ふたりぼっちの異世界同盟


 月の無い晩を選び、カナは宿舎の扉を叩く。顔を見せたのは猫背の男で、「こんばんは。おじゃましてもいいですか?」とカナは力なく笑う。―――彼女の表情から用向きを察したノボリは、「作業で散らかっていますが、よければどうぞ」とカナを室内へと招き入れた。



 ノボリはカナと同じように――故郷が同じかまでは分からないけれど――時空の狭間から落ちてきたと思われる人間だった。

 シンジュ団のキャプテンでありオオニューラの世話をしていたが、現在はコトブキムラに身を寄せている。訓練場にポケモン勝負の指導と謳ってバトルに熱を上げていた。

 カナの隣ではないがコトブキムラに宿舎を借りており、たまにどうしようもなくなると、カナはこうして同じ境遇にあるノボリの許を訪ねる。彼の前でだけ、カナは心の中で抑えている本音を打ち明けることが出来た。

―――元の世界に帰りたい。ともだちに、両親に会いたい。

 両の目からぽろぽろ涙を零すカナに、ノボリは上辺だけの言葉はかけたりせず、いつもカナの気が済むまで胸を貸していた。けれど、今日はいつになくカナは気落ちした様子だった。

「……おかあさんに、会いたいです」

「…… カナ様のお母さまはどんな方だったんですか?」

「どう、でしょう……もう、あまり思い出せなくて……」

 それは、と続けようとした言葉は、けれど音として出てこなかった。普段は感情を映さない灰褐色の瞳が、動揺に揺れる。

 この世界に落ちてきた時には既に記憶を失っていたノボリと違い、カナは元々、自分がいた世界の記憶があった。

 アルセウスというポケモンから「すべてのポケモンとであえ」と命ぜられたカナは、その使命を果たせば元の世界に帰れると信じて、ひたむきにヒスイを襲う異変に立ち向かった。


 キングやクイーンとの試練の最中にノボリと出会い、ノボリの境遇を知るともしかしたら同郷かもしれないと嬉しげにし、記憶が戻るきっかけになればと元の世界のことを色々と語って聞かせてくれた。


 けれど全ての異変を解決し、時空の裂け目でアルセウスと再会を果たしたが元の世界には帰れず、そればかりか徐々に元いた世界での記憶を失いつつあった。

 誰に相談したらよいかわからないと、ひどく困惑した様子のカナがノボリの許ねて一夜を過ごした後、それから月の無い晩が来ると決まって訪れるようになった。

 
 記憶が薄れていることを自覚し、日々変わっていく自分を自覚し、いずれ自分がどこから来たのかを忘れてしまうことに、カナはひどく怯えていた。

 残酷な現実から目を背けたくて昼夜問わず依頼や調査に取組むが、宿舎で一人の静かな時間を得ると、途端にどうしようもなくなるらしい。そして、ノボリに助けを求めて彼の宿舎までやってくる。

「かえりたい」

 帰りたい。
 自分が自分でいられるうちに、大切な人たちのいる世界に。

「みんなに、会いたい」

 カナがこんなことを言えるのは、ノボリだけだった。

 テルやシマボシ隊長たちに伝えたところで、彼らにはどうすることもできない。医療も未発達なこの土地で、薄れていく記憶をつなぎ止める方法など無いだろう。カナは、彼らに打ち明けられなかった。

 ノボリとて、彼女に解決策を与えてやれるわけではない。けれど彼は、おそらくこの世界にいる誰よりも彼女の悲しみに寄り添ってやれた。

「わたくしは、始めから記憶は空っぽでした。……名前や年齢は分かるのに、家族やそれまでの経歴は何も覚えておらず……、ですがポケモンを手懐けることができたので、こうして生きてこられました」

 記憶はなくとも、体に染み付いた経験がノボリに生きる術を教えてくれた。

 ノボリを保護してくれたシンジュ団が着るものや職を、居場所を与えてくれた。一人でも生きていけたかもしれないが、そうしたらきっと記憶以外にも、ノボリから「人として」の何かを失わせてしまっていただろう。

「記憶を失くすことは確かにお辛いでしょう。……その辛さはカナ様ご自身でなければ図り兼ねるのかもしれませんが……、貴方は貴方です。記憶を喪ったわたくしが忘れなかったものがあるように、貴方の中にも残るものがあるはずです。それを道標に、これからも元の世界への帰り道を捜しましょう」

 神話の中でしか人々の中にいなかったポケモンと直接対峙した彼女ならば、こちらに来た方法でなくとも、また別の帰り道を見つけられるのではないかと思っていた。


 ノボリは、カナの頭を優しく撫でる。
偉業を成し遂げた、シンオウ様の寵愛を受けているにちがいない、と人々は誉めそやすが−−−ノボリの前にいるのは、自身の置かれた境遇に今にも折れそうな十五歳の少女だった。

 人は何かを失い、何かを得て生を歩むもの。
ノボリはとうに――元来の性格もあるだろうが――受容しているが、この少女にも同じものを求めるのは酷だろう。

「ノボリさん……」

 色を失った頬に手を添えて上を向かせれば、涙に濡れた薄墨色と、灰褐色の視線が絡み合う。寂しさに耐えきれないと、#name3#の欲するものを察したノボリは、僅かな迷いを捨てると彼女の唇に己のそれをそっと重ねた。


 彼女を見ていると、遠い過去に置いてきたものが思い出された。今のカナはまるで、ヒスイに来たばかりの自分を見ているようだった。
 ならばこれは、同じ境遇にある者同士が傷を舐め合う行為なのかもしれない。


 哀れみと慰め―――彼女の喪失が心穏やかなまま過ぎるようにと祈りを込めて、ノボリは彼女が泣き疲れて眠りについた後も、朝の訪れに目を覚ますまで、カナを腕の中に抱いていた。



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