紳士の社交場にあるまじき激震が走った。
その日は四年生が学園に戻ってきて研究発表などをする特別な一週間の最終日だった。この期間は学内を他校の生徒や企業などの学外の人が出歩くため、機会を逃すまいと在校生は学年に関係なく自己アピールしようと部活動などに励む生徒が多くいる。
オクタヴィネル寮のカフェでは集客を狙って考案した新メニューが大成功をおさめ、忙しく働いた甲斐があったと寮生達の気が少し緩んでいた。ホールやキッチンを仕切る立場のリーチ兄弟でさえ、ようやくこの詰まらない忙しさも終わるとわずかばかり気が緩んでいた。
モストロ・ラウンジの入り口の方が少しざわついているのを感じたジェイドは、最終日で客も疎らなこの状況で面倒な客でも来たのかと野次馬のように様子を見に行った。そして、海中にも関わらずラウンジ内に第一の激震が走る。
「ナマエさん…!!」
「…あっジェイドくん!ふふっ、久しぶりだね」
「あぁ…ずっっっっと、お会いしたかったですナマエさん」
「う〜ん、いつぶりだったかな?去年の夏に会ったきり?」
「ええ、8月29日です」
「日付まで覚えているなんて流石の記憶力だね」
「ナマエさんとのことですから」
目の前で繰り広げられる光景が寮生のみならず店内の人たちの視線を掻っ攫った。
有名な女子校の制服を纏った女性が豊満な肉体を惜しげなくジェイドに押し付けるように抱き合っている。しかも、相手を下から見つめて話す間も手が背中に回されたままだ。ありふれた感動の再会シーンなど反吐が出ると思う人もいる中、寮生の興味を引いたのは女性の方だけではない。
二人の仲が気になるところだが、割って入れば刺されるだろうことは容易に想像できる。客がいる限り店内に目を光らせていなければならない立場のジェイドがこの調子では自分たちでなんとかしなければならないと、重荷に感じながらも動く。
寮生が各々の考えで動き滞っていたホールの業務もようやく動き出した頃、変に感じたフロイドが様子を伺いに来た。びっくりする寮生の肩に腕を回しニンマリ笑いながら説明を求めるフロイドに、青褪める寮生。もちろん客からは四角になって見えないところで絞められた。
そして再び激震が走る。
「ナマエちゃん…!」
「フロイドくんも来てくれたの?」
「あああああ、会いたかったよ〜ナマエちゃ〜〜ん」
「ひさしぶり、フロイドくん」
「も〜〜なんで春の休暇に帰ってこねーの?」
「ごめんね、ちょっと遠いところまで行っていたから」
寮生達は目を見張った。
やがて二人の嬉しそうな様子に関わってはいけないと目を逸らし、業務に勤しむ事にした。このまま滞らせて営業に差し障りが出れば次は寮長まで出てきてしまう。二人のあの様子を見る限り寮長とも顔見知りの可能性が高い。
寮長も出てきたら面倒なことになるに違いない。そして、寮長まであんな姿になってしまったら…と、そこまで考えた寮生は弱みを握るチャンスではないかと一様に閃き手を抜くことにした。普通なら時間のかからないオーダーをゆっくり準備して少しだけ客を待たせるような、自分たちがあまり被害を被らない程度の事をした。
「少し騒がしいから見にきてみれば…こんなにオーダー溜めて何やってるんです?客が多いわけでもないし…ジェイドとフロイドは何をしてるんですか?」
「すみません。ジェイドさんとフロイドさんはあっちにいるんですが…」
「二人して出払うなんて、まったく…」
アズールが出入口の方へ行くのを見ていた寮生達は一様に「ついに来た!!!」と僅かに緊張しながら決定的瞬間を見逃すまいと、視線をやり耳をそばだて、スマホを構える者までいた。
もう少し、そこのパーテーションを過ぎれば例の場所だ。コツ、コツ、という時を刻むような足音の幻聴が寮生達の頭に響く。
スリー…ツー…ワン…来るぞ!!
「お前たち、一体何をしてるんです」
「もう来てしまったんですか」
「見たらわかるでしょー」
「はぁ、こんな事だろうと思いました」
思ってたのと違う。二人が女性を見た時に見せたような感情が表情にも態度にも現れない。もしかして、そこまで深い関係ではないのかと寮生たちの頭をよぎる。それでも、もしかしたらという可能性も捨てきれず彼らを盗み見た。
「着いたのなら連絡してください」
「ごめんね。連絡しようとしたんだけど、する前にこうなっちゃって…」
ほわわんと空気が柔らかく解けるような笑顔に寮生達は一瞬我を忘れた。そして、あれと気がつく。深い関係でないのかと思えば、リーチ兄弟以上に空気が馴染んでいる。嬉しそうに寮長に腕を絡める女性と、迷惑そうな顔をしながらも振り解こうとしない寮長。これは望んだものが見れそうだと気合が入る。
「なに、アズール知ってたんなら教えろよ」
「黙っているなんて酷いです」
「お前達に教えれば浮かれて仕事にならないと思ったんですよ」
「ごめんね?私が内緒にしてってお願いしたの。サプライズとか好きでしょ?」
「ナマエさんが僕の事を考えてくださったなんて!」
「
「全く…席に案内します。そこの二人は置いていきましょうか」
「ふふ、アズールちゃんイジワルだね」
瞬間、最大の激震が走った。
「"ちゃん"はやめてくださいと何度も言ってるでしょう」
「かわいい弟をなんて呼ぼうと私の自由でしょう?」
「せめて人前ではやめてくださいよ」
「呼ばれ方一つでどうにかなるような子じゃないから、だいじょーぶ」
子供扱いはやめてくださいと言う寮長の腕に絡み付き、たわわな胸を惜しげなく押し付け頭を預けて歩くお姉様の姿は寮生のみならず視線を奪った。そんな彼女のボディガードのように隙のないリーチ兄弟が後に続く。一瞬でもお姉様を見ようものなら誰だろうと鋭い視線で射抜かれ、各々が物陰に気を付けようと震え上がった。
海中に発生した渦のように人々の視線を絡め取った彼らはVIPルームの方へ消えていき、店内に流れる音楽が耳に届いて初めて自分たちの全神経が彼らに注力されていたのを知る。慌てて業務に戻る彼らの心臓は密かに早鐘を撞いていたが、気にしてはいられない。あの三人抜きできっちり業務を遂行しなければならないからだ。
この場合は、やってもやらなくても起こったことに対する責任は自分達が持たなくてはならない。スタッフとして働く以上はその仕事を全うしなければ、後で彼らに何をされるかなんて考えたくもない。
せめて忙しければ言い訳も出来たのにと不満を抱えながらもオクタヴィネルの寮生は各々業務に戻って行った。
「う〜ん、少し窮屈じゃない?」
「いいえ全く」
「ホント、狭いからジェイドあっち座りなよ」
「嫌です。狭いと思うフロイドが向こうに行けばいいのでは?」
彼女が案内されたのはVIPルーム。テーブルを挟んで皮張りのソファが二台ある。片側にアズール、反対側にナマエを挟むようにジェイドとフロイドがみっちりと鮨詰めのように座っていた。
リーチ兄弟がお互いにあっちへ行けとナマエの隣を奪い合う様にアズールは向かい側から呆れた視線を送った。二人が姉を巡って言い争うのはいつものことで、姉にしがみついているその腕を離せば窮屈に感じさせないだろうに。と、姉のことになると馬鹿になる二人を見て小さなため息をこぼした。
「そうだね、そうしよう」
「「あっ…/えっ…」」
「…お前たち、こと姉に関しては同じことを繰り返しますね」
「……どうしても譲れないんです」
「そーそー、ジェイドにもアズールにも譲れない」
ホールドする二人の腕からするりと抜け出したナマエは軽やかにアズールの隣に腰を下ろした。左腕に絡みつく姉の腕の感触にちらと見やれば、満足そうに口が笑んでいる。その手にそっと手を重ねてやれば笑みを深くする自分の姉に、やれやれとため息を吐きたくなる思いで目の前の二人へ顔を向けた。
ナマエがいる手前、不機嫌を隠そうと必死に顔を作ってはいるが表情から滲み出る凶暴さは拭えていない。眼光鋭い笑顔のジェイドと文句を飲み込もうと食い縛るフロイドを前に、穏やかな笑みを崩さないナマエ。最初に話し始めた人が害を被りそうな空気にアズールが重い口を開いた。
「そういえばジェイド、茶葉を色々買っていましたが姉さんに振る舞っては如何です?」
「忘れていたわけではありませんよ、アズール。ナマエさん、今から僕の部屋に来ませんか?紅茶を入れますのでゆっくり二人きりでお話しましょう」
「オレの部屋でもあるからね。オレも行くー」
「二人は同室なんだ?いつも思うけれど本当に仲良しで素敵だね」
「でしょ?仲良しなオレらとゆっくりお話しよ」
「たまにはアズール抜きでお話するのもいいじゃないですか、ねえ?」
「ふふっ息もピッタリ!私たちも仲良し姉弟だよね、アズールちゃん」
「この状況で僕に振るのやめてもらえますか」
向かい側からの視線が痛いくらいアズールに刺さる中、ふっと息を吐いたジェイドが紅茶を入れに席を立った。楽しみに待っていてくださいと自らハードルを上げて部屋を出て行ったジェイドだが、きっとハードルなんて無い物のように易々と越えてくるのだろう。そう、フロイドは思った。
向かいに座る姉弟の睦まじい様子にフロイドは内心深いため息をついた。ナマエがアズールの腕に自らの腕を絡ませ会話する姿は映画とかで見る人間の恋人の距離感と一緒だ。
髪の色や質感、目の色から眼鏡をかけている所まで同じ二人は血縁者にしか見えないから、人間から見て恋人には見えないかもしれない。唯一違うのは体型と目の形くらいで、稚魚の時のアズールほどではないがそれなりに肉が全身についていて柔らかい。
そして、人の姿になった事で雄にはない胸の膨らみや尻の丸みに肉欲がそそられる。本人に自覚はないだろうが他所の雄にもああして体を密着させてる事を考えるだけで腹が立つ。フロイドは脳内に現れた顔のない雄を何度も絞めあげた。
「フロイドくんは何か陸で楽しいことあった?」
「ん、オレ?そーだなー、この前のキャンプは楽しかったかな」
「キャンプ?三人でしたの?」
フロイドは運動部のみで行われたキャンプ合宿を思い出しながらナマエに話した。とても楽しそうに聞いてる姿にフロイドも乗ってきて、部屋にフロイドの楽しそうな声とナマエの相槌のみが軽快な音楽のように響いていた。
と、そこに楽しい空気を割くようにジェイドが戻ってくる。話に水を差されたフロイドは怠そうに口が重くなった。ジェイドが戻ってくる前にこの話を終わらせようとしていたのに、間に合わなかったことも面白くない。案の定「何の話をされていたんですか?」なんて言うもんだから、話の主導権がジェイドに取られるのは明白だった。
「フロイドくんが山に興味を持ってくれたみたいなの!あ…ジェイドくんは知ってるよね」
「ええ、僕も知った時は今のナマエさんのように嬉しくて仕方ありませんでした」
「ジェイドくんは何か新しい発見でもあった?」
「発見と驚きばかりなんですが、どれも陸では図鑑で知ることが出来ることばかりなんですよね」
「私も調査団体とのギャップを感じているんだよ」
「くすっ、一人ではしゃいでしまってるんですか?」
「そこまで酷くはないよ〜。顔がにやけているみたいで、真面目にやるようにってよく言われるの」
ああ、始まってしまったとアズールとフロイドは分かってはいても止められない流れに、ナマエの楽しそうに話す姿を見て己の感情を抑えていた。彼女は陸の植物や土やそこに含まれる微生物に興味津々で、四年生になってから地質調査や研究などの団体に混ざり各地を飛び回っている。
専門的なことはあまり言わないから詳しくは知らないが、土を採取し肉眼や機械、魔法薬などを駆使して成分分析を行い土壌の変化などを調べているらしい。稀にその地でないものとされていた物が見つかったりして、驚きと発見でとてもわくわくするとナマエが興奮気味に話していた。
石の話題で盛り上がる二人の間に割って入ったのはアズールだった。フロイドはつまらなそうに天井を見上げている。
「そろそろ喉を潤しては如何ですか。ジェイドが持ってきた紅茶、姉さんも気になるでしょう?」
「あっ、ごめんね。夢中になっていたから…ジェイドくんが淹れてくれるの?」
「もちろんです。ナマエさんのために心を尽くしますので少々お待ちいただけますか」
細身で背の高いケトルを傾けると真っ白な湯気が立ち上った。魔法のかかったケトルから沸きたての湯が出ている。茶葉がティーポットへさらさらと落ち、湯が注がれた端から温かい茶葉の香りがやんわりと鼻腔をくすぐった。
全員の前に深い飴色の紅茶が注がれたティーカップと焼き菓子が並べられ、温かい湯気がふわわんと空気に溶けている。「いただきます」とナマエがそっとティーカップに唇をつけるのを全員が見ていた。
「草の香りが強い紅茶だね。春にジャングルの奥を調査したときを思い出すなあ」
「ナマエさんを思ってブレンドしてみました。草いきれの話を楽しそうにされていたので楽しんでもらえるかと思いまして」
「うんうん、あの顔を覆う熱気と草の匂いを思い出すよ。ありがとう、ジェイドくん」
アズールは草の匂いのする紅茶は店には出せないなと思い、どうせなら店のコンセプトに合った上品な香りかもっと華やかな香りのブレンドを作ればいいのにと脳内で文句を言う。姉さんが帰ったら忘れずにジェイドに言ってやろう。
フロイドは箒から落ちた時を思い出して顔を顰めた。箒が暴れて僅か数センチの高さではあったが、頭から落ちた時に香ってきた草の匂いに似ている気がする。一口舐めた程度で飲むのをやめ、甘いお菓子をサクサクと食べ始めた。
ジェイドは思惑通りにナマエが自分に笑顔を向けてくれて満足していた。大好きな女性からの賛辞に心は弾み、可愛らしい笑顔に胸が温かくなる。今日はいつもよりナマエが自分に笑顔を向けてくる事が多くて嬉しいなと、間もなく終わる貴重な時間を噛み締めた。
「このカップもジェイドくんが選んだの?」
「……いいえ、ラウンジの什器は全てアズールが選びました」
「ええ、それも僕がこだわり抜いて選んだカップです」
「アズールちゃんの目利は流石だね。見た目の品の良さだけじゃなくて口当たりもいいし、紅茶を楽しむのに最適」
「五感全てで楽しめるよう選んでいますから」
ジェイドはフロイドの隣で深く座り直すと小さく息を吐き、僅かな間だけでも自分に向けられていた視線を脳裏に浮かべて紅茶を飲んだ。草の匂い立つ森林をナマエと二人で歩く。木の葉の隙間から差し込む光が彼女の
ソファに凭れていたフロイドはふと顔の上に乗せていた帽子をちらと持ち上げて隣へ視線を向ける。ティーカップを手にしたままカップの中を静かに見つめている兄弟の姿にひいた。僅かに持ち上がる口角を横目にまた変な妄想して一人で楽しんでんなと、よく飽きずに無意味な現実逃避するよなと顔を顰める。
とはいえ、目の前のアーシェングロット姉弟の睦まじい様は面白くはない。お菓子を食べるのにも飽きたし紅茶は好みじゃないし、ラウンジに戻るのも怠いから部屋に戻ったっていい。それでもフロイドがこの部屋を出て行かないのは、大好きなナマエといられる時間をなくしたくないからだ。
それはジェイドも同じで、間に割って入るのは簡単なのにそうしないのはナマエが楽しそうにアズールと話しているからだ。自分達を放ってアズールとばかり楽しそうにしているのは面白くないが、ナマエの楽しそうな顔を曇らせたくはない。矛盾する気持ちに二人は苛まれ次第に空腹を感じ始めた。
「…ごめ〜ん」
「……すみません。お腹が鳴ってしまいました」
「ふふっ健康的なお腹だね」
「お恥ずかしい」
空気を読まないお腹の虫が二匹、元気よく鳴いて会話を遮った。リーチ兄弟はお腹の虫まで息ピッタリで、恥を捨てて豪快に鳴いてくれたお陰で楽しい空気はそのままに話を中断できた。しかし、空腹感がおさまったわけではない。また鳴ってしまいそうなお腹に喝を入れ堪える。
ナマエは腕時計を確認すると、そろそろ帰ろうかなと言った。一緒にご飯を食べようと思っていた二人はもう帰ってしまうのかと焦る。そも、ナマエがラウンジに寄ったのは学園への用事のついでに立ち寄っただけで弟達に会うために来たわけではない。
それを理解しつつもまだ一緒に居たかった。美味しいご飯作るから食べて行ってと懇願する二人に姉が困っているからやめろとアズールが割って入ると、苦虫を噛み潰したようにナマエの手を離した。
「二人が作る美味しいご飯、とってもとっても食べたいんだけれど…まだこの後も行かなければならないところがあるから。本当にざんねん…」
「二人が居なくなるわけじゃないんですから次の休暇にでも作って貰えばいいんですよ」
「ええ、ナマエさんのためなら現地に赴いて料理を振る舞ったっていい」
「いいねーそれ!もし忙しくて帰って来れなかったら、オレらが行けばいいじゃん。ジェイド冴えてる〜」
「とっても賑やかな調査になりそう」
別れ際に見るのは明るい笑顔の方がいい。二人は物足りなさはあれど笑ってくれたナマエを笑顔で見送ろうとした。じゃあねと手を振るフロイドの腕に柔らかい腕が絡み付き、その場のナマエを除く全員が目を見張った。フロイドも驚きと嬉しさで言葉にならない言葉を発している。
今までずっと澄ました態度をとっていたアズールも自分が送る気でいたために目を何度か瞬かせ、そして、ゆっくりとナマエへ近寄りフロイドに腕を絡めているのもお構いなしに姉の頬に触れた。
「姉さん。僕はちゃんと姉さんのこと愛していますよ」
「ありがとう、アズールちゃん。私もこの世界で一番アズールちゃんのことを愛してるよ」
「………挨拶をしても?」
ナマエはアズールへ顔を向けると静かに瞼を閉じた。寄せられた唇がナマエの唇に優しく触れ離れていく。嬉しそうに微笑むと「ジェイドくんも挨拶しましょう」と呼び付けて、同じようにキスをした。
とても静かで厳かな儀式が行われているような時間はナマエとフロイドが出て行っても続いている。二人は寂しいような悲しいような顔で出入口を見つめた後ソファに深々と座り直し、ジェイドもまた同じように向かい側に項垂れるように深々と腰掛けた。
二人はナマエを治してあげたいと考えつつも、ああして甘えてくるのも捨てられないまま有耶無耶にしてきた事を後悔し始めていた。ナマエが寂しさを感じないよう、愛されていると感じられるよう配慮していかなければならないと、アズールは眉間に力が入るのを感じて目を閉じた。
客足も落ち着いた店内に再び嵐が戻ってきた。そう一瞬思った寮生達は二人の雰囲気の違いに何があったんだろうかと気になった。寮の奥へと消えて行ったときは気持ちのベクトルがフロイドからお姉様へ向いていたはずなのに今は逆を向いているみたいだ。
甘えるようにフロイドの腕に絡みつくナマエは、うっとりとした表情で体を預けるように歩いている。一方フロイドは、顔を硬らせて何かを我慢するように一切お姉様を見ようとせずに、黙々と出口へ歩いていた。
気になったのは自分の前を過ぎ去るまでの短い間で、きっと何かあったのだろうがフロイドの表情の原因はきっとお姉様には無いのだろうと彼らは判断した。なんにせよ自分達には関係のない事だと、お姉様が入店した時のように探る視線を送ったりはしなかった。
「それじゃあ、またね、フロイドくん」
「うん…ねぇナマエちゃん、挨拶ってすんの?」
「したく、ないの?」
「そうじゃねーけど…挨拶なんかしなくたって、オレもアズール達だってナマエちゃんのこと嫌いになんかならねーしさ……それじゃあダメなの?」
これほどに悲しそうな顔をしたフロイドを生徒達が見たら両目が飛び出してしまうくらい驚いただろうが、ここはフロイド達しかいない鏡の間だ。ナマエに縋るような手付きでそっと抱きしめた。ふるっと彼女の体が震え、背中に小さな手が添えられた。
抱き返してくれても素直に喜べないフロイドは肩口に頭を埋めるようにして囁き続ける。それを静かに聞いていたナマエの腕に力がこもり、フロイドはじわじわと体が絞めあげられていくような感覚に言葉を詰まらせながらも言葉を止めることはなかった。
「ナマエちゃんのこと、大好きだから。だいじょうぶ、だよ。オレも、アズールも、ジェイドも。みんな、ナマエちゃんのこと…ずっと…ずっと、愛してるから。だからさ…不安になる必要、なんて…ぜんっぜん無いんだよ…」
「フロイドくん…」
掠れた声がナマエの腕の力を緩めさせた。そっと離された体の隙間から見上げるナマエの瞳はいつもと変わらなくて、一種の呪いのようなものをかけた奴への憎悪が再び腸を煮えさせる。
ナマエは背伸びをすると、少し屈んだフロイドへ友愛のキスをし「またね」と言って闇の鏡へ溶けて行った。その後ろ姿は、未練なんて微塵も感じられないほどに颯爽としていた。