- 笑顔の絶えない少女がいた。突然知らない場所へやって来たというのに不安など微塵も感じていないといった顔で笑っている。友人らと話している時、監督生として監督しなければならないモンスターが悪さをしていても困ったように笑う。廊下で心無い言葉を投げかけられても悲しそうに笑う。どんな感情でも笑う姿が不気味で、それが綻ぶ瞬間はあるのだろうかと毎日目で追っている。
ああ、驚いた瞬間は笑顔が消えるんですね。黒目が落ちそうなくらい目を見開き、いつも上がっている口角も今は座りが良さそうだ。魔法薬学の授業中に鍋の中身が跳ねた瞬間のその表情に、僕はひどく安心した。ナマエさんは普通の人間なんだと。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。早く終わらせちゃお」
すぐにいつもの顔に戻って何ともなかったように鍋を混ぜ始めた。何と愚かな事だろうか。煮えたぎった薬品が頬についたというのに放置するとは、馬鹿で愚鈍で間抜けにも程がある。先生も異変に気付かないほど静かな出来事に授業はそのまま終了した。
髪で頬を隠すよう俯き加減で片付けをする愚か者を手首を引っ掴んでその場から連れ出した。先生や生徒の声が一気に沸き立つのを無視し歩いた。他人を連れているせいか、それとも彼女が愚図だからか非常に歩きにくくて腹が立つ。
「あっあの、あの!痛いです!」
何を当たり前のことを言っているのかと振り向けば困ったように笑むナマエさんの頬が赤く爛れているのが見えた。こんなになるまで我慢して何の意味があるのだろう。ホクロ一つない顔にできた赤い火傷の痕跡が憎くてたまらない。
「薬品が跳ねたのに放置するからです」
面食らったような顔を見ても気分は晴れない。笑顔が崩れる瞬間の安堵感は露程もない。口を開く暇があるなら早く医務室へ行くべきだ。そう思って腕を引くのに、立ち止まった足を動かそうとしない。
「何をしてるんですか?早く医務室に行かないと」
「手首が痛いので…離してください」
どうしてそんな顔で笑うのか分からなかったが、とぼとぼと歩く速さに苛立ち肩を掴んで引き留めると両膝の裏を掬い上げ、抱きかかえた。慌てるナマエさんへ落とされたくなければ捕まっているよう脅し、首に腕を回させた。
伏せられた頭が歩くたびに肩口で揺れ、首筋を柔らかい髪が撫ぜる。こそばゆさを感じながら、もう少しで医務室だと言おうとすれば啜り泣く微かな声が鼓膜へ甘やかに触れた。泣きそうに笑っていた顔が泣き顔に変わったのだ。
ああ、見たい。この啜り泣くナマエさんの顔が見たい。どんなふうに眉がくねるのだろう、どんなふうに唇を歪めるんだろう。涙が溢れるあの美しい瞳はどんな風に濡れるのだろう。早歩きでも上がらなかった息が医務室の扉を前にして、少し荒くなった。
「着きましたよ。先生はいないようですが」
「来るまで待ちます」
「あの魔法薬の爛れは以前治したことがありますから僕でも処置はできますよ」
「待ってください。今はダメです」
顔が見たいというのに首に巻きついた腕が離れてくれない。仕方なく近くの空いてるベッドへ腰を下ろした。ナマエさんの甘い声が少しずつ落ち着いてくる。きっと顔を上げる頃には泣き腫らした目をしながら笑うんだろう。
まだ見ぬ表情へ想いを馳せながら腕が巻きついている首や背中と脚に回した腕、尻が乗っている太腿が熱いのに気づいた。腹の奥底から這い上がってくる熱の塊を嫌悪しながらもナマエさんの背中をそっと撫で上げる。ああ、このままずっと泣いていればいいのに。無情にも来訪者を告げる音がした。
/ 即興二次小説(1時間)のお題『わたしの嫌いな馬鹿』
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