海底にて眠る
002潮騒の底から



随分と長い夢を見た気がする。
こくりこくりと頭を揺らし布団に座りつづけていれば寝てしまったよう。いけない、ちゃんとしないと。パチンと頰を叩いて水で濡らす。そのまま睡魔を一蹴して脳に冷気をさあっと流した。



愛嬌がいいわけではなく、器量がいいわけではなく、なんの取り柄もない自分の取り柄。

私の取り柄、遺書に書いたっけもう随分と前だから覚えていない。ああでもまだ一年も経っていないのか。時間の感覚がおかしいらしい。ここは夜しかないから、時間がわからない、教えてくれる人は当然いない。あの時紙に落ちた涙はもう乾いていることだろう。不思議と確信できる。もう涙は出ない。

口元に指を持ってきて笑みを作る。



何だが一瞬だった。

笑っていればなにもかもすぐに終わる。鈍臭い私でも値段は安いので買ってくれる人がいる。私は商品だから傷つけるのは無し。それは全ての遊女に等しく同じの規則。

それでも私は安いから軽くそう言った行為があることは否めない。それは双方の暗黙の同意である。安いんだからいいだろう、ええ構いません。いつもの暗黙の了解と人の目のお零れ。

馬の手綱のように髪を引っ張られるのは痛いが数本抜けるだけなので仕方ないと言えるのだ。我慢するのが取り柄ですから、頑張りましょう、ということ。



くらりと歪む視界に目元を思わず抑える。

口に詰めるように食事を詰める行為は朝にもうしたというのに胃が重い。

最近、食欲がない。
ご飯を前にしても嘔吐しそうになる。
いつもままごとほどしか食事はないというのにそれさえも入らないのだ。卵さえも口を通らずに吐き気だけをもよおす。口に物を入れるたびに、ぬるりとした何かが這う感覚がするのが理由だろうか。

いえ、違いますね。




「今宵もどうか」
「ああ」



貴方の毒が私を殺そうとしているから。

薬は毒でもあるって、紙一重だって。
じゃあ躾は毒でも薬でもあるっていう私の考えは間違ってはいなかったと感傷に浸る。

手を伸ばして私とは大違いの天上の存在に触れた。死んだら貴方のような人がいるような場所に行けるかしら。ふふっと笑って仕舞えば、その人は目を細めて私の手をとった。


・・・



その人が来たのは数ヶ月前だった。


揺れる世界と誰かの拳と誰かの笑み。
思った通り痛くて怖くてつらくて泣きたくてたまらなかったのに涙はとんと出ずに笑みだけがずうっと張り付いて剥がれないままであった。何人が私の上に乗ったのだろう。何人の人の上に乗ったのだろう。絡めた腕の違いがわからなくなった、そんな日々。



やっぱり痕が付いていた。

眉を少しだけ寄せて後にはあっと息をかける。白粉で隠せるか、次の人が嫌がってしまうというのに。ご法度だけれど、自分は低い値段だから店としてはいいのだ。それでも私としては早く消してしまいたい。汚いから。
自分が物としての証明の値札のようで小さな痣に潔癖なくらい蝦蟇の油を塗る。



日々は移ろうというのに私は動けやしない。時間の感覚がないからかも。

ここは牢獄とポツリとこぼした少女に同意したい。ここは酷く暗い烏鷺の中だ。子ができぬように処理をするのは吐き気がするほど辛い。鼻につくような薬の入った冷たい水で洗い、次の客を迎える。それまでの間は稽古。
それでも客は金を投げてくれるという。

結局私ぐらいの金では見た目や具合など気にしてはいないのだろう。

鎗手のやけに甘ったるい声に自分も同じような猫なで声を返す。板についてしまった。あの村の訛りが酷く恋しい。そんなことを思っていても次の客は来る。姿勢と着物を着てパッと部屋を出た。

____その次の客が私の世界を変えるなど誰が思っただろう







赤みを帯びた瞳、白にも銀にも見える髪。着崩された着物。どうしてこんなところにこんな偉丈夫が来るのだろうと思った。いや。偉丈夫というよりもまだ少年。自分とそこまで変わらない少年だ。十五ほどか。十六か

こんなにも美しいのに印象に残らないというか、後で思い出しても細部が思い出せないような不思議な人であったのは確かだ。どういうことなのだろう。




「ああ、お前が雪割か」

驚きのあまり裏返った言葉に唇を噛む。
一体どうして、ここにこんな人が。ポンと太夫を買うような人ではないのだろうか。幼げに見えて色香を放つその人の髪がゆるりと解かれた。

なにかの手違いか間違いできたのかもしれない。鎗手が間違うなんて思いたくはないけれどあの人はズボラだからあり得る話である。

とにかく間違いを正さねば、グッと腹に力を込めて貝のように閉じた口を開いた。

「旦那様、わっ ちは、器量が 良くない です、体も 良くはないです、いいのであり、ッ、、」

声は昨日の客に締められたのでかすれていて呂律も寒くて回りにくい。

ガブリと思いっきり口を噛んでしまう。
ほんの少し鉄の匂いがした、いけない、傷になってしまう。舌を噛んでしまった。
鈍臭い、なんて鈍臭いのだろう。

しかしスッと口元を隠せばスルリとその手を奪われる。近づく端正な顔に瞠目した。

そのまま噛み付くように口を吸われぬるりと口内を弄る舌が傷に触れる。自然に置かれた頸をなぞる掠れた手。歯と歯が落ちる音がして、パラパラと髪が顔に落ちてく影を作った。鼻で息をするのを忘れていたので離され、銀の糸が引いて、吐息が漏れる。
目の前の男は小さく微笑んだ。





「構わない______力を抜け、言葉も素でいい。」





その言葉にストンと肩が落ちる。唾液で濡れた顎を拭うように手が這うのに違和感も感じなかった。女慣れしてるのだろう、気まぐれか何かで、それともどこかの遊女屋の若旦那で、
啄ばまれるように唇を何度も食まれそんな考えを止めた。恋仲同士のような触れ合いに首を傾げて目を開く。

なんだか、違和感だらけで張りぼてで出来たような時間で、けれどこれまでの客とは比べ物にならない優しい扱いだった。その行為にただ私はふわふわと酔いしれるように体を委ねた。誰かの熱を感じ、殴られることはなかった。歪な笑顔も作らないでいいと囁かれる。笑わなくても幸せ。笑みが剥がれたら残るのはただの醜女の田舎娘だというのに。


銀の髪がはらりと落ちれば蜘蛛の糸のように見えた。禿たちが引き込まれたように読んでいたあのお話。私は今夢を、叶わない夢を、ただの一度も見たことのない夢を、見ているのだと気づいた。



・・・



逢瀬は何度も続いた。
その人は私を気に入ったのか気に入っていないのか、性急に事が進むわけでも児戯のように遅いわけでもなく通う。その人の指名が何度も私に入って鎗手が上機嫌になった。

厚い胸板に体重を傾ける日が十日に一度ほど。たわいない話を一日中続かせた時もあった。指を絡ませる時が三刻ほど、時間の感覚が狂っているのね。その一瞬だけ、天にも登る心地で感受して、笑うことをせずに幸せというものを噛み締めた。

また今日も来るのだろう。

コクンと喉を通した茶を入れた茶器は藍の花が描かれた磁器。毒を食らわば皿まで、死んだらこの茶器を割って私の腹に入れて欲しい。_______そんな無理な願いだった。








たった一瞬の瞬きでその人に恋をしたのは、当然すぎるほど当然で。いつからなんて考えることもできないほど素早く恋に絡め取られる。そのまま私は一体こんなにも単純な女だったかしらと指を握った。

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