落ちた先はしあわせのくに


 麗に所属している者は老若男女を問わず、その生い立ちや組織に加わった経緯もまたそれぞれだった。
 実力を見込まれて麗に引き入れられた者ばかりだが、身寄りのないところを組織の者に引き取られ戦闘訓練を受けたという者も少なくなかった。
―――その中で、名字 名前の事情は、少し違っていた。

 両親は共に健在で、日本の平均的な家庭で育った彼女は、同年代の子たちと同じように高校に通い、友人だっているし、将来への展望もそこそこあった。
 両親はサラリーマン(給与をもらうという意味ではそう)だけれど、C−COM財団の私設研究所に所属し、魔道具の研究・複製品の製作などに携わる研究者であった。

 科学の理解を超えた魔道具の究明に心血を注ぐ両親は、ネグレクトまではいかずとも放任主義を掲げ、家庭よりも仕事を優先する生活に身を置いていた。たまに家に帰ってきたと思えば、生活に必要なものなどを置いて、それでもすぐにまた出ていってしまう。
 そのことについては、昔ほど何も思わなくなった。
 名前は両親が強く出られないのを逆手に取り、ならこちらも好きにやらせてもらいますと、自分の両親とは異なるやり方でC−COM財団の裏側と関わる道を選んだ。

 黒衣の炎術士を首領に戴き、十人の幹部と数多の戦闘員からなる殺戮集団『麗』。
 名前は、学校と家にいる時間以外はそこで戦闘の訓練を受ける、麗の一員だった。


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 ぐるりと世界が回転し、どしゃっと体が床に打ち付けられる。

 また負けた! 師匠は武器を使っておらず、素手だったというのに。

 灰色の天井でいっぱいの視界の中に、師匠の雷覇が影を作って覗き込んできた。

「呆けてないで。立てますか?」

「…はい」

 差し出された手を素直に掴むと、思っていたより強い力で引き起こされる。普段はにこにこして雲のように掴みどころがない人だけれど、こと戦闘において容赦は一切ない。

 雷覇に一太刀でも浴びせられれば名前の勝ちだ。魔道具を使うもよし、飛び道具や暗器などを使って良い。どんな手を使ってもいいから、己に傷を与えてみよと。

 それが雷覇と戦う上でのルール。
 白星を上げられることはなかなかなく、今日も三度続けて地面の味を覚えさせられてしまった。

「ありがとうございました。 結構鍛えているつもりなんですけど、やっぱり師匠には敵いません」

「あなたは分かりやすいですからねぇ。次の手が読めれば、その裏をかくのは容易いですよ」

 分かりやすい、という指摘に「単純ってことですか?」と名前が問う。

「自分で考えてみなさい。すぐに正解を教えてしまっては、あなたのためになりませんから」

 名前は真っ向から攻撃を仕掛けてくるときに、分かりやすい「癖」というものがある。初見で相手を倒せれば良いけれど、何度も攻撃を受けた熟練の相手には見抜かれてしまう危ういものだ。

 真正面からやり合う必要はないと、雷覇は名前に指導していた。騙し討ちをしてもいい、卑劣な手を使っていい。状況によっては多勢に無勢、一対多数、どこから来るか読めない敵と闘うときもある。死を前にした敵が、どんな手段を取ってくるのか。与えられた任務を果たすためには、正攻法になどこだわってはいられない。

 入口の方を見た名前が、あっと嬉しそうな声を上げた。

「紅麗さま!」

 礼を取ろうとするのを手で制し、紅麗が仮面を外しながら近づいてくる。
 紅麗は師匠である雷覇の直属の上官であり、名前にとっては上司のさらに上司にあたる。立場的には。

 それを置いて、名前にとっては親しい関係にあった。彼はたまにこうして名前の訓練の様子を見に来てくれる。

「訓練の調子はどうだ?」

 その質問に答えたのは、師匠である雷覇だ。

「良い具合です。まだ拙さはありますが、魔道具の扱いも上手くなりました」

 そうか、と紅麗は傍に来た名前を見下ろす。紅麗が様子を見に来てくれたことが嬉しくて、自然と笑みが浮かぶのを隠せなかった。そんな名前を見て、紅麗の方も自然と柔らかいものになる。

「励んでいるようだな」

「いいえ、まだまだです。今日も師匠から一本も取れませんでした……」

「雷覇は強いからな。そうそう勝ち星は取れまい」

 麗の首領であり尊敬する主君から師匠への賞賛。
 紅麗と雷覇は互いに強い信頼で結ばれている。それは何度も共に任務を遂行してきたこと、雷覇の忠義を紅麗が良く理解していること、様々な出来事を経て、今の紅麗と雷覇の関係がある。

 入隊して歴の浅い名前には知り及ばぬことだけれど、二人の間にのみ通じるものがあるのだろう。羨ましい、と顔に出ていたのかもしれない。
「そんな顔をするな」紅麗が微かに笑う気配がした。

「お前は筋が良い。いずれ雷覇を負かす日が来るかもしれんぞ」

 紅麗の言葉に、ぱっと笑顔になった名前だがすぐに表情を引き締める。

「はい。 必ず紅麗さまのお役に立てるよう、精進いたします」

「ああ、期待している」

 紅麗の手が伸びてきて、名前の頭に乗せられる。優しく撫でられて目を細めた名前は、ふと自分の髪が土埃や汗で汚れていることに気づいて慌てる。

「あっ…、紅麗さま、お手を汚してしまいます」

「いいや、構わない」

 紅麗は気にせず、そのまま何度も撫でる。触れられた場所が熱を持ったように感じる。

「あまり無理をするな」

「はい。 でもわたしはまだ未熟なので、もっと頑張らないといけなくて」

 だから大丈夫ですと言おうとしたのだが、紅麗はもう一度頭をくしゃりと撫でた。
 雷覇も名前のことを気にかけ、よく面倒を見てくれているが、紅麗の可愛がりようはそれ以上だった。

 名前の方はというと、敬愛すべき上司である紅麗に構ってもらえることが嬉しくてならないようで、頬を染めながらにこにこと見上げている。その様子はまるで飼い主を見つけた子犬のようだ。

 名前が雷覇に弟子入りしてからというもの、紅麗は度々、訓練場を訪れるようになった。名前の訓練の様子を見るためだ。

 紅麗が名前を可愛がるのは、単純に彼女の境遇に同情したこともあるけれど、それだけではない。彼女は紅麗にとって特別な存在だからだ。
 もう少し話していたかったけれど、紅麗は再び仮面をつけて去っていった。

「あなたは本当に紅麗様が好きなんですねぇ」

 呼びに来た黒服と共に紅麗が去った後、主君と弟子のやり取りを黙って見守っていた雷覇が言う。名前は、きょとんとした顔で振り返った。

「もちろん好きですよ。でも、師匠も紅麗さまのことを好きでしょう?」

「それはもちろん、尊敬していますし好ましく思っていますとも」

「じゃあ同じじゃないですか」

 そういう意味ではないんですけどねぇ、と雷覇は苦笑いする。

 名前にとって紅麗は憧れの存在だ。強くて格好良くて優しい人なのだから、好感を持つのは当然のことだろう。

 表では森 光蘭の付き人として、裏では麗の首領として多忙を極める彼がわざわざ会いに来ている理由が自分にあるとは、名前は露ほども思っていなかった。
「紅麗さまは首領として、忙しい合間を縫ってみんなの訓練を見て回っているのだろうな」と思っていた。

(無邪気なのは子供の特権ということかな)

 彼女の抱く思いが恋情に変わることはあるのか、あるいはこのままずっと変わらないままなのかーーー雷覇は見守り続けるだけだ。



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