あなたに心を捧げます


放課後、自分の寮の部屋に戻り授業の復習をしようと思った。備え付けの机に座りテキストを開こうとしたら力が抜け、椅子に座っているのも辛くて床に蹲って自分の肩を抱いた。

頭の中に突然考えたことも無いような事が浮かび、ミキサーでかき混ぜられる様な気持ち悪さを感じた。
不幸にもルームメイトは不在なため部屋を出ようと立ち上がると、今度は急に胸が苦しくなった。
呼吸は浅くなり、心臓の拍動が酷く痛く感じて頭の方まで響くほどだ。立て続けに起こる体調不良に戸惑う。
不意に涙が零れた。たちまち切ない感情に支配された私は、無意識に口から言葉が飛び出した。

「…ッ、好き」

自分で吐き出した言葉が耳から伝わり全身に甘い痺れが走り、どうしようもなく彼に会いたくなった。
突然襲ってきた恋焦がれるという現象に、体も頭も追いつかないが心当たりはあった。

私は5年前まで普通に恋をしていたのだが、彼との取引で私は恋心を差し出したのだ。
5年が経過して、その恋心が突然戻ってきて私は彼が好きで好きで仕方がなくなっている。
切なく苦しい感情に体が熱いのか寒いのかよく分からないが、打ち震えそうな感覚に肩を抱く指に力を込めた。

記憶の中の彼は、神経質そうな表情をしている。けれど、その意思の強い瞳に私は心を掴まれてしまった。
蛸壺に引きこもる様な内気で弱々しい人魚だと思ったのに、コツコツと積み重ねる姿や自分の武器を持っている事、何かを為そうとする姿に強い憧れを持った。

その憧れは、いつしか恋心になっていた。
彼はいつも本を読んだり実験したりしていて、よく話しかけては鬱陶しそうにしながらでもお喋りしてくれた。
それが、なんか嬉しくて。毎日彼に話しかけては一緒に難しい本を読んだり、実験を失敗して怒られたりして楽しい日々を過ごしていた。

私は同性の人魚より少し活動的やんちゃで、よくウツボの人魚と一緒に遊んでいた。
彼等は私がどんなでも楽しければ気にしないような性格だったけれど、彼は違うかもしれない。
彼を気にし出してから何年も気にしていなかったことが、突然気になり出したのだ。
それもこれも、彼がより魅力的になり同性の人魚も大人びて来たからだ。
こんな、サメがいるかもしれない危険な場所に肝試しに来る様な人魚は嫌いかもしれない。
そんな不安を抱えながら沈没船に近付いたのがいけなかった。ちょっとの油断が大怪我を招いたのだ。

「ナマエッ!!」
「なに、ボーッとしてんだよ!」
「急いで離れましょう!」

サメに襲われた私は大量の血を流しながら、彼等のお陰で逃げおおせた。けれど、どうやって彼の、アズールのところに来たのかは憶えていない。
彼が見たこともないくらい苦痛に歪んだような顔をしていて、ぼんやりする頭で思ったのは私の方が痛いのになってことだ。
そう頭では思ったのに実際は痛みを感じなくておかしいなって、寒さには強いのに寒さを感じておかしいなって思った。

「対価…支払ったら、さ、治してくれる?」
「もう治療薬は飲ませた」
「え〜、でも…からだ、動かないよ?」
「あんな、大怪我…一発で治る訳ないでしょう」
「そう…ちょっと効いてきた、かも?手の感覚が、ある…アズール、手握っててくれたの?」
「ッ違う。これは、脈を測っていたんです」
「…そうなんだ。ねぇ手、離さないで…怖いの。お願い」

返事を聞く前に再び意識を失ってしまい彼がその後どうしたのかは分からない。
それから、一日三回の変な味の魔法薬を飲み続けて泳げるようになるまでアズールの家でお世話になった。
両親にはめちゃくちゃ泣きながら怒られた。それをアズールに見られて、反省というより恥ずかしかった。

今日もらった薬を飲めば完全に治るという日、私はアズールに契約の対価の話をした。
彼は神妙な顔付きで対価は要らないと言う。奪いたい価値ある物を私は持っていないのだろうか。私から何か一つ奪いたいと、彼に思って欲しくて自棄になる。

「泳ぎには自信あるよ」
「"サメに襲われるような"泳ぎですか」
「うっ…じゃあ、歌声は?上手なの知ってるでしょ?」
「他の人魚から奪ったものは必要ありません」
「…えーと、あとなんだろう」
「心を、くれませんか」

そんな抽象的なのでいいのかと驚いてアズールを見たけれど、俯いた彼の表情を窺うことは出来なかった。
それほど、私は彼にとって価値あるものを持っていない人魚なのだろう。
私の心はもうすでにアズールのものだった。それに彼が欲しいと言ってくれた私の"心"という抽象的な物が奪われることで、一つの可視できる彼にとって価値のある物になるのだ。
それならば、喜んで「じゃあ、私の恋心をあげる」と笑顔で金色の契約書にサインをした。

その直後、私はアズールへの恋心を失い今日こんにちに至る。

どうして恋心が戻ったのか疑問に思った。まさかアズールに何かあったんじゃないかって、肝が冷えてきて急いでスマホを手に取りジェイドに連絡を取った。
さっきまで私を苛んでいた苦しさをようやく自分の感情として受け入れる事ができたと言うのに、今度は不安と恐怖から吐きそうになってきた。
ジェイドが電話に出るまでにどれくらいコールしただろうか。早く早く早くというく気持ちに焦って手が震えた。

「珍しいですね、電話なんて」
「アズール!アズールは!!?」
「貴方がアズールの事を気にするなんて、本当どうしたんですか」

焦る私相手に、いつも通り余裕のある彼の語調に少し落ち着いてくる。この男は分かっているくせに、毎度相手の口から言わせるのを楽しむ節がある。
一つ呼吸をして、アズールに何かあったのかと聞き直した。
やはり彼は私がこうなると勘付いていたようで、なんて事ないように契約書が全て砂になったと事のあらましを話してくれた。

しばらく休めば精神も安定するから心配する必要はないと言うが、今のこの湧き立つ感情を抑えられそうにない。
アズールは良く思わないだろうけれど、それでも会いたいとジェイドに伝える。
彼は私の気持ちを充分理解してくれていて、学園長に話を通してくれるらしい。
それならば、私も学園長に話をして他校に行く許可を貰おうと電話を切った。

学園長には、幼馴染みのお見舞いに行きたいと説明をした。男子校に女子校の生徒が一人で行くことに難色を示していたけれど、真摯に話すと今回きりだと了承してくれた。
鏡の前に来て、以前大会の時に行った事のあるモストロ・ラウンジを思い浮かべた。
鏡を通るとのオクタヴィネルの寮内にいて、ジェイドが待っていた。

「すぐ来ると思ってましたよ」
「早く会いたかったから」
「ふふ、今の会話を聞いたら恋人同士みたいですね」
「は、ありえない」
「僕だってごめんです」

いつも通りの軽いやり取りをしながら連れてこられたのはアズールの部屋。この扉の向こうでアズールが体を休めているらしい。
ノックしようとした手が止まる。
あの日からほとんど会話らしい会話はしてこなかったのに、今更どうやって話せばいいのだろうか。
ジェイドは私の気持ちを分かってるくせに勝手にノックして、返事が聞こえる前に扉を開けて私を部屋の中へ押し込んだ。

「アズール、ナマエ、ごゆっくりどうぞ」

パタンと優しく扉が閉じられるのを頭の隅で微かに感じた。
アズールはノックの音で体を起こしたところのようでシャツが乱れたまま、突然現れた私を真丸まんまるに見開かれた瞳で見ている。
この恋という感情は本当に厄介なものだ。
会いたいと思ってたのに、実際会ってみると羞恥や不安で逃げたくなる。それに、今更なんだ。
アズールへの恋心を失くすと同時に興味も無くなっていて、この5年間の事を思うと、どのツラ下げて来たんだと言われても仕方ない。

「体は、辛くないですか?」

当たり障りのない相手を気にかける言葉を何とか絞り出した。「はい」と少し力の無い返事が聞こえて来た。
そのたった二音の言葉が心に染みていって、どうしようもなく苦しくなった。胸にこみ上げる何かを抑えられなかった。
「よかった」という言葉と一緒に涙が零れた。困ったことに、拭っても拭っても止まってくれない。

「どうして来てくれたんですか。貴方は僕の事なんて何とも思っていないのに」
「ッそんなこと、ない」
「僕に興味ないでしょう?怪我が治ったら、僕のことを用済みみたいに扱ったじゃないですか」

アズールの言葉に胸が痛かった。
あんなに毎日飽きずに彼のところに通っては一緒に難しい魔導書を読んだり、魔法薬の実験をしたりリストランテに遊びに行ったりしてた。
それが大怪我の後からパッタリなくなったんだから、そう思われても仕方ない。本当に、私が大怪我なんかしなければそんな事しないで済んだのに。
アズールを傷つけたのは私なのに勝手に辛くなって、酷いのは私なんだと言い聞かせる。

「ごめんなさい。ただ、恋心が急に戻って来たから」
「ああ、そうですか。それでついで・・・に僕の所に来たんですね。僕は平気なので、もういいですよ」
「え、もういいって?」
「恋心が戻ったのなら意中の奴の所に行っていいと言ってるんです。言わせないでくださいよ、こんな事」

アズールは一切私を見ていない。彼にとって私はただの友人だった人魚なんだ。だから私が誰を想っていようが関係ないし、興味もないんだ。
それなら玉砕覚悟で今、告白してしまおうと思った。

「恋心がね、戻ったら突然胸の辺りが熱くなって、苦しくて切なくて、酷く胸が締め付けられるから、このまま死んじゃうんじゃないかって思った」
「………」
「それが、失くしてた恋心だって気付いたら、もう、どうしようもなく会いたくなっちゃって…来ちゃったの」
「ッだったら、ジェイドだろうがフロイドだろうが!早く会いに行けばいいだろう!!」
「私が会いたかったのは、アズールだよ」
「………は?」

感情が高ぶり余裕の無くなるアズールを凄く久しぶりに見た。エレメンタリースクールで、初めて話しかけた時以来だ。
丁寧な言葉遣いまで無くなるなんて、そんなに早く出て行って欲しいんだと、また涙が溢れてきた。
今すぐに、あの楽しかった5年前まで戻りたい。
でも、そんな事は出来ないから。今、取り返しがつかなくなったけれど、言う。

「私は5年前から、ずっと、アズールが好きだった。
今だって、恋心に浮かされてるわけじゃない。ちゃんと、今のアズールを見て、好きって思ってる」

やっぱり玉砕覚悟の告白は堪える。
分かりきってる返事を聞きたくなくて、私はアズールの側を離れて部屋を出ようと思った。
でも何故か、アズールに手を掴まれた。初めて、人の姿の彼に触れた。

「なぜ、あの時、恋心を手放したんですか」
「他でもない、貴方が、私の心が欲しいと言ってくれたから」
「ッ僕は、貴方が誰かを好きになるのが嫌だった!だから、奪った。
なのに貴方は、それっきり僕を相手にしてくれなくなって、貴方に裏切られたと思った。それと同時に、一生恋を知らないままなんだ。ざまあみろ!と、思っていたん、です」

顔を上げたアズールのアクアマリン色の瞳から、はらはらと涙が零れていて一瞬宝石がこぼれ落ちたのかと錯覚するほど、綺麗な涙だった。
こんなに大人っぽくなった彼の顔を真面まともに見たのは初めてで、こんな近い距離で見たのも初めてで胸がいっぱいになる。

「アズールがそんな思いで奪ったなんて、知らなかった」
「僕も冷静に考えれば、貴方が僕から離れた理由なんて、明白でした」
「ねぇ、アズール。私、貴方のことが好き。酷いことしてきたけれど、私のこと許してくれますか」

ベッドに腰かけたままのアズールの胸に飛び込むように抱き付いて、許しを乞うた。
どうか、あの頃のように一緒に肩を並べて過ごしたいと願った。とても自分勝手な願いだった。

「簡単には許せません」

彼の言葉に胸が痛んだ。当然だろう。
あれから、もう5年も経っている。今更、過ぎた願いだったとアズールの背中に回していた腕を離す。
けれど、今度は私の背に彼の腕が回され呼吸が止まった気がした。

「取引しましょう」
「私にあげられるものなんて無いよ」
「いいえ、僕はナマエの心が欲しいです」
「アズールから興味を失くすのは、もう嫌だ」
「そんな事させません」
「奪わないの?」
「貴方の心をいただけるなら、僕も、貴方に心を差し上げます」

等価交換だと言うアズールに、私は嬉しくなって背中に回した腕に力が入った。嬉しいのに、涙が溢れてきて胸がギュッと締め付けられた。
そんな私に応えるようにアズールもギュッと抱きしめてくれて、暫く彼から離れられず、彼の温もりの幸せを噛みしめていた。
ようやく涙も落ち着いて顔を上げると、アズールが見た事ないような優しい顔をしていて、こんな表情も好きだなあって思った。

「等価じゃないよ。私の方がアズールのこと好きだもの」
「確かに、僕はまだナマエの事許していませんからね。等価じゃありませんね」
「え…思いが通じ合ってチャラじゃないの?」
「当然です。とても傷付いたんですから、これから一生かけて償ってください」
「……うんっ」

アズールの言葉に嬉しくなって再び抱き付くと、病み上がりのような状態の彼は私を支え切れずにベッドに倒れ込んだ。
彼を押し倒したような状態に動揺して慌てるアズールをかわいいなんて思いながら、私の下でジタバタするアズールに構わずギュッと抱きしめた。
私以上に顔を赤くしているアズールがちょっと面白くて揶揄っていると、扉が薄ら開いており二人分の影が差し込んでいた。

扉の向こうでジェイドとフロイドが立ち聞きしていたようで、それにアズールが顔を真っ赤にして怒っていた。
そんな光景が私は楽しくて他人事ひとごとのように笑っていると、こちらにもアズールの怒りが飛び火した。
こうして小さい頃に戻れたようにふざけ合えるのが、本当に嬉しい。

「小さい頃には戻れませんよ」
「え?」
「貴方は、もう僕の恋人つがいなんですからね」

嬉しい事を言ってくれるアズールに、気持ちが抑えられず抱き付くと人前でするなと叱られたけれど、頬を染めて言われても怖くなんかない。
そっと腰に添えられた手の感触は、私まで恥ずかしくなるくらい言葉より雄弁に気持ちを語っていた。


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