青い夜のゆくえ2
携帯電話を使えるようになったときには、すでに飲み会の開始予定時刻をだいぶ過ぎてしまっていた。
変な時間に到着しては盛り上がった空気に水を差してしまうのではないかと懸念していたが、空港に着いてメールを確認すると、主催者から「遅くなってもいいから、必ず来てくれ」と念押しのようなメールが届いていた。
日本へ到着したことと居酒屋へ着く時間を大石へ連絡したところ、少しの時間を置いて「了解。みんな待ってるぞ」と返信があった。
みんな、という中に彼女が含まれているか気になった。
―――久しぶりの日本だった。
最後に帰ったのは約1年前。プロになってからというもの世界中を飛び回り、忙しくも充実した毎日を送っているが、こうして日本の空気を吸うと肩の力が抜けるようだった。
そんな中でも胸に棘のように刺さっているものがあった。中等部時代に付き合っていた彼女のことだ。
ドイツ留学を決め、彼女にはそのことをすぐに伝えた。寂しい思いをさせてしまうと分かっていたが、過行く日々の中、あえて彼女のことを考えないよう己に課し、テニスだけに徹するようにした。その結果、中等部卒業後も引き続きドイツでプレイすることが決まった。
日本に戻って彼女にそのことを告げると、しばらく考え込む素振りを見せ、「…考え直せないの? 日本でも、プロは目指せるんじゃないの?」と聞いてきた。無理だと分かっていても、聞かずにはいられなかったのだろう。
しかし、彼女にそう言われた時の自分はすでにドイツでプロを目指すことを決めていて、彼女に止められたからといって自分の意思を曲げるつもりはなかった。
―――結果として、彼女は手塚と別れることを選択した。
ドイツへ再び旅立つ日、見送りに来てくれた面々から離れて、名前と二人だけで話す時間があった。
「3年間、いろいろありがとう」
「ああ、……」
その時、搭乗手続き開始のアナウンスが流れた。ちら、と電光掲示板にやり、時間を確認する。一瞬の間だったが、手塚のその何気ない仕草に、名前の表情にさみしさの色が滲んだ。
最後まで泣かせてばかりだと申し訳なく思ったが、気丈にも彼女は涙を流さず、震える唇で笑みを作って見せた。
「名前、ほんとうにすまないと思う」
「謝るくせにテニスを選ぶ国光がきらい……だいきらい…」
だから、と彼女は続ける。
「わたしのことなんて忘れて、向こうに行っても元気でね」
中等部の時に降り立ったドイツと、名前と別れて戻ってきたドイツは同じ場所であるはずなのに、手塚の心境は徐々に違うものになっていった。
ふとした時、脳裏に彼女の姿がちらついた。試合の観客席に、いるはずのない彼女を無意識に探すようになった。
彼女の面影を追いかけて、結果彼女でないことに落胆する自分がいた。
自身を心配してくれる声、勝利を自分のことのように喜んで駆け寄ってくる姿、手塚が無理をしているとすぐに気づいて心配して怒ってくる顔―――自分から手放したというのに。
とうに覚悟を決めている俺と違い、彼女は「もしも」に一縷の望みにかけていたのだと、強がりの裏に「行かないで」という切実な想いが込められていたことに気づけたのは彼女と別れてしばらく経ってからだった。
自分は彼女に会いたいのだと強く自覚してから、メールを送ろうと考えたこともあった。けれど、メールは結局送られることはなく、携帯の中で「未送信フォルダ」の件数が増えるばかりだった。
―――今日の飲み会には、彼女も来るという。
忘れようと思ったができなかったと、柄ではないが素直な気持ちを吐露したら彼女はどんな反応を見せるだろう。
戸惑うだろうか。困ったように笑うだろうか。それとも、煩わしそうに眉を寄せるかもしれない。
会うのが楽しみなような、会わずにどこか別の場所へ向かってしまいたいような―――大事なテニスの試合の時ですら抱かなかった気持ちに、居心地が悪くなる。
彼女に会って話をすれば、この気持ちを整理できるだろうか。
しかし、既に新しい恋人ができてしまっているのではないか。考えてばかりいると、いろいろな予想をしてしまう。
どのような結果になろうとも、何よりも彼女に会いたかった。
◇ ◇ ◇
居酒屋の個室に入れば青学のレギュラー陣が揃っており、見渡したメンバーの中に彼女の姿を見つけた。口々に歓迎やねぎらいの言葉を述べる仲間に迎えられ、大石と乾が体をずらし、空いたスペースに腰を下ろした。少し離れた場所に不二、その右隣に、彼女がいた。
あの頃から幾分か大人びた彼女は、視線を手元のグラスに注いでいる。まつ毛に縁取られた目を伏せ、手塚の方を見ようとしないそんな彼女の様子に、寂寥感が胸に沸いた。
「手塚、何か飲むか?」
大石が注文用のタブレットを差し出す。
長時間のフライト明けなので飲酒は控えめにするつもりだった。いくつかメニューを注文しタブレットを置くと、大石が
「ドイツからの長旅の後なのに悪いな。 疲れただろ?」
本来なら、手塚は今日の昼間には日本に着いているはずだった。それが天候不良や乗り継ぎの都合で、夜になってしまったのだ。それでも律儀に来てくれたことに、大石らから労いや感謝の言葉がかけられた。
「問題ない。濃霧で離陸が遅延した時はひやりとしたが、参加できてよかった」
しばらく食事と会話を進めていたが、どうしても不二たちの方が気になった。
不二が何事か音に話しかけているが、先ほどから彼女の反応は薄い。会話の内容が気になったが、店内の喧騒が漏れ聞こえてきて、はっきりとは聞き取れない。手塚の様子に敏く気づいた大石が、言いにくそうに手塚へと耳打ちする。
「名字なんだけど、その、さっきまで日本酒を飲んでたんだが、すっかり酔ったみたいでな」
「大丈夫なのか、それは?」
見れば、不二の右手には徳利があるが、もしや酔った彼女にさらに飲ませようとしてているのではないか。
「不二のあれは水だよ。…あまり気にするな」
気にするなと言われてもだ。大石が気遣ってくれているのは伝わってくるが、話したかった彼女が酩酊状態でこちらを見ようともしてくれないのだ。気にしない方が無理だろう。
剣呑さを孕む気持ちを紛らわすように、手近にあった食べ物に箸を伸ばす。
その時、店内の喧騒を縫って、不二の声が妙にはっきり聞こえた。
「名前は恋人とか作らないの?」
ぽと、と箸から唐揚げが手元の皿に落ちた。それよりも、意識が彼女へ向く。
「………ええ?」
彼女がだいぶ間を置いて、うろんげに不二を見上げた。手塚の位置からは、不二の方を見やる彼女の後ろ姿しか見えないが、声の調子から彼女の表情が想像できた。
「音のそういう話、聞いたことないなと思ってさ」
「…………うーん」
見えない圧につぶされたような声を上げ、ずるずると上体を折ってそのまま机に突っ伏した。
これ以上自分にとって不快な会話を聞きたくなかった。深呼吸を一つして、立ち上がる。近づいて「名前、」と彼女の名を口にした時、
「………わたし、ほんとはまだ国光のことすごくすきなの」
自分で言って感情が溢れたのか、「うえーん」と彼女が泣き始めた。
「……違うっ人と付き合ってみたけどやっぱり違うくて、ぜんぜん続かないし、ドイツまで行く勇気も、なくて……」
堰を切ったように、彼女の口から言葉が出てくる。子供のように感情のまま泣きじゃくる姿は、明らかに泥酔したが故の泣き上戸であった。
着いて早々、会うのは数年ぶりだが、彼女に対して言いたいことがたくさんあった。
そんなに目元を擦ったらメイクが落ちるのではないか。おしぼりを持つ方の手と逆の手で不二の服をつかんでいるんじゃない。自分を失うほど酒を飲むな。
「さよならするとき、『だいきらい』って言っちゃったけど、そんなこと思ってないの。ちがうひとと付き合ったけど、やっぱり国光が一番かっこよくてやさしくてだいすきなの〜」
―――そういう本音は、まず始めに俺に言え。
これ以上彼女をこの場に置いておくのはまずいと判断し、二人で居酒屋を出ることにした。青学の面々からは、「名字のことよろしくね」「いい加減決着つけなよ、手塚」「データのために、ぜひ後日詳しい話を」等と言われた。
学生時代は、二人の問題だからと気を使って言うのを控えていたが、大人になって余裕が生まれた彼らは遠慮を捨てることにした。だからこうして手塚が帰国するタイミングで飲み会を開催し、ひたすら仕事に打ち込む彼女を呼び出した。
二人してお互いのことをいつまでもずるずる引きずっているのだ。いい加減、幸せになってほしかった。
◇ ◇ ◇
泣きじゃくる彼女をまさか自分の実家へ連れて行くわけにもいかず、酔った彼女に家はどこか問うと、財布の中から免許証を差し出してきた。記載している住所をタクシーの運転手に告げる。
自宅へと向かう道すがら、彼女は今までのことをぽつりぽつりと語り始めた。
手塚と別れた直後、手塚の連絡先を消して思い出の品もどこかへやってしまったこと。
違う人と付き合ったけど長続きしなかったこと。
新しい彼氏に「何か違う」と感じたのは、実は手塚の面影を相手に求めていたこと。 ―――本当は、手塚がくれたメモの切れ端(連絡事項等を書いて渡したことがある)とか、写真とか、捨てようとしてできなかったこと。
そこまで聞いて、手塚は彼女の肩を抱き寄せた。
「もういいから、寝ていろ。着いたら起こしてやる」
安心したようにほっと息を吐き、少ししたのちに寝息が聞こえてきた。服越しに彼女の体温を感じる。
アパート前に着いたが、おぼつかない足取りが心配で部屋の前まで付き添った。
鍵を開けたところまで見届ければ手塚の役目は終了だったが、「……お願いだから、寄ってってよ」と音が手塚の上着を放さなかったため、手塚は引かれるがままアパートの中へと足を踏み入れた。
玄関を入ってすぐの通路にキッチンがあり、進んだ先はリビング兼寝室のワンルームになっていた
小さな二人掛けのソファにローテーブル。それから本棚にパソコンラック、テレビにベッド。
彼女が好きそうな小物が配置され、初めて入る彼女の「部屋」に、妙な居心地になる。―――思い返せば、付き合っていた頃デートは基本屋外だったから、彼女の部屋に入るのはこれが初めてのことだった。
「つかれた〜」と彼女がソファの端っこに腰を下ろす。
「ね、遠慮しなくていいから、こっち来てよ。」
そう言って、己の隣を軽く叩く。
「もう酔いは醒めたか? 水は大丈夫か?」
「うん、平気。 みっともないとこ見せちゃって、ごめんなさい」
手塚は音の隣にでなく、彼女の前にひざまずき、そっと手を取った。冷たい指先が逃げようとしたが、手塚が先に指を絡め取るのが早かった。
妙な距離感に、音の頬が紅潮する。
「……ぶ、部長は、恋人とかできた?」
「いや、いない。お前と別れてから、できたことがない」
「うそ」
彼女が反射的に否定してきた。根拠のない否定だった。
過去に何回か近しい女性との仲を取りざたされたことはあったが、所詮はすべて売名だとか売上げ目的のデマでしかない。向こうで知り合ったエージェントだとか、同じチームの選手の友人だったりして、過去、手塚と深い仲になったのは目の前の女性以外いなかった。
「お前も恋人はいないのだろう?」
「う、…い、いるよ」
「それこそ嘘だろう。―――俺が好きなのは音だけだ。ずっと、お前のことが忘れられなかった」
酔いが醒めて理性の戻った彼女の瞳に、手塚が映る。手塚の瞳には彼女が映っており、合わせ鏡のようだと思った。目線をそらし、思案する彼女の手を優しく撫で、意識をこちらへと向ける。
「さっきみたいに名前で呼んでくれ。俺の傍にいてほしい。」
「……わたしなんていなくても、きっとそのうち、純粋にテニスをする国光を応援してくれる女性が見つかるよ。……わ、わたしは……ただずっと待つのは、無理だよ」
「名前」
「たぶんわがまま言って国光のこと困らせるし、さみしいのを我慢できないと思う。 だって、わたしなんかよりテニスを優先して、一人で決めて、どこかに行っちゃうんだから」
彼女の瞳に煌めきが宿り、両の目からぽろぽろと涙が宝石のように零れ落ちる。
「わがままは言ってくれていい。素直な気持ちを教えてくれ。テニスをやめることはできないが、俺にはお前が必要なんだ。必ずお前の許に戻ると約束する。だから、もう一度俺を選んでくれないか?」
「ううう……ずるい……」
彼女がとめどなく涙を流すので、右手を頬に添え、親指の背で涙をぬぐい取ってやる。触れた頬が、涙の温度より熱くて、やけどするのではないかと思った。手塚の手もいつしか熱を持ち、触れている箇所から溶けてしまいそうだった。
心臓の拍動が早くなる。
試合とは違う緊張感で体が強張ったが、彼女の涙を何度もぬぐう内、何も考えられなくなる。恥ずかしくてたまらなそうな表情をした彼女が顔を真横に背けようとしたが、頬に添えた手に力を込めて逃げれないようにした。
「……ずっと好きだよ」小さな声に、「俺もだ」と確かな口調で返し、そのまま唇を重ねた。
感触を確かめるように何度かふれあい、名残惜しく思いながら離れる。
「……今日、泊まってく?」
彼女の誘いに男として心が揺れたが、さすがに復縁して早々に泊まるのはと己の理性が歯止めをかけた。
「いや、今日は一度家に帰ろうと思う。明日はもともと休みだが、…二人で会えないか?」
「うん、いいよ」
ようやく、彼女が手塚を見て笑ってくれた。
◇ ◇ ◇
中等部時代には青春が全部詰まっていた。
初恋の人に告白して、付き合えるようになったときは心臓が胸から飛び出るんじゃないかってくらいどきどきした。
彼が一人でドイツ行を決めて旅立ってしまったときは、一生の別れになるんじゃないかってくらい大泣きした。
自分はなんにでもなれるし青春の先にはきらきらしたものが待っているんだと信じて疑わなかったけど、それは彼の喪失とともに霧散して消えた。
彼のいない高等部は、楽しい思い出で満ちているけれど、いつも心のどこかに引っかかるものがあった。
そのまま大学を卒業して就職したけど、平凡な生活の中で心ではいつも彼を求めていた。
今、手を伸ばせるほど近くにいる。また遠い場所へ行ってしまうけれど、最後に帰ってくるのはわたしの隣だと言ってくれた。
約束の代わりにキスをねだれば、望んでいた感触が降ってくる。
幸せで、ようやく世界が色を取り戻し始めた気がした。
<<