もう何もかもが嫌になって、ふらっと家を出た。
ポケットには家の鍵と財布と携帯しか入っていなかった。
新しい職場になって仕事を覚えきれず、仕事を教えてくれる後輩に呆れられ、複数人の後輩からダメ出しばかり言われて心がぽっきり折れてしまった。
仕事に行くのも億劫で上司に愚痴を言ったけれど、すぐさまは解決するはずもなくって、しばらくは根性で会社に行っていた。それでも、急に『もういいや』って気持ちになって体調不良を理由に会社を休んだ。
後ろめたさなんてこれっぽっちもなくて会社とは真逆の方向に勝手に足が進んでいた。
「もう会社辞めよっかな…」
ぽつりと口からこぼれた言葉に何も感じない。辞めたいんじゃなくて、ただ逃げたいだけだと分かっている。仕事を完璧にこなして欲しい後輩からのプレッシャー。
正直いくら私の方が年上だからといっても、初めてやる仕事を覚えるのは時間が掛かるのは当たり前だ。
しんどい。その一言に尽きる。
朝というには遅く、昼というには早い時間にふらふらと河原に来てしまっていた。
小さい頃はよく河原で遊んだなぁ、と思いながら川まで降りようと階段を探していると、ちょうど階段に座り込んでいる人の姿が見えた。
次の瞬間、空気が弾けるように鳴った。
思わぬ音の大きさにドキッとして、連なっていく音を呆然と聞いてしまう。詳しくはないけど、三味線の音だと思う。唸るように音が鳴ったり、優しく転がるように音が跳ねる。
今聞こえる音を聞き逃したくなくて、立ったまま聞き入ってしまっていた。どくどくと脈打つ鼓動に合う、というか三味線の音がこんなにも胸を打つ音だったなんて知らなかった。弾き終えたのか弦を調整するかのような仕草をし始めたので勇気を出して声を掛けた。
「三味線ですか?初めて聞いたんですけど、すごく感動しました」
三味線を弾いていた人が振り返った。格好から分かっていたけれど、男の子で。顔が整っていてちょっと吃驚した。
「あ、どうも」
「まだ弾かれるのでしたら、隣で聞いていいですか?」
「…どうぞ」
口数少なく答えられたけれど、怒っている訳でもなさそうなのでスペースを空けて彼の隣に座った。
また三味線が鳴り始めた。
耳を傾けているとしんどかった気持ちが音と一緒に少しずつ弾けて消えていくみたいだ。後輩からのダメ出しが私に対するクレームみたいで嫌だな、とか、複数人で注意するとかただの私刑じゃん、とか思っていたのが和らいでいく。
歯食いしばって会社に行ってた意味もなかったんだな、もっと気楽に行けば心が折れたみたいな感覚になることはなかったんじゃないかな、とよぎる。
強いけれど優しい音に私は、胸いっぱいに空気を吸った。
ここのところ息がしにくかった気がする。久しぶりに呼吸がしやすい。空気が澄んでいるみたいだ。
「あの、俺そろそろ帰ります」
「あ、そうですよね!いっぱい聞かせて下さってありがとうございます。よかったら受け取って下さい」
「貰いすぎです…!」
「細かいのが無いんで、受け取って下さい」
「だども…!」
返されそうになった一万円札を無理矢理手に握らせた。一万円でも安いくらいだ。すごく気分がいいのだ。心が晴れたというか軽くなったというか、言葉では言い表せない清々しさでいっぱいだ。
「じゃあ、名前教えて下さい。私は名字名前です」
「澤村雪、です」
「澤村さんのこと応援します。三味線すごく好きになりました。また機会があったら聞かせて下さい」
「あ、はい」
頭を下げると澤村さんもぺこりと頭を下げてくれた。
心を揺さぶる音はある。偶然だったけれど、出会えて本当に良かった。
明日また会社に行かなくてはいけないと重い気持ちだったけれど、会社に行ってもいいかもしれないと思えるくらいにはなった。
真っ昼間の帰り道、お気に入りの定食屋さんで鯖のみりん干し定食を食べてから家へ帰った。
また、あの三味線が聞きたくなったら河原に行ってみよう。
会えなくてもいい。たぶん心に焼き付いた音だから、何かあっても河原に行けば思い出せると思う。
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