優しいだけじゃ届かないから
午前中は抜けるような青空だったのに、昼休みくらいから怪しくなり始め、灰色の雲が増えてきた。
雨の気配に「降るかなぁ」とぼやく私と対照的に、「やった、屋内練じゃん」と嬉しがるすず。
卵焼きを食べていた箸を一旦止めて鞄の中を覗けば、教科書とノート、ポーチくらいしか入っておらず、私はこっそりため息をついた。
(傘がない……)
学校に置き傘もしていなければ、折り畳み傘も自宅に置きっぱなしだということに気づいた。
「最悪…。傘忘れちゃった」
「ええ、どうするの?」
「ん〜。止むのを待って帰るよ」
帰る頃には止んでいてほしいなと、崩れ始める空を見上げながら思った。
果たして、私の願いも空しく、6限目の半ばからぽつぽつ雨が降り始め、終礼が終わった時には本降りになっていた。
昇降口で困ったように空を見上げていると、
「―――名前、どうしたんだ?」
「あ、国光くん」
幼なじみの国光くんが現れた。部活へ向かうところだったのだろうか、彼はまだ制服のままだ。
昇降口で途方に暮れた様子の私と、荷物が鞄だけの状態を見て、理由に察しがついたようだ。
「……傘を持ってこなかったのか? 昨日、忘れるなと言っただろう」
「ごめんなさい。……朝、天気がよかったから、いらないかなって思って」
手塚くんはわずかに眉がぴくりと動がしただけだけど、纏う雰囲気から私は呆れられているだろうなと思った。
私は平気だよ、と笑って見せる。
「でも大丈夫。雨が弱まったらバス停までダッシュするから!」
「バスはいいとして、駅に着いたあとはどうするんだ。家まで30分以上走り続けるつもりか?」
「う……」
そこまで考えていなかったので、痛いところを突かれた顔をして、私は答えに窮してしまう。
『どうしよう。』
ありありと顔にそう書いてある幼なじみを目に、手塚はそっと心中で息を吐いた。
昨日の夜、手塚が電話で言ったことを聞かずに傘を持ってこなかった点については、もう起きてしまったことだから仕方ない。
なら同じ方向に帰る人間を捕まえて傘に入れてくれるよう頼めばよかったのだろうが、彼女がその行動を取る前に、手塚は彼女に声をかけた。それは手塚によってよくないことだったからだ。
「俺の部活が終わるまで、待っていられるか?」
「え?」
「傘が無いんだろう。家まで送ってやる。」
「いいの? やったぁ。持つべきものは幼なじみだね」
屈託なく笑う彼女に、手塚は「そうだな」と短く返した。
雨が本降りになったのを見て、もしやと思い彼女に会いに教室へ行った。けれど求めた姿はなく、彼女の友人(たしか、すずという名前の)がいたので居場所を聞くと「名前ならもう帰ったよ。傘無いのに、大丈夫かなぁ」と後半は純粋に名前のことを心配する響きだったが、手塚はその言葉に心中がざわついた。
心なし急ぎ足で昇降口に来てみれば、一人空を見上げる彼女の後ろ姿を見つけて、すぐに声をかけたわけである。
確認すれば案の定、傘が無くて困り果てていた。
雨に濡れるのが嫌で弱まるのを昇降口で無為に待つくらいならば、素直に手塚へメールで頼むなり直接言いに来るなりしてほしいものだ。あえて彼女にわざわざ言うつもりはないが、手塚としては彼女には幼なじみの垣根を越えて頼ってほしかった。
「どこで待つつもりだ?」
「んー…。図書室にいようかな。古文の課題をするよ」
「分かった。 終わったら連絡するから、おとなしく待っておけ」
「うん。 国光くん、部活がんばってねー!」
名前がひらひら手を振るのに頷きを返し、手塚は部活へと向かった。
◇ ◇ ◇
古文の課題は次の授業までに決められた範囲を現代語訳するというものだけれど、私は取りかかって30分もしないうちに集中力が切れてしまった。
有名どころの古典作品はスマホで調べれば現代語訳が載っている。なら夜に家でもやれると思ったら、せっかく図書室で時間をつぶしているのだし、ここでしか読めない本を読もうと思ったのだ。
私の最終手段を幼なじみに知られたら、きっと静かなお説教が待っているのであまり大きな声では言えないけれど。
そんなことを考えながら書棚を順に見て回る。哲学、歴史、社会、スポーツ…等を見て流し、文学の棚へと来た。青春学園の蔵書は市立図書館顔負けだと思う。日本文学のほかに、欧米文学についても潤沢にあり、原語での書籍も多数取り揃えられている。
幼なじみもここからたまに本を借りていると話していたのを思い出し、私はどれどれと外国語ばかりのコーナーへ足を踏み入れた。その中から一冊、見おぼえのあるタイトルがああって、手に取った。
世界中の児童文学の中でも、多分誰しも聞いたことのあるタイトル。
砂漠で遭難した主人公とふしぎな王子様のお話なのだけれど、訳本は持っていても原語で書かれたものは読んだことはない。ぱらぱらと中身に目を通した後、私はそれをカウンターへ持って行った。
仏日辞典が必要だけど、兄から電子辞書を借りれば大丈夫だろう。たぶん、きっと。
あとは私の根気次第だ。
部活終了を告げるチャイムが鳴ると、図書室も閉館の合図だ。自習のために開いていた教材たちを鞄にしまい、図書室を後にする。
国光君たちは片付けと、ミーティングがあるだろうか。ならまだ時間がかかるかもしれない。
『昇降口で待ってるね』
とメールを送っておく。
雨はまだ降り続いており、部活を終えた生徒が傘を差して帰って行く。私は色とりどりの傘が校門へ向かう光景を、昇降口の端っこに寄って眺め、国光くんを待っていた。
「あれ。名字じゃん、なにしてんの?」
「…あ、中原くん。おつかれさま。人をね、待ってるの」
同級生の男子が、私の方に気づいて近寄ってくる。中原くんは、私と空模様を交互に見て、私が待っている理由を察したようだ。
「誰待ってんの?」
「テニス部の人。傘に入れてもらう約束をしたの」
特に国光くんと幼なじみを公言しているわけではないので、何となく誰かはぼかした。
中原くんはそこまで深く追及するつもりもないようで、「ならさ」と人好きのしそうな笑みを浮かべた。
「俺の傘貸そうか? 置き傘があるからさ、貸してやるよ」
「え、いいよ、そんな申し訳ないよ」
中原くんが鞄から折り畳み傘を取り出すとするので、私は1歩下がって、いらないと遠慮する。
だって国光くんとすでに約束しているし、ここで反故にしたらせっかく待っていた時間が無駄になる。それに、帰り道でもし何かあって傘を壊したらと想像すると、わざわざクラスメートの男子から借りるのは躊躇われた。
「いいから使いなって。それでさ、よかったら一緒に―――」
「名前、待たせてすまない」
中原くんが照れを露わにして本題を告げるより先に、固くて低い声がそれを遮った。ぱっとそちらを見ると、濃紺の傘を持った国光くんがいた。
私の肩に手を置き、自分の背後に下がらせる。空いた空間に手塚くんが割って入るように立ち、中原くんと向き合った。
国光くんの表情は背後からでは見えないけれど、中原くんの方は気圧されつつ、怪訝そうにしている。なんで他のクラスの手塚が、と言いたそうな顔だった。
「悪いが、彼女は俺と先約があるのでな。心配は無用だ」
国光くんの登場に、中原くんは驚きと焦りが入り混じった表情を浮かべた。
私の待ち人がテニス部の人であるという点と、国光くんがテニス部所属であるという点が線でつながったのだろう。
そりゃあ国光くんは堅物で真面目で幼なじみの私にもまあまあ厳しくて、同学年の女子たちとの話題で「手塚くんかあ……(なんでか私の方を見ながら)もう(いるから)ねえ……」と一様の評価をもらっちゃってるし。
幼馴染の私以外に親しい女の子がいる話は聞こえてこないから、私と一緒に帰るという事実は意外なものに思えちゃうかもしれないけれど、そんなあからさまにおびえた顔をしなくてもいいのに、と心中で複雑な感情を抱く。
国光くんは私が困っているといつも現れて助けてくれる、とても優しくて頼れる幼なじみだから、私は国光くんのことがとても好きだ。でも同学年の女子や中原くんの態度から、実はそんなに評価が芳しくないのが見て取れてしまい、これは生徒会長として由々しき事態なのではと不安に思う。何かの機会に、国光くんに事情を話して改善策を考えないとなぁ。
「あの、中原くん。そういうことだから、えっと、気遣ってくれてありがとう」
中原くんは弾かれたように、「ああ、じゃあまた明日、教室で!」と早口で挨拶すると、雨の中を駆けて行ってしまった。中原くんは親切で声をかけてくれたのに、なんだか申し訳ないなと思ってしまう。
「なんだか申し訳ないことしちゃったかな……」
「お前が気にすることじゃない。 ほら、帰ろう」
そう言って、国光くんは傘を開いてその中に私を招き入れてくれる。
「相合傘だね」と笑って言えば、「そうだな」と相変わらずの調子で返ってきた。
そんな国光くんだけど、私が濡れないようにと傘をこちらに寄せてくれているので、肩が傘から出てしまっていた。肩が触れ合うまでぎりぎり身を寄せれば、国光くんがちらとこちらを見てきた。私はそれに気づかないふりをして、
「国光くんと帰れるなんて久しぶりだねー」
「学校でいつも会っているだろう」
「そうだけど、ほら、学校だと話しにくいこととかあるでしょう?」
「話しにくいこと?」
なんだそれは、と分かりやすく国光くんの眉根が寄せられた。あ、これはチャンスかもと思いつく。気になってたこと、この機会に聞いてみよう。
「ねえねえ、国光くんって親しい女の子とかいる?」
「…いきなりどうした?」
「や、そういえば、国光くんと仲のいい女の子とか、聞かないなって思って。生徒会長と部長の仕事とで忙しいのは分かるけど、国光くんを応援してくれてる女の子たちの気持ちを大事にしないといけないよ」
「……誰かに何か言われたり、されたのか?」
心配の色を含んだ問いかけに、私は慌てて首を振った。
「え、ちがうちがう! あのね、国光くんがもっと女の子と仲良くなったらいいなっていうのは私の願いなだけで―――」
「なら必要ないし、他の女子に興味もない」
きっぱりと断言されてしまい、私は吐息のような声を漏らす。
小学校の頃は真面目な性格なだけと思っていたけれど、中学生になって「これ」となると、私の知らない間に恋愛方面に対して潔癖になってしまったのだろうか。―――これで将来、彼が結婚できない男性になってしまったらどうしよう。…いや、今の時代は結婚がすべてではないというけれど。
ため息のような吐息を漏らした後、黙りこくってしまった幼なじみを見やる。
特定の女子がいるかと聞かれたときは心臓がはねた。しかし自分の期待は外れ、彼女はもっと自分に他の女子に優しくしろとアドバイスしてきた。
生徒会長としてやるべき職務は果たしているし、一個人として他の女子に無駄に好意を振りまくつもりはないのでその提案を遮るように却下すれば、思案顔で黙り込んでしまう。―――彼女の意図が読めなかった。
そも、手塚とて困っている人を見かけたら、誰彼構わず声をかけるわけではない。他でもない彼女だからあれこれ気を回したり、困っていれば声をかけているのだが、呆れるほど鈍い彼女は誰にでも優しいと思い違いをしている。
「国光くんは優しいね」と笑う。屈託のないその笑みは、幼なじみだから向けられるものと分かっている。
彼女へ好意を寄せる男子へのけん制にはなるので甘んじて受け入れていたが―――。
「ね、もし国光くんに『いいな』って思う子ができたら、できればわたしにも教えてね」
「……は?」
「だって、国光くんに好きな子ができたら、こうして傘に入れてもらうのは悪いじゃん。いや、折り畳み傘を持ち歩いたらいいだけなんだけどさ。……ほかにも、頼りっぱなしのところがあるから、自立しないといけないし」
いきなり何を言い出すんだと思い、自然と眉根が寄る。
「国光くんかっこいいし優しいから、好きになった子ができたら、きっとすぐ付き合えるよ。私だったら、すぐオッケーしちゃうもん」
「お前、どこまで本気なんだ……」
心の底からため息が出た。
彼女の鈍感さから来た言葉は、さながら鈍器に殴られたように手塚に衝撃を与えた。
ひどく頭痛がした。
「国光くん?」
傘を左手に持ち替え、右手で彼女の肩を抱き寄せた。帰り道で人がまばらとはいえ、手塚の大胆な行動に名前は「えっ、えっ?」と驚いたように声を上げる。
「お前のことが好きだ」
「えっ?!」
「呆れるほど鈍いし、俺がいないと危なっかしい。…そんなお前を幼なじみ以上に特別に想っているんだ。俺と付き合ってほしい」
「あ……えと……」
名前は突然の告白に答えあぐねているが、その頬が朱に染まって、手塚に触れられている手を払おうとしない様子から、脈が無いわけでもなさそうだ。
「いきなり言われて混乱していると思うが、幼なじみで終わるのはいやだったんだ。心の整理がついたらでいいから、お前からの返事がほしい」
いよいよ彼女の顔から湯気が出るのではないかというくらい、真っ赤になってしまった。
手塚は薄く笑みを浮かべ、名前の左手を取って自分の右手と絡めた。「いやなら振りほどけ」と言えば、名前はしばらく「あ…」とか「う…」とうなっていたが、結局家までつないだ手は解かなかった。
翌日以降、照れてしまって手塚から逃げ隠れする名前と、告白したからといって会うのを控えるつもりのない手塚の鬼ごっこが繰り広げられることになる。
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