ここからそこまで、心臓ふたつ


 わたしの旦那さんは、家が三つある。

 一つは忍術学園ーーー旦那さんは、子供たちに物を教える仕事をしているのだ。
 全寮制の学校のため、学校が休みの日以外は基本的にそこで生活していた。

 二つ目は隣の領土のとある町の長家。
 旦那さんが独身時代から借りている家で、生徒の一人と同居している。その子が一人立ちできるようになるまでは借り続けるつもりらしく、休みの日に掃除などを兼ねて帰宅しているのだ。
(どうしても旦那さんたちが帰って来られない時は、わたしが代わりに風通しを兼ねて掃除している。)

 三つ目が、わたしと旦那さんの二人で暮らす用の家。
 結婚するときに借りたのだけれど、上で説明したとおり旦那さんは仕事にかかりっきりなのと、たまに休みがあってももう一つの家の手入れや向こうの町内会の当番で忙しいとかで、三つ目のこの家には滅多に帰って来ない。


 近所に住む人の中には滅多に帰ってこない旦那さんを怪訝に思う人もいて、「旦那さんってどこで、何してる人なの?」と聞いてきたり、「そんな旦那いっそ捨てて、家に帰ってきてくれる人を探したらどうだい」って冗談交じりに言ってくる。

 でも世の中にいろいろな夫婦がいるように、わたしと旦那さんは、多分いまの距離感くらいがちょうど良い。

 亭主達者で留守がいい、結婚してから好きになった言葉だ。
 家事は一人分だけで良いし、自分の時間を自由に使える。
 気ままに女が一人暮らしをしていると、未婚と勘違いした男が言い寄ってくる。そんなときに「結婚していて、旦那がいるんです」と言えば、たいていは効果バツグンだ。厄介ごとから逃げたいときに使える、いちばん良い言葉。



 三つ目の家を借りるとき、すでに旦那さんは借家を持っていた。すでに家がある上にこちらの家にあまりいられない中で家賃を負担させるのは忍びなくて、「わたし一人で住むようなものなのでいりません」と断ったものの、「妻の面倒を見るのは夫の務めですから、私が出します」と互いに主張して譲らず、業を煮やした大家さんが「どっちでもいいから早よサインしてくれんか」と叫んだことで、わたしがびっくしている隙に会話の主導権を握った旦那さんが、夫婦折半(向こうが若干多目)ということで話をつけてしまった。

 思い返せば些細な衝突なのだけれど、あの時は互いに一歩も譲らなくてやきもきした。

 きっと毎日顔を合わせていたら、またああしてぶつかっていただろうし、お互いの嫌いな部分が見えて、今とは違う仲になっていたかもしれない。
 
 だって旦那さん、顔が良いし性格も穏やかで優しいという文句なしの丈夫なのに、生活力がほんとうに「無い」。

 気を抜くと汚部屋にするし、服が汚れたりほつれがあっても頓着せず、身だしなみに気を遣わないところがある。
 結婚してだいぶ改善されたけれど、旦那さんみたいな人って、仕事に意識を全振りした結果、他事が疎かになりがち。

 優秀で意欲があるからこそ、ワーカーホリック気味で自分じゃブレーキかけられないタイプ。若い時はいいけど、年を取って体力気力が衰えたら無気力になると見た。……話が逸れた。


 それはさておき。


ーーー旦那さん、最近どうしてるんだろう。

 前回帰ってきたのはいつだったか、思い出せないくらいすっかりご無沙汰な旦那さん。

 初夏の頃に『夏休みに一度、そちらに顔を出す』、秋の暮れに『年の瀬には帰る』と連絡があったが、結局、旦那さんは帰って来なかった。
 受け持ちの子たちの補習や授業の準備などで忙しかろうと思えど、詫びの便り一つくれないのってどうなんだろう。……もう、慣れたけど。

 慣れてしまうくらい、色々あったのだ。

 久方ぶりの帰宅を一年は組の子たちの補習で無しにされたときも。
 「先生は大変ですね」って、それよりもちゃんと休みは取れているのかを心配した。

 温泉にでも行こうかと話していた約束を、学園長の突然の思いつきによる催しで反故にされたときも。
 「すまない……」って謝る旦那さんに、「気にしてませんから」って何ともないように笑って流した。

 旦那さんがやっとこちらの家に帰って来られたのは、梅の花がほころぶ頃だった。明るいうちに帰って見えて、日が暮れる頃にはまたへ発つらしい。

 面倒を見ている子がアルバイトを終えて向こうの家に帰ってくるので、夕餉の支度をしないとならないという。夜はそのまま向こうの家に泊まって、明日一緒に学園に戻るのだとか。

ーーーあのねえ、旦那さん。今日やっと帰ってくるっていうから、わたしも……

 いろいろ言いたいことをぐーっと飲み込んで、「このくらいの頻度で帰ってきてもらった方が、かえって嬉しいが勝ちますね」なんて皮肉混じりの冗談を言い、何も言い返せない旦那さんを見て溜飲を下ろした。

 そんなことが続いて。

 授業の一環として臨海学校に行く生徒の子たちに、授業とはいえ旦那さんと海を見に行けるなんて羨ましいと、つまらない嫉妬をしてしまったとき。 
 『あ、これはよくない』と自覚した。


 旦那さんが、前はいつ帰って来たのかあやふやだ。
 このままじゃわたし、旦那さんの顔も忘れちゃうんじゃないか。


+ + + + +


 自室に戻ってきた山田 伝蔵は、もはや休み明けお馴染みの光景となりつつある同室の人物の様子に、呆れたように声をかけた。

「……半助、一応聞いてやるが、何をやっとるんだ」

「…………」

 返事はない。部屋の隅に向かって、膝を抱えて座り込んでいる。そこだけなんだかじっとりジメジメしていて、きのこかなんかが生えてきそう。背中に陰鬱な影を背負った同僚がぐすぐすしている。「……半助」重ねて呼びかけると、ようやく土井が山田の方を見た。

「山田先生、もう私は駄目かもしれません…。」

 また帰ってやれなかった、今度こそほんとうに嫌われてしまったかもしれませんと付け足すように呟く。
 忍術学園で起きる騒動の九割を占めるあの一年は組の教科担当を務め、胃痛頭痛に悩まされながらそれでもこんな風に弱音を吐いたことはなかった。

「アンタ今度は何をしたの?」

「……なにもしていません。むしろ、何もしてやれていないのが問題なんです」

 言葉にしたことで自責の念がこみあげてきたのか、土井は、うぐう、と雑巾みたいに引き絞られたかのようなうめき声を漏らした。山田はその背を撫でてやる。

「しっかりせんか。 この休み中、家に帰らなかったのか?」

「長屋の方の町内会の当番やアルバイトの手伝い、内職にかかりっきりで……」

「まさか帰ってないのか……?!」

 臨海学校の振替として、短い休みがあったのに。
 この部屋で泣き言もらすくらいならちゃんと会いに行きなさいよ、と山田は思った。

「名前さんの寝顔だけ見て帰ってきたんですが、もう何ヶ月もまともに話せていないんです。あの子寝言言わないから。 嗚呼、名前さんの声が聞きたい、手を握りしめたい」

「重症ですなあ……」

 あまり大っぴらにはしていなかったことだけれど、実は土井 半助、結婚していた。
 既婚者。所帯あり。つまり嫁がいる。
 結婚して二年目。結婚して早々に単身赴任になり家を留守にしがち、子もまだいない。

 お嫁さんは、土井先生より五つ年下で、山田 伝蔵の妻の遠縁の親戚の子だった。
 愛嬌のある顔立ちで、優しく聡明な娘だ。忍者ではなく庶民の家の出で、土井先生の仕事がどんなものかを知り、そしてひたむきな愛情を示してくれていた。
 この娘なら、と山田夫妻も太鼓判を押して土井先生に紹介できたし、土井先生自身も彼女のことを好いているのが明らかだったので、お見合いから婚姻までとんとん拍子で進んだ。ーーー順調に進んだのはここまで。


 話に聞くと、土井先生はお嫁さんのことをかわいく愛おしく思っているのに、なんとなかなか家に帰れないでいるときた。「帰れない」のではなく、実際は家に帰っているのだけれど、それはお嫁さんが眠っている真夜中に訪ねているというのだ。
 土井先生の戸棚の中には、お嫁さんにと購入したものの渡せずにいる品物が多々しまわれていた。

 山田自身にも妻子がおり大切に思っているので、土井先生がお嫁さんつまらない態度を取って夫婦仲が拗れかけているのはとても心配だった。あの子と土井先生の仲を取り持ったのは山田夫婦だからなおさらだった。



「土井先生、いらっしゃいますか」と外から声がかかる。

 事務員が戸を開け、間近にいた山田、次いで壁に向き合っている土井の背中を見る。事務員と土井先生との間に割るように立ち、用件を問うた。

「土井先生は生憎、取り込み中だ。如何した?」

「はい、あのう。土井先生に用事があると、お客さまをお連れしました」

「ーーー山田さま。ご無沙汰しております、名前です」

 ガタタッ

「俄かの訪問、申し訳ございません。夫に会いに参りました」

 あんれまぁ、と山田は目を丸くした。足音からもう一人ーーー女人と察していはいたが、まさかお嫁さん自ら土井先生のいる職場に会いに来るとは。

 山田が後方を振り返ると、名前の声を聞いて壁に頭を打ち付けてしまい、どうしようもなくなっている情けない姿があった。

ーーーいい加減腹をくくれ、半助
と、矢羽音を飛ばした。


+ + + + +


 わたしは挨拶もそこそこに、訪問した理由の説明を飛ばして、旦那さんに「着物を出してくださいな」と告げた。

 ちくり。ちくちく。

 針を進め、ほつれたところを縫っていく。チョークや泥で汚れた着物に「先に洗濯したほうがよかったかな……あ、でもそうしたら縫えないか……」とつぶやく。

 旦那さんは隣に座っている。山のようにため込んだ着物を差し出し、いたたまれなさにどこかに行こうとしたのを「どこに行くんですか? お茶でしたらおかまいなく」と暗に引き止めると、おとなしく縁側に腰を下ろした。

「名前さん」

「はい?」

「……すまない。その、……すまなかった」

「ーーー旦那さん」

 わたしは手を止めて、夫の方を向いた。

「わたし、怒っていませんから。それに今日は謝罪を聞きに来たんじゃないんですよ」

 夫婦仲が悪いわけではないのだけれど、家に帰る時間を取れなかったりご近所との付き合いなんかをこちらにばかり負担を強いて。旦那さん自身、良い夫とは言えない自覚があるのだろう。

「……なんで会いに来なかったんだ、とか怒らないんですか?」

「お仕事だったんでしょう? 仕方のないことです」

 旦那さんはこちらの手元を見たまま言った。一針二針とまた布に糸を通しながら、わたしは返した。

「……でも。……寂しかったりとか、したでしょう……?」

「まあ確かに、寂しくないかと言われれば嘘になりますが」

「やっぱり……!」と旦那さんは慌てたように口を挟んだ。それを制するように続ける。

「だってそれはわたしの問題ですもの。寂しいのも、悲しいのも。 旦那さん、お仕事が大変そうだったから、邪魔したくなかったんです」

 でもねえ、とわたしは続ける。

「こう帰ってきてくれないと、旦那さんの顔を忘れちゃうんじゃないかって不安になるんです。ーーーだから、こっちから押しかけちゃいました」

 わたしは顔を上げて、旦那さんの方を向いた。じっと見ていると、今まで青かった顔はどうしてか色を変え、赤く染まっていく。そして、直視されるのはたまらないとばかりに、今度は旦那さんが顔を下げてしまった。

「ねえ旦那さん、久しぶりにこうして二人で話せてとてもうれしいですよ」

 旦那さんは咄嗟に何かを言おうとして失敗したような様子で、口を開いて言葉を詰まらせたあと、「……私もです」とだけどうにか返した。

 そんな夫の様子に、小さく笑いをこぼす。

「お聞きしますけど、わたしが嫌いだから帰ってこないわけじゃない、ですよね…?」

「! き、嫌っているなんてとんでもない! 名前さんと夫婦になれて、私がどれだけ嬉しかったか……」

 慌てて顔を上げた旦那さんは、ハッとしたように言葉を止めてさらに顔を赤くした。
 焦って口をついて出てしまったのだろう。青くなったり赤くなったり忙しい旦那さんの顔を、改めてまじまじと見た。

 事務員の方に案内されて部屋の前にたどり着いたとき、ちょうど旦那さんの声が聞こえてしまった。あの言葉から察するに、旦那さんは夜に帰ってきていたらしい。
 ちっとも気づかなかったことにびっくりする自分と、旦那さんは忍者だから気配とかそういうのを消すのが上手なのだろうと冷静な自分がいた。

ーーー帰って、来てたなら、起こしてくれたらよかったのに……

 夜中だろうと明け方だろうと。帰ってきていたのなら教えてほしかった。
 そのときどきで話したいこと、聞きたいことがあったのに。

……というか、寝顔を見られていたなんて。寝ているとき、自分がどんな顔をしているのか分かったものじゃないので、旦那さんのそういうところは良くないなので、頭の中の『直してほしいことリスト』に追加で書き加える。


 旦那さんの様子を窺いつつ、手を伸ばして彼の袖を軽く摘まむ。彼は私の手元と自分の袖の部分を凝視している。まじまじ見ると、ほんとうにわたしの旦那さんは顔がいい。あ、目元に隈ができてる。前髪も傷みぎみだなあ。

「今度はこちらからも会いにきていいですか? 旦那さんだけわたしの顔を見ていたなんて、不公平じゃないですか……ちょっ、と、…!!」

 ぽけぽけ旦那さんの顔ばかり見つめていたら、彼の袖をつまんでいた手をつかまれて、そのまま引き寄せられるように腕の中に囲い込まれた。慌てて離れようとするけれど、力が強くて離れられない。身体が密着したことで彼の心音がこちらにも伝わってきて、わたしの顔まで熱くなってきてしまう。

「次からはちゃんと昼間に帰るようにします」

「…っ、当たり前です。 それとできればこまめに手紙が欲しいです。頻繁には難しくても、せめて時節ごとにくらい」

 わたしがそう言うと、腕の力はさらに強まって。
ーーーもう、苦しいです! と、抗議の声を上げるも封殺されてしまう。
 この、身体全体で『好き』を伝えてくる旦那さんを、誰かどうかしてくれないか。

 そう思ったとき、廊下の角からにぎやかな声がした。「土井せんせー」旦那さんを呼ぶ声と、ぱたぱたという足音が、たくさんこちらへ近づいてくる

「あーっ! 土井先生が女の人をぎゅってしてるー!」と元気な声をきっかけに、11人の小さな子たちにわっと周りを囲まれて、質問がぽんぽんぽんぽんと飛んでくる。旦那さんに放してくれと懇願するも「すみません体が言うことを聞かないんです……」と困り顔。

 そろそろ仲直りしたかと様子を見に来た山田さまが呆れ顔で引きはがしてくれるまで、この状態は続いた。

 結局、着物の繕いは終わらなくて、旦那さんに「洗濯と繕いが必要なものは次の休みに持ち帰る」と、それから面倒を見ている男の子を我が家に連れてくるという約束を取り付けた。次の休みが楽しみで、帰路につく足取りは弾むように軽かった。



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