いたくなるのは心臓でしょうか


 セトに王位継承権が戻ったことで、カナも正式に第一王子の婚約者として認められることとなった。

 一度は白紙に戻った婚約だったが、改めて日取りは来年の春に決まった。それまでの間は、セトの所有であるバステア城に逗留が決まった。

 初めてこの城に着いた時は、婚約者というのは名前ばかりでその実、フォルトナを手に入れるための人質のような立場だった。また、属国の王女たちも滞在しており、花嫁候補が複数いるという不安定な状況であった。そのため、城に仕える者たちはカナを腫れ物に触るように接した。あの頃のセトは、カナとの関わりを積極的には持ちたがらなかったし、当然ながら居室も別々だった。

 けれど今回の入城では、婚約者という立場は同じだが、カナを取り巻く環境は大きく変わった。カナの荷物や、以前使っていた部屋の調度品などをセトの居室に移す形で同室になり、セトが城にいるときは食事を共にし、当然のように寝室も一緒。
 空いた時間があればセトはカナを傍に置こうとし、寝台の中ではカナを後ろから抱きしめるようにして眠った。

 最初の頃は心臓がうるさく早鐘を打ち、眠りに就くどころではなかった。
 そんなカナの気持ちを他所に、セトは抱きしめる以上のことは決してしてこなかった。そのような日々が続くと、抱き枕にされるのも慣れてしまった。
 真っ暗な天蓋の中で、深い眠りに落ちた者の息遣いが聞こえてくる。もうほんの少し身を寄せてくっついたら、胸の鼓動が聞こえるかもしれない。―――そのくらい、セトと過ごす夜は静かだった。

(………今日もなんにもなし、か)

 青い瞳を伏せ、カナはそっと息をついた。



「あーーー……」

 ソファに倒れ込むなり、カナは魂が抜けていきそうな声を出した。
 テーブルの支度をしていたアンが、心配そうな表情を浮かべる。

「どうなさいました、アリシャ様?」

 カナのことを『アリシャ』と呼ぶ彼女は、元はバステア城で働いていたメイドだった。危ないところをカナに助けられた出会いから彼女付きのメイドとなった経緯がある。
 ガルガダ最下層の監獄へ収監されたり、フォルトナへ送り還されるカナにどこまでもついてきてくれた、今や心強い味方の一人だ。

 一介のメイドでは想像もつかないほどの苦難に幾度も味わい、そのどれもを強く乗り越えてきた彼女だけれど、カナの一喜一憂に反応してくれる素直な性格は出会った頃から変わらない。
 動物の世話を終えて帰ってくるなりソファに力尽きたカナに、何があったのか聞こうとしてくれる。

「アンちゃんー。暇だよー」

 セトは出かけてしまったし、ニィナもミーヴァも遊び疲れて今は寝床で休んでいる。
 カナだけが特にすることもなく、時間を持て余していた。

暇で暇で、足に根っこが生えてしまいそうだ。

 そう悲しそうに言うカナに、「暇、ですか」とアンは首をこてんと傾ける。
 具合が悪いとか、気分を悪くするようなことがあったのではないようで、ひとまず安心する。

 『アリシャ』には心安く過ごしてほしい。アンを始め、城の人間はほとんどがそう思っていた。そのくらい、城の召使いたちは彼女を慕っていた。

 アンが城に仕えはじめた頃、城内の空気は常に殺伐としていた。
 『アリシャ』と出会う前のセトは、決して他人に心を許さず、近寄り難い雰囲気を纏っていた。属国の姫君たちはいつ不興を買いやしないかと怯えながら過ごしていたし、側近の中には身分を盾に好き勝手振る舞う者がいて召使いや兵士に暴力をふるっていて―――誰しもが、いつも何かに対して緊張していた。

 それを変えてくれたのが、『アリシャ』という存在だった。今では侍女や兵士たちは朗らかな態度を取り戻し、『アリシャ』に居心地良く過ごしてほしい、いつまでもこの城にいてほしいと思っていた。

 アンがカナの相手をしている間に、もう一人の侍女・ヒカミは、色とりどりのお菓子をテーブルの上に並べ終えた。タルトやバターケーキ、砂糖漬菓子、干菓子などが互いの色を引き立たせるように綺麗に配置されている。

「アリシャ様、そういうときは甘いものをお召し上がりくださいませ。今日は新作のお菓子もありますよ」

「今日もとてもおいしそうだね」

 そうでしょう、とアンは抑えきれない笑みを浮かべる。「おいしいものをありったけ」―――そのように命を受け、厨房係はいつも腕によりをかけて作ってくれているのだ。

「セト様に、外出を願い出てみてはいかがですか」

 カップに飲み物を注ぎ、カナの前に差し出しながらヒカミが言う。

「王都に呼ばれるのはまだ先ですし。遠乗りでもなさったら、良い気晴らしになるのではと」

「わあ、それは良いですね!」

 アンが頬を僅かに染めて、良い考えだとヒカミの言葉に賛同する。

「セト様なら、すぐにでも連れて行ってくださいますよ」

「そうかな。……でも最近、セト忙しそうだし」

 セトが城を空けて(フォルトナへ連れて行かれて)いる間、領境で小規模な乱がいくつも起きていたという。ガルガダは大国であるが、内の領国は戦乱や政略によりガルガダに取りこ込まれた、かつては王国だったものたちである。争いの火種は未だ残っており、どこで芽を出すかわからない。

 領土の平定のため、セトは不在だった分の穴を埋めるように連日、政務に当たっていた。

 仕方ないとはいえ、昼間は落ち着いて話せる時間があまりない。セトの周囲には、いつも側近や臣下がいた。そのような状況で、遠乗りに行きたいと言ったとして、困らせたりしないだろうか。
 それよりも。
 第一王子の花嫁としてではなく、セトの伴侶として、彼のために何かしたい。
 そんな思いを抱くほどセトといることに幸福を感じている自分を自覚したのは、つい最近。

「あたしって、セトのためになってるかな……」

 アンは心配そうにした。ヒカミも、カナの表情を注視する。

「…どうされたんですか、アリシャ様らしくないですよ。セト様もきっと、二人っきりになりたいはずです。お二人は恋人同士なのですから」

 寝室は同じだが、抱きしめてくるだけで契りも交わさない男女―――それを、恋人と言えるのだろうか。
 一人で答えの出ない問いを考えていると、胸のあたりがぎゅっと苦しくなった。
 アンの言うとおり、らしくない。


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 夜の寝室にて、カナは緊張した面持ちで待っていた。やがて入口が開き、夜着に着替えたセトが入ってくる。

「ねえ、セト。話があるんだ」

「なんだ」

 広い寝台の中、端に腰掛けるカナの隣にセトも腰を下ろす。
 カナの話を聞いてくれる雰囲気に、カナは僅かに緊張を緩める。無表情だけれど、カナを見下ろす視線は柔らかい。
肩が触れ合おうかという距離に、彼が来てもいやでなくなったのはいつからか。
白磁のような肌は、彼の静謐な雰囲気と相まってどこか生気を感じさせない。眠っている時につい呼吸を確かめそうになるくらいに。
ちゃんと温度があることも、カナより少し体温が高いのだということも、固く繋いでくれた手が教えてくれた。

「あの、あのさ……セトは、あたしといてどうかな?」

「……どうとは、どういうことだ」

 セトに問い返されて、カナは自分の的を得ていない質問を反省した。セトの目が、訝しげにカナを見る。

「飽きたり、つまらなかったりしてないか?」

カナは胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。

「あたしにして欲しいことがあったら言って欲しい。何もしないでセトが帰ってくるのを待つんじゃなくて、……セトが帰ってきた時に安らげるようにしたいんだ」

 侍女に頼めば済むようなことでもいいから、セトのために何かしたかった。
何もしない日々の中で、己が何者でもなくなっていく感覚。
「カナ」という存在を見出してくれるセトの傍に、もっといれるようになりたかった。

「何を言い出すのかと思えば」

 セトがため息を一つ零す。呆れている、というよりは張っていたものを緩めたような。
 なんだそんなことか、と言いたげな気配が伝わってくる。

「それなら、お前にしかできないことがあるだろう」

 それって、と顔を上げたカナの顔に、影がかかる。肩を抱かれて、ぐっと引き寄せられる。至近距離にセトの顔があって、その瞳にカナが映っているのが見えた。
深い真紅の瞳に吸い込まれるような心地のまま、互いの唇が触れ合う。何度か唇を食まれやっとキスされているという現実が追いついてきて、カナはきつく瞼を閉じた。
頬に手が添えられ、上を向かされて口付けが深さを増す。心臓がどくどくとうるさい。初めて抱きしめられて過ごした夜とは比べ物にもならない。恥ずかしくてたまらないけれど、いやではなかった。
むしろ、心のどこかでこうされることを望んでいたことを自覚して、たまらなくなる。

振り払うこともせず、セトの腕の中でされるがままになっているカナを見つめ、目元を緩ませる。カナはセトのことを無表情だと思っているけれど、カナの見えないところで彼女のことを考えているセトは結構、常と比べて感情が見えやすい。
口付けひとつだいっぱいいっぱいになっている今のカナならば、セトの意思一つで簡単に押し倒してしまえそうだ。

どれくらいそうしていたのか。ようやく唇が離される頃には、カナはセトの腕の中で顔を真っ赤にしていた。
カナの目尻に滲んだ涙を、セトが親指の腹で拭ってやる。

「どうだ、『お前にしかできないこと』だぞ」

腕の中に閉じ込めて、その温もりを独り占めする。他の誰にも、二度と触れられるのを許さない。
このような感情、煩わしいだけのものと思っていた。ーーーまさか自分が持つようになるとは、あの頃のセトは思いもしなかった。

「セ、セトは……もうこういうことしてくれないのかと、思った」
「なぜだ?」
「だって、いつも抱きしめるだけで、何もしてこないから……」
「待てと言ったのはお前だろう。その代わりに抱くのならいいと許したのも」
「えっ、あ……あのときの!」

初めてガルガダの首都に招かれた時。『好きが入っていればいいのだろう』とセトにキスされたと、カナは自分が言った言葉を思い出した。
 セトは、『そういうのは待って欲しい』というお願いを律儀に守ってくれていたのだ。

幼くて恋がまだ何か分からなかったカナ。
あの時はフォルトナから会いに来てくれたアズと、許嫁であるセトの間で揺れていて、思えば不実な約束をしてしまった。




―――本当に、
 王女としての責務を果たすため、祖国を発ったのも。
 『アリシャ』という衣を捨てて良いのだと言ってくれたアズールを断ったのも。
 暗闇でひとりぼっちの彼を見つけ出し、傍にいることを決めたのも。
 ぜんぶ、カナが自分で選んで決めたことだ。

 行動で分かってくれているものと思っていたけれど、大事なことは口に出さねば伝わらないらしい。
 目を閉じて自然と浮かぶのは、雪のように静かで、炎のように激しい気性を持った、美しい人だ。
 カナの心は、もう紅玉の輝きでいっぱいなのだ。

「好きだよ、セト」

 想いをめいっぱい込めた唇で、セトのそれにそっと重ねた。



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