ステップを踏む


 放課後、グリムがエース達と一緒にゲームをすると言って彼らの寮に遊びに行ってしまった。私も誘われたけれど、今日はフロイド先輩が来るからと断った。
 まあ、気が変わらなければの話だけれど最近よく遊びに来るのだ。グリムも最初の頃は私(子分)を守ろうと先輩に反抗していたけど、最近はあっさり寮を出て行ってしまう。何度も先輩に負かされて追い出されていたから、トラウマになっているのかもしれない。
 最初の頃は守るも何もひどい事をされてるわけでもないと何度説明しても、子分がいなくなったらオレ様が学園に居られなくなると言っていた。だから、今では何もないと警戒を緩めているんだと思う。

 先輩が来るまで部屋で今日の復習でもしていようと、魔法史のテキストを開くと急に日が陰り激しい雨が窓を叩いた。部屋の灯りと机上のライトを付け、机に戻り復習を再開した。
 突然、バタンと雷でも落ちたのかと思うほどの音が響いた。先輩が来るのも忘れて勉強していたことに、慌てて階段を降りて玄関に行くとびしょ濡れになったフロイド先輩がいた。

「もう〜さいあく〜〜」
「フロイド先輩!いまっタオル持ってきます!」

 私は一階のバスルームに駆け込み、悩みつつもバスタオルを取り出した。先輩の髪からは水が滴っていたし、制服もカラスの羽のように色が変わっていた。待っててもらうよりバスルームに案内した方が良かったかもしれないなんて考え、バスタブの蛇口を捻ってから玄関に向かった。

「うわっぷ!」
「ねぇ小エビちゃん。オレ早く服脱ぎたい〜体に張り付いてて、ちょー気持ち悪ぃ」
「今バスタブにお湯を張ってるので、とりあえずそこの椅子に座ってください!」

 廊下でぶつかってしまったフロイド先輩は既にブレザーを脱いでおり、私の前髪がしっとりしてしまうほどシャツまでぐっしょりだった。校舎から寮までの道のりは遠いけれどここまで濡れるほど雨が酷いんだなと考えながら頭にタオル被せてわしわしと拭いた。
 髪を拭きながら思ったのは、低い椅子に座ってもらったのに頭の位置が丁度胸の辺りで、なんとなく恥ずかしくて拭きにくく感じること。それから、ついノリでやってしまったけれど嫌じゃなかっただろうかという不安だ。

「…なんか上手くない?」
「飼い犬をシャンプーしたことがあるの、で…」

 犬と一緒にしてるわけじゃないけど、そう取られてもおかしく無い言い方に失礼だったと気付いて慌てて訂正したけれど、先輩はふーんと言って立ち上がってバスルームまで案内するよう言うだけだった。さすがに犬と一緒にしてるなんて勘違いはされなかったのかもしれない。
 まだお湯は溜まってない。それでも濡れた服のままいたら風邪を引いてしまうかもしれない。ずぶ濡れになるような経験がないから考えが至らなくて、先輩に申し訳なく思った。

「別にシャワーなんか浴びなくても寒いのには慣れてるから風邪なんか引かないよ。小エビちゃん心配し過ぎ」
「そ、そうなんですね。じゃあ、制服はどうしますか」
「そんなん魔法で水分取ればいーよ」
「あ、じゃあ私は外に出てますね」

 てっきり雨で冷えた体を温めるためにバスルームに案内するよう言ったんだと思ったけど、服を脱ぐためだったようだ。私に気を遣ってくれたのだろうか。
 先輩をバスルームに案内して、出していたお湯を洗濯用にしようと考えながら止めた。私が出るまで脱ぐのを待っていてくれたことに心の中で感謝しながら談話室で待ってる事を告げれば、脱衣所と浴室を仕切る扉に手を突いて出口を塞がれてしまった。

「ねーえ、そんなに心配ならシャワー使わせてもらうけどさぁ…一緒に入る?」
「なっ!何言ってるんですか!?入りませんよ!!」

 ワイシャツを脱ぎかけの先輩の体を押し除けるようにして脱衣所の外に出た。ピシャリと閉めた脱衣所の扉越しにけらけら笑う声が聞こえて、猛烈に恥ずかしくなった。普段意識しないようにしているのに、あんな姿であんな事言われたら焦る。それに免疫というものがないのだから、過剰な反応もしてしまう。
 フロイド先輩は距離が近い。もちろん最初からじゃなかったんだけれど、廊下で声を掛けられる回数が増え、腕を引かれるようになり最近はギュって抱きつかれるようになった。
 最初、先輩に後ろからギュってされた時は一緒にいたグリム達の方が驚き慌てていたので少し冷静でいられた。あの時は、あまりに騒ぐから先輩にうるさいって睨まれて可哀想だった。
 普段から近いので変に意識しないようにしていたのに、ああいう事を言われてしまうとどうしても意識してしまう。変に思われて、今の関係が無くなってしまうのが怖かった。けれど、いつかは飽きて離れて行ってしまう日が来るかもしれない。そんなの、嫌だな。

 うるさい心臓を無視してキッチンへ向かってお湯を沸かした。お湯が沸くまでの間に気持ちが鎮まってくれて良かった。

「小エビちゃん紅茶いれんの?」
「せ、先輩!早かったですね!」
「服乾かすだけだし」
「まだ髪濡れてますよ?」
「小エビちゃんに拭いてもらおーと思って」

 にこにこした笑顔で「お願い♡」と言う先輩が可愛くて、さっきの恥ずかしさとかがぶり返してきそうで必死で表情を無にする。なんだっけ、ずっと素数とか数えたらいいんだったか。
 談話室のソファに座ってもらい、髪を拭く。素数を数えるつもりが途中で分からなくなって、先輩の綺麗な海色の髪を拭いてるなんて、まるで同棲カップルみたいとか考えてしまった。
 自意識過剰な妄想に胸がきゅんとしてしまって、それ以上は考えないように無心で先輩の髪を拭く。

「小エビちゃん、なんか怒ってる?」
「いえ、全く怒ってないです」
「ええー、もういいや。あとは自分でやるよ」
「えっあ…えっと、それじゃあ紅茶いれてきますね」

 私に頼んできた時より声の温度が低くなったような気がした。自分の感情を抑えるのに必死で拭き方が雑になって勘違いさせてしまったのかもしれない。少しだけ反省しながらキッチンから持ってきた紅茶を用意した。
 先日教わった通りに紅茶を入れると、やっぱり香りや色が違う。カップに注ぐと優しい香りが立ち昇り、空気をも柔らかくするような錯覚に陥った。教えてもらってよかった。

「…小エビちゃん紅茶いれんの上手くなったね」
「嬉しいです!前に美味しくないって言われたから練習しました」
「ジェイドがいれる味に似てる〜」
「さすがですね!ジェイド先輩が紅茶いれるの上手だと聞いたので、教わったんです」
「は?」

 あったかい紅茶を飲んで空気が和らいだ気がしたのに、一瞬で凍ってしまった。どうやら、地雷を踏んだのかもしれないけれど何が悪かったんだろう。他人を頼ったのが悪かったのだろうか。兄弟の真似するなって事だろうか。全然分からなくて、混乱する。どうしたら機嫌を直してくれるだろう。

「オレ知らないんだけど」
「え、えっと、先輩に内緒で上手くなりたかったので」
「それはいーんだけど、オレの知らないところでジェイドに会っちゃダメだから」
「フロイド先輩に許可を取れって事ですか」
「許可とかそーいうんじゃなくてさー」

 先輩が言いたいことを全く理解できない私に眉をひそめる。必死にどういう事かと可能性を考えたいけれど、何も浮かばなくて戸惑うばかりの私を先輩が抱き締めてきた。
 正面から背中を丸めて抱きついてきた先輩の頭が私の顔の横にあって、頭の混乱は丸ごとどこかに吹っ飛んでいく。先輩のピアスが私の耳元で小さなを立てた。

「ジェイドと二人きりになんないでっていう意味」
「…グリムもエース達だって一緒でしたよ」
「じゃあオレが一緒にいない時にジェイドに会っちゃダメ」
「それは、廊下で挨拶する時も?」
「もーー!なんでオレがこんなこと言ってんのか全っ然分かってねー!!」

 これ以上は鈍感な小エビちゃんには教えてあげないと、つんと拗ねたような声で言う先輩の態度に私は一体どうすればいいのだろう。
ジェイド先輩の方に何かあるのだろうか。まさかジェイド先輩が本当は私を良く思ってないから、嫌がらせしないでってことなんだろうか。
 そうだとしたら、教わってた時の笑顔は無理させていたってことだろうか。脳内がネガティブになって働かない私に、先輩が再び私に向き直って正面から見つめてきた。
 眉根を寄せてる表情は変わらないけれど、先輩の顔は整ってるなと思考が破綻した頭で考えていると、先輩は徐々に真剣な顔になった。

「オレが知らない所でジェイドと二人きりにならないで。いい?」
「は、はいっ」

 よく分からないまま返事をした私に、言質をとったというように満足げに表情を和らげ、再び抱きしめた。引き寄せられ、先輩の胸に顔を寄せる形になった。なんとなく雨のような匂いがして、ちょっとずつ、それとは違った温い匂いがして恥ずかしくなる。
 心臓がバクバク鳴っていて、これ以上、先輩を意識したくないのに伝わってくる温もりが嬉しくて、離れられない。こういうことをしてくるから、先輩を好きになってしまうんだ。でも、期待しちゃいけない。
 おずおずと先輩の背に腕を回してみると、更に強く抱きしめられ息が詰まりそうになる。緊張で何も聞こえない耳に、先輩の鼓動が伝わってきた。私の心音が先輩の心音と同じテンポで、どくんどくんとステップを踏んでるみたいた。
 少しでもフロイド先輩が私のことを意識してくれて、いつか私のことを好きだって思ってくれてたら嬉しいな。


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