海底にて眠る
001海月の群居と闇を彷徨う

遊郭とはこの世の縮図である。



この考えを持ったのは私が十のことでした。
その時はまだまだ寒い冬でカチカチと鳴る歯を噛み締めながら涙を必死に耐えておりました。酷く暗い夜で野犬が遠くできゃんきゃんと吠えるのが酷く怖かったです。

大丈夫、大丈夫。私ならきっとできる、怖くない。

べそべそ泣きながら体を狭い狭い部屋の中に縮めて自分に子守唄を歌っておりました。今思えば下手くそな子守唄でした。音程も取れていない、調子は外れるばかり。ただ、とんと忘れてしまった母の声を思い出しながら歌っていたのは覚えております。





私は留袖新造です。
十の頃にこの遊郭にやってきた引き込み禿になれなかった人間です。そもそも禿の経験さえもないのです。遊女見習いになっても何も分からずあたふたとしておりました。

あたふたしても見込みはほとんどないと息を吐かれてしまったせいか、手を差し伸べる人などおらず自分で稽古書を盗み読んで練習をし続けることが私の精一杯でありました。


留袖新造は十五で客を取らなければいけない。通常の十七よりも二つ下です。

私はそれが怖くて仕方なかったのです。あとたった五年で客を取らなければならない。五年なんて目を瞑ればあっという間に来てしまうというのに。

いたいいたいと喘ぐ声や酷くあたりに響く男の嘲笑と罵倒の言葉を、私はそのたったの五年という歳月でこの身に受け入れらなければならない。酷く怖かった。今でも恐怖は消えていません。


それでも時は過ぎるもので、しっかり稽古をしてもらわなければいけません。稽古は躾です。

痛みは何よりもの薬でありましたから、手がしもやけやらその時にぶたれたやらで赤くなってしまったのを馬鹿な私は対処を知らず、冷水につけていたこともはっきりと覚えております。今でも手がその時の熱を放ったように痛くなる時があるからですね。躾は薬を上部に塗った毒のようだと思いました。

鎗手に毎日叱られて叩かれ腹が真っ赤になった日は本当につらくて堪らなかったです。




私は器量が悪いのです。
毎日ノロノロと鈍臭い緑亀のように動きます。

そのせいで思いっきり足を板で殴られたことがありました。足が嫌な音を立ててしまい私はもっと鈍臭くなりました。見た目は何ともないので皆鈍臭さが増したと嗤います。随分と痛かったです。

その日の夜は布団にくるまって隠れてわんわん泣き叫びました。見つかればどんな目にあうのかは分かっていたので喉を締め上げながら堪えて涙を流し続けました。



私は商品でした。

まだ夜鷹にならないだけマシだとは思っています。それでもやはり商品とは慣れないものです。初めてここに来た時鎗手に指を入れられて塩梅をはかられ涙が止まらなかったです。それを見た鎗手にまた怒鳴られました。





遊女の方はお綺麗です。
艶やかに口元に笑みを浮かべる様に何人が魅了されたのでしょうか。自分にはあんな遊女には決してなれないと思います。美しすぎるですから。紅と白粉、豪奢な着物、憂眼差し。

確か紫式部という女性が書かれた源氏物語には空蝉という女性が出るようですね。
彼女の羽織だけを残しその名にふさわしい去り方をした話は私も聞いたことがあります。
あのような方がこの遊郭にはたくさんいるのです。その雰囲気が空気が男を惑わし弄び一夜の夢を見せるのでした。





この遊女屋はお世辞にはいいところとは言えません。

いえ私以外は言えるのでしょうか。私は毎日毎日鈍臭いものですから、毎日毎日怒鳴られております。私のように叱られ続ける者などいません。嫌われてしまっているのでしょう。

それでも捨てられないのは不幸中の幸いでした。媚びる顔つきをする饅頭女とも夜鷹とも遊女は違います。特に花魁の人々は格が違います。彼女らこそが将軍を魅了し跪かせるのです。それをぼうっと見つめるのが一等好きでした。

この遊女屋が決していいところと言えないのはもう一つ理由があります。

ここの遊女屋は規制が緩いのです。
明治だというのに江戸の頃のように年齢も規制もなく、時代から跳ね飛ばされたような空間です。本当はダメなのですがね、政治のお零れというものです。ここはみんなが酔い続けているように見せてこっそり瞼を閉じている街なのです。






まだほとんど稼いではいませんが、私は家族の為にここにいます。

稼ぎができたら愛する家族に仕送りします。自分の家族に腹一杯食べてもらうためです。
今の自分からはそんなの夢のまた夢、だからこそ夢見がちとも言われるのでしょうね。
噂をするのは結構ですが。たまにわっと泣きだしたい時はあります。

嫌われることを喜ぶ人間などいませんから。
最初は心の臓に刃物を突き立てられたようにジュクジュクと痛みを放っておりました。
痛みは矢のように目にやってきて大粒の雨をパラパラと降らします。


そういう時は決まって家族の顔を頭に思い浮かべるのでした。

今はもうほとんど家族の顔を思い出せないのですが。私は薄情者でしょうね。
もう何年も会ってないものなので。仕方ないと言ったら仕方がないのでしょう。
愛する家族の顔は薄ぼんやりとしていてのっぺらぼうのように真っ白なのです。

ああ今頃病弱な姉はノミに悩まされているのかしら。ああ可愛い可愛いもう一人の妹はご飯を食べられているのかしら。ああ父の死に泣いていた母は笑顔を浮かべられているのかしら。考えは尽きません。感傷が止まりません。大丈夫かしら。大丈夫かしら。


身売りをしようと言ったのは私からでした。この家で働けるのは私だけでしたから。


たまにあの時家にいたままだったらどうなったのかと考えることはあります。
尽きない考えの一つです、ふうと頭から吹き消すように息をして消しています。






ベンベンとなり続ける箏や琵琶の音。
密な行燈の光、うっとりとした熱のこもった眼差し。足抜けした女への折檻。対称的なものばかりがギチギチと詰まってしまった街が遊郭です。全く違うというのに縁と欲という糸でがんじがらめに結ばれているのです。

きっと神様はこの街を玩具のように思って作ったのでしょう。




鞭打たれる子供の叫びを嬌声が隠し、殴られた傷を上書きするように紅が足される。

張りぼてのようです。息を吹いても吹き飛ばせないのが尽きない考えとの違いです。
虚構が我が物顔で闊歩する街を歩く、肥えた男も息を吹いて飛ばしてしまいたい。
こちらも張りぼてと同じで吹き飛ばせないのですがね。


辺りは狂乱と偽の愛と酒精と病が行き交います。砂細工が壊れるようにボロボロになった女はきっとこの街に大切なものを吸い取られたのでしょう。大切なものを吸い取る悪魔のような餓鬼のような獣が隠れている雰囲気がします。

きっと注意深く探せば思わぬところからわっと飛び出してくるのでしょう。
いえ、じっと目を凝らして見ればすぐそばにもいるのかもしれません。




しかし、見つけても目を合わせてはいけないのがこの街の暗黙の了解です。
目があったら最後、自分も女のように生気を奪われてしまいますから。




みんなばたばた息を止めていきます。
ふらふら幽鬼のように青白い顔をしたならば最後です。バタンと倒れてさようなら。
一言告げづに腐っていきます。後に残るのは醜いヘドロ。


私が死んだらどこに行くのでしょう。

天には行けぬとは思います。埋葬もしてくれないでしょうから。遺体は灰にされて川に流されてしまうのでしょうか、そしたら家族の住んでいる側の海に行けるかもしれません。まあ無理でしょう、私の亡骸はブンブンと蠅がたかる肉塊になるのですから。




それでも私の訃報が家族に何かの手違いか奇跡で届き、愛するみんなが涙を流してくれたのなら、土には帰れるかもしれませんね。そうだといいなぁ、これは尽きない考えではなく夢です。


頭も良くない、鈍臭くて青臭くて、田舎者の芋娘。誇れることなど一つもないものですから、友人もいませんし、蠅といっしょに払われるのが最後ですね。取り柄はなんでもすることでしょうか。我慢は得意です。

我慢すること以外にできることなどありません。お金が稼げるようになれば少しは変われるのでしょうか?それはこれからですね。










以上が私の遺言です。


これが愛する家族に届くことを祈っております。この遺書を誰かが見つけて燃やしてくれることも同時にのぞんでいます。私はいつ死ぬのでしょうか。この封筒はいつ開かれるのでしょうか。

まだ死ぬ気はなくても死はいつか必ずきます。


私は今日で十五になりました。

今から身請けの時間です。
なんとか笑みを浮かべてお客様の機嫌を損ねないようにしましょう。本当の言葉はこの遺書で最後、これから一生嘘つきのままで。そう目を瞑ります。

いつか私の中から夢見がちな田舎娘を捨てられたらいいなぁ。



お金はもうすぐ手に入ります。

待っててね、三人が美味しい白いご飯をたらふく食べれるように稼ぐからね。笑顔はきっと幸せの証だから。私はちゃんと笑いますよ。


・・・




それだけ書いて筆を下ろす。
ここまで文字を書いたのはいったいどれだけぶりだろう。いらない紙と毎日爪の先ほどの墨を集め続けた。もう硯には一滴の墨さえの残っていない。

これから使うつもりも特にないのだがやはりもったいないとは思ってしまう。この二つを家族への手紙に使っていたのなら、この二つをこの遊郭から逃げる誓約書に使っていれば。_____だめね、尽きない考えは吹き飛ばして塵のように消さないと。



格子の向こうの人へ微笑んでいれば買ってくれるかな。危ういように服を崩そうかな。



内側に歩いていけばすでに格子の向こうは沢山の人で溢れていた。

遊郭の言葉がまだちゃんと使えないので押し黙っておけと言った鎗手に頭を下げて通り過ぎる。前をざわめきながら歩く人たちに手招きをして誘い込む女達。自分がこうなるなんて思ってもいなかった、そんな頓珍漢な想いも捨てて。


「お主さん、わっちを買ってくんなまし。」


笑顔は不思議な話なのだが自然と顔に張り付いた。耳をすませばカランと玉代を渡す音がする。私かしら、他の子かしら。一体誰の玉代なのだろう。きいっと木が軋む音がして藍の着物の少女が茶屋の方に男とともに向かっていく。

私じゃなかったわ、良かった良かった、逃げ場所などないのにそれだけを頭で繰り返し続ける。


また玉代の音。

今度は誰なのだろう。
私はただただ笑い続けて、頰が凍ってしまうのではないかというくらい笑い続けた。






その夜、私は買われた。
相手は百姓の人間らしい。
ここでそんな自分のことを言うのはご法度なのだが、それさえも知らないような人だった。怖いし痛いし辛いし泣きそうだったけれど、私はずっと微笑を湛え続けた。




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