麗らかな光がカーテンの隙間から差している部屋は、とても簡素で部屋の隅に敷かれた布団だけがこの部屋に生活感を出していた。

布団がもぞりと動き布団から出ていた白い腕が布団の中へ入っていく。すると枕元の端末が鳴りだし再び布団から腕が伸びてアラームを止めると、緩慢な動作で起き上がり寝癖の髪を揺らしながら慣れた手付きで布団を畳み身支度を整える。

蘇芳文乃はヨコハマに住む人間なら耳にした事はあるだろう“武装探偵社”で四年前から働いている。
彼女の朝は早い。誰よりも早く出社する。仕事のない朝も探偵社に欠かさず行く。もちろん早起きする理由はそれだけではない。

「行ってきます」

誰も居ない部屋に挨拶をするのは外出時の軽い儀式だ。
確りと戸締りをすると、今度は別の鍵を取り出し隣の部屋へ入り勝手知ったる我家のように部屋を進んでいく。
真先に向かったのは台所で丁寧に手を洗ってから調理に取り掛かった。
水を張った鍋を火に掛け出汁を取り、其処へ馬鈴薯じゃがいもや豆腐を入れ味噌を溶くと時間設定していた炊飯器の音が鳴った。
其れなりに物音を立てているこの部屋にはもちろん家主がいる。けれど一向に顔を見せない。

「おはようございます」

朝食をある程度作り終え寝室の扉をするりと開くと、布団から未だ寝ている家主のぴよんと跳ねた黒髪が見えた。
無反応なのを等閑なおざりに勢いよく窓掛を開けば布団から男の不明瞭な声が漏れる。
とても良いお天気ですよと云いながら振り返れば不満そうな顔が文乃を見ていた。彼女は小さな笑みを溢し彼の前へ腰を下ろした。

「今日は楽しみにしていた出張でしょう?たしか、北陸の殺人事件だとか」
「知っているよ、そんなことくらい」
「一緒に朝御飯食べましょう、兄さん・・・

そういうと満足そうに細い目をにんまりさせ布団から出てきた。
この部屋の主の男は江戸川乱歩といい、文乃と同じ武装探偵社に勤めている。彼の頭脳と洞察力に探偵社は支えられている。
しかし彼は恐ろしい程"それ以外"のことができないので、朝食を作るのも蒲団を畳むのも文乃の役目である。

「君の出汁巻き楽しみだなあ」

部屋の戸に手をかけた瞬間放たれた言葉に、僅かに瞠目する。出来立てふわふわを食べて貰いたくて今後これからと思っていた処の一言。
気付いていたのか作って欲しくて云ったのか分からないが、正に今考えていた事を当てられ心臓が跳ねた。
頭のいい人はおそろしいと思いながら、出汁巻きを作りに台所へ戻った。

「いただきまーす」
「いただきます」

小さな円卓テーブルを二人で囲む。
美味しそうに、嬉しそうに出汁巻き卵を食べている大切な人の幸せな表情が文乃の心をじんわり温かくしていった。

文乃は目の前の人物に尽くしたいと思っているし彼も其れを快く受け入れている。
相手との距離を探りながら始まった関係も、“僕の為になる”と思う事は何でも許容すると分かってから、文乃は遠慮がなくなった。
見知らぬ土地に来てから四年間、何不自由なく生活できたのは目の前の人物に因る処が大きい。

幸せを噛みしめ、文乃も出汁巻きに箸を付ける。かすかな出汁の旨味を感じ乍ら移動中のお菓子や弁当は何を用意しようかと考えた。

「わたし、ちょっと出てきますね」
「君も飽きずによくやるねぇ」
「好きでしているので全く飽きませんよ」

「それじゃあ行ってきます」と振り返ると軽く手をあげて答える後ろ姿が見え、そうやって答えてくれるのが幸せだなあと感じながら扉を閉めた。

二人の関係は何と表せば良いのだろう。
会話を聞くと兄妹なのかもと思うが、文乃は乱歩の望むまま兄さんと呼んでいるだけで血の繋がりはない。
それなら恋人はたまた夫婦かと思うが男女の関係は一切なく、私生活はまるで母と子のようだった。
枠に嵌らない関係は淡泊に云うと"互いに利己の為共にいる他人"と云う事になるのだ。
ただ、淡白とは言い難い付き合いなので名付け難い関係である。

「おはようございます」

探偵社の扉を開けて挨拶をする。けれど、文乃より早く来る人など寝泊りしない限りいないため返ってくる声はない。
毎朝早く来て社内を軽く掃除するのだ。
夜の間静かに降り積もった埃を取り除き、社長室や医務室の棚の上や床などを綺麗にする。
そして、窓から朝日が差し込んだ社内を眺めて文乃は清々しい気持ちになるのだ。

「おはようございます!」
「おはよう、賢治くん」

麦藁帽子を被った少年の笑顔は、まるで降り注ぐ陽光のように燦々としている。菜の花色の髪が輝いて見えた。
早寝早起き規則正しい生活をしているようだ。早起きは三文の徳だという言葉の通り、彼の眩しい笑顔が見れるというのは徳の内に入る。明るい気分になれるのだから正しく利益がある。

少し鼻の上に泥がついており、知り合いの収穫でも手伝ってきたのだろう。
文乃はハンカチを取り出すと賢治の顔を拭いてやった。それから、賢治と軽く言葉を交わして社を後にすると出入り口付近で国木田と会った。
彼と会うのはだいたい同じ場所だ。
それは文乃が出社するような時間に殆どの人が来ておらずルーチンが乱れない事と、国木田が理想通じかんどおりに出社するからだ。

「おはようございます。国木田さん」
「蘇芳か、おはよう。今日は乱歩さんと出張だろう、こんな所にいていいのか」
「日課になっているので、やらないと気持ち悪くて」

遅刻や怠慢は許さんと言いたげな国木田は一変、文乃の言葉にいたく共感したように頷くと、腕時計を確認して探偵社のドアノブを回し扉の向こうに消えていく。
文乃もつられて腕時計を確認すると長針が12を指しており、秒針が5を通り過ぎようとしている。
国木田自身が時計なのではないかと思えるほどの正確さに文乃から笑みがこぼれた。

探偵社が入っている建物ビルヂングを出る間に数人の社員と挨拶をかわして文乃は帰路に着く。
彼女もこれから乱歩と一緒に北陸に出張なのだ。乱歩御用達の商店に足を運び、彼の気に入りそうな菓子を数点購入するとこの世界で一番大切な人の元へ急いだ。
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