見せることが多いけれど、時折見せる真剣な横顔に、わたしはときめいてしまうのだ。
 その視線から逃げるように俯き、わたしは口を開く。

「そ、そっか。……わたしも甘いもの好きだから、なんか嬉しいな」

 動揺を隠すようにそう答えると、菊丸くんは少し照れたような顔をした。

「じゃあ、今度一緒に食べに行こうよ」

「えっ」

「駅前にカフェが新しくできたんだけど、そこのケーキがすごいおいしいんだって。だから、よかったらどうかなって思って、」

 最後は尻すぼみになりつつ、それでも菊丸くんは誘いの言葉を口にする。その頬はもう真っ赤になっていて、「だめ?」と首を傾げる様からは、彼が緊張していることが伝わってきた。そんな彼の様子につられて、わたしまで顔に熱が集まる。

「…ううん、行きたい」

「ほんと!? やったー!」

 答えれば菊丸くんは、ぱあっと表情を明るくさせて喜ぶ。そんなに嬉しそうにはしゃがれると、なんだかこっちもうれしくなってしまう。

「それなら、次の土曜とかどう? その日は部活ないし、行こうよ」

「うん」

「よし! 決まりだね」

 約束を取り付けると、菊丸くんは「楽しみー」と弾んだ声を上げた。

「あ、言っとくけど、これデートだかんね!」

「えっ?!」

「二人で出かけたらそれはデートでしょ? ね、名前?」

 わたしはますます体温が上がるのを感じた。確かに、二人でどこかに出かけるなんて、普通の恋人同士みたいだと思うけれど。
 でもそれを面と向かって言われると恥ずかしくてたまらない。
 それに、デートと言われてしまうと余計意識してしまう。だって、それってつまりただの友だち同士で出かけるってことじゃなくて―――

「で、でも付き合ってるわけじゃないし……告白だって……」

 まだされてなくて……。
 顔に集まる熱をごまかすように、頬に手を当てる。変なことを口走っているような気もするけれど、一度火のついた思考回路は止められなかった。

「名前って、意外と鈍感だよね」

 菊丸くんはぽつりと呟くと、こちらをじっと見つめてくる。

「なんで俺が毎回、13組まで借りに来てると思ってんの?」

 どうして、と理由は問い返すまでもなかった。菊丸くんの真剣な眼差しを見ていれば、すぐにわかることだったからだ。

「……えっと」

 わたしは視線をさまよわせながら、言葉を探す。

「あのさ、名前」

 そんなわたしを見つめつつ、菊丸くんは一歩踏み込んでくる。わたしは思わず後ずさりしそうになるのをぐっと堪えて、その場に立ったまま、菊丸くんの目を見た。

「俺は名前に会いたいから来てるんだよ」

 まっすぐに告げられた想いに、わたしの胸は高鳴った。今まで感じていた、彼との繋がりが切れてしまうのではないかという不安も、すべて吹き飛んでしまうほどに。
 わたしはどきりとして、菊丸くんを見上げる。
 菊丸くんは、いつものいたずらっぽい笑顔ではなくて、どこか切なげに見える表情を浮かべていた。
 菊丸くんが何か言おうと口を開き、

「…やっぱり今言うのはなし! 土曜日にちゃんと言うから、だから名前もそのつもりでね!」

 しかし、言いかけた言葉を呑み込むようにして、代わりに出てきたのはそんな言葉だった。

「え……えっ?」

「じゃあね、またあとで!」

 そして菊丸くんは、早口にそれだけ告げると、教室のある方とは反対方向へ行き、階段を下りて行った。
 取り残されたわたしは、菊丸くんの姿が見えなくなるまでその場に突っ立っていた。

 あんなふうに言われたら期待せずにはいられない。というより、もう確信しているようなものじゃないか。

 どうしよう。
 土曜日が楽しみすぎて、今から心臓が破裂しそうだ。

 結局、あんなやり取りをした後の授業に集中できるわけもなく、数学の先生から個人課題をいただく羽目になってしまった。

 課題も。このどうしようもない熱も。うるさい心臓も。
 全部、ぜんぶ菊丸くんのせいだった。



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